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〈咸享酒家〉は、西武新宿駅ぞいを走る通りの歌舞伎町側で派手な電飾をきらめかせている。元成貴が表の顔で経営している高級上海料理屋。堅気の日本人か金のある中国人しか相手にしない。
自動ドアを擦り抜けて店内に入った。待ち構えていたチンピラが両脇から挟むようにして身体を素速く探った。武器を携帯していないことを確認すると、おれを二階の個室へ連れこんだ。
「遅い」
元成貴。相変わらず、金のかかったスーツを一分の隙《すき》もないといった感じに着こなしている。上品なオールバックに撫でつけた髪は一筋の乱れもなく、極力口を動かさないようにと腐心しているかのようなしゃべり方をした。
「たったの二分だ」
おれはわざとらしく腕時計に目をやりながら答えた。元成貴の右脇に侍《はべ》っている孫淳《スンチュン》がじろりと睨んできた。孫淳は、名前を聞くだけでだれもが怖れをなす殺し屋だ。元成貴のために殺した人間の数は五人をくだらないだろう。音もなく現れ、本人が死んだと気づかないうちに立ち去るといわれている。元々は人民解放軍の特殊部隊の兵士だったらしい。天安門事件のときに、市民に発砲しろと命じた上官を殺して脱走したという噂がまことしやかに流れている。噂の真偽がどうであれ、孫淳が剣呑《けんのん》きわまりない殺し屋であることに変わりはない。おれの背中は汗でびっしょり濡れはじめていた。
「二分あればいくら稼げると思うんだ?」
細い目でおれを睨《ね》めつけながら、元成貴は中華商人のお決まりの台詞を目にした。
「おれを呼びつけたのはあんたの方だ」
おれはやつの真向かいの椅子に腰をおろした。テーブルの上にはすでに料理が並べられていた。崔虎に殴られてできた口の中の傷が痛んだ。食欲なんてどこにもなかった。
「崔虎から電話があった」
元成貴がいった。感情をいっさいうかがわせない声だった。
「へえ」
「おまえに貸しがあるそうだ。五体満足でなければ、その貸しは返せない、とな」
「ああ。おれの名義を使ってマンションを借りる仕事、崔虎にも利用させてやることになったんだ」
「北京のやつらとつるむつもりか?」
声が少しばかり尖っていた。鼻の穴がかすかに膨らんでいた。品のいいビジネスマンといった風情を装いたがる元成貴だが、ひと皮剥けば、崔虎と瓜二つのやくざものでしかない。
元成貴が初めて歌舞伎町に現れたときのことはよく覚えている。やつはとうの立った留学生で、てっとりばやく稼ぐためにこの街に足を踏み入れたのだ。親戚筋かなにかから紹介されたのだろう、でたらめな地図が描かれた紙きれを手に、おどおどした視線をあちこちに走らせていた。だれが見たって、ただのカモだった。
ところが元成貴はただのカモじゃなかった。貧乏な留学生の仮面の下に、よく回る冷徹な頭脳を隠し持っていた。その当時は、台湾の流氓たちの姿が減りはじめ、かわって上海や福建のやつらが歌舞伎町に流れこみはじめていた。大陸からやってきた新しい流氓たちは、四、五人で徒党を組んでパチンコ屋を荒らしたり、飲み屋からみかじめを取るぐらいの可愛い存在だったのだが、元成貴がそれを変えた。やつは、ばらばらだった上海人を一つにまとめた。金の力で、だ。やつの頭の中には金を生みだす魔法の設計書が眠っていたのだ。
やつはまず、大陸系の蛇頭《ショートゥ》と話をつけた。不法入国者の受け入れ先になってマン・パワーを確保するとともに、そいつらが後生大事に故郷から持ちこんできた金品を吸いあげるシステムを作りあげた。ついでに、新しくやってくるやつらにドラッグや銃器を運ばせる手はずをつけるのも忘れなかった。そして、ある程度金が溜まったところで、やつは表の世界にも手をのばしはじめた。レストラン経営を手始めに、貿易、人材派遣、金になることはなんでもやった。いまじゃ、銀行のお偉いさんとランチを食いにいくほどの大物実業家という仮面を手に入れている。
昔、やつがまだカモと見られていたころ、おれはやつに飯をおごってやったことがある。別におれに先を見通す目があったというわけじゃない。数が増えてきた上海のやつらと絆《きずな》を深める手はずを模索していてやつにぶつかっただけのことだ。やつは大物になった後でもそのことを忘れなかった。とはいっても、なにかをねだったりしたらおれは即座に死体にされていただろう。やつにとって義理というのは、金を稼ぐシステムが円滑に進行するためにかかわらなきゃいけない面倒ごとというに過ぎないのだ。分をわきまえてさえいれば、おれが上海人の間を巧みに泳ぎ回って小銭を稼ぐことに目をつぶってくれる。やつが恩を忘れないというのはそういうことだ。
「今までずっと仲良くやってきた連中が、いい分を聞こうともしないでおれを痛めつけようとしてるって噂を聞いたんだ。おれも、保険をかけておくぐらいの頭を使わないと生き残れないからな」
おれは煙草に火をつけた。視線はテーブルの上の料理に落としておいた。元成貴は目を見つめられるのを極端に嫌う。
「楊偉民はかまわないといったんだぞ」
「楊のじじいなんかクソ喰らえだ」
元成貴は驚いたような顔でおれを見た。それから小さく首を振り、抑制の利いた声で訊いてきた。
「おれは、呉富春《ウーフーチュン》の隠れ場所を知りたいだけなんだよ、健一」
「知らない。昨日、楊偉民から聞いて富春が戻ってることを初めて知ったんだ。嘘じゃない」
「おまえたちは、実の兄弟みたいに仲がよかった。もし本当に富春の居場所を知らないとしても、連絡はあったはずだし、どこにいるか想像することはできるはずだ」
「一緒に仕事をしていただけだ。おれはあいつの家も知らなかった」
嘘だ。富春とであった翌日には、おれはあいつのねぐらを探りあてていた。だが、おれからは決して連絡を取らなかった。金がなくなると、富春の方からおれに連絡を入れてきたのだ。そのことを元成貴は知っているはずだった。そして、おれが富春のねぐらを知っていたことを元成貴は知らない。
「嘘だ」
元成貴はいった。いってみただけという感じがありありだった。おれはだめ押しをすることにした。
「富春があんたと揉めるずっと前に、おれたちはコンビを解消した。そのことはあんたもよく知ってるはずだ」
やつが渋々とうなずくのを横目で見ながら話を続けた。
「富春があんなことをしでかした後も、おれはあんたに協力してあいつの行方を探したはずだ。忘れたのかい?」
「よし、わかった」
おれの言葉を断ち切るように、元成貴はいった。なにもわかっちゃいないくせにだ。
「崔虎から横槍が入ったこともある。今日のところは帰してやろう。ただし——」
元成貴はものわかりのいい大学教授のようなしゃべり方をしていたが、いきなり立ちあがって、家事をしたことのない女を思わせる指をおれに突きつけた。
「おれはおまえの言葉を信じたわけじゃない。おまえは呉富春の居所を知っているんだ。いいか、三日だけ時間をやる。あいつをおれの前に連れて来るんだ。生きていようが死んでいようがかまわない。三日後の同じ時間に必ず連れて来い。それができなければ、おまえは死んだも同然だ」
「崔虎は気に入らないだろうな」
「北京の根性なしがどうしたというんだ?」
元成貴の目は冷ややかだった。どう転んでも、おれには富春を掴《つか》まえるしか方法はなさそうだった。
「わかったよ。やれるだけやってみるさ。富春を見たという男と話をさせてくれるかい?」
「いま、出張《でぼ》ってる。あとで電話をさせよう」
「いろいろと動いてるから、携帯電話にしてくれ」
おれはそういうと、席を立った。
「慌てるなよ、健一。せっかくつくらせたんだ。飯を食っていけばいい」
「食欲がないんだ」
元成貴は勝ち誇ったように薄く笑った。なにかいい返そうかと思ったが、やめにした。孫淳が刺すような視線でおれを睨んでいた。そういえば、富春は孫淳の目をかすめて元成貴の片腕を殺したのだ。根に持っているに違いない。救いがあるとすれば、孫淳は元成貴の側を決して離れないということだ。こんなやつに周りをうろちょろされた日には、おちおち寝てることもできなくなる。
おれはのろのろとした足どりで個室を出た。来たときと違って、見送りはなかった。