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考えなきゃならないことが山ほどあった。こういう時にはサウナで汗を流すといい考えがひらめくことがある。おれは西武新宿駅沿いの通りを北へ向かった。咸享酒家から行きつけのサウナのあるグリーンプラザ・ビルまでは一分もかからない。
日曜の昼間のせいか、サウナはすいていた。ロッカーに服を放りこみ、備え付けのパンツをはいた。ロッカーの扉の内側に取り付けられた鏡に、引きつれた傷が映った。臍《へそ》から斜め上に向かって三センチほどのびた傷。おれは傷あとを軽く指先で弾いた。タオルですっぽり頭を覆って、スチームの熱気が渦巻くサウナ・ルームに向かった。座禅のように足を組み、ひたすら汗を流すことに専心した。頭の中はめまぐるしい勢いで回転していたが、いい考えは一向に浮かばなかった。おれは富春とはなるべく個人的な関りをもたないようにしてやってきた——富春のことはなにも知らないのだ。
ときおり入ってくる堅気の客が、おれの腹の傷にちらちらと目を走らせ、やくざには見えないおれにどうしてそんな無気味な傷があるのかという怪訝《けげん》な面もちを見せながら、おれからは遠い場所に腰をおろすのを、なんとはなしに感じていた。
堂々巡りする思考に嫌気がさして、おれはいつしか傷のことを考えていた。初めて人を殺したとき、殺した相手にやられた傷だ。おれは十七で、そいつ——呂方《リューファン》は十五だった。
そのころのおれは、進学問題で悩んでいた。おふくろはとっくの昔に——おれが十五の時に男を作って出奔していて、高校の学費は楊偉民が出してくれていた。おれは大学へ行きたかった。自分には腕力も度胸もなく、強持てではなく、頭を使った生き方をする以外ないとわかっていたからだ。楊偉民は台湾大学へ進学するのなら学費をだしてやろう、といった。おれの北京語は会話だけなら充分通じるようになっていたし、なにより、台湾へ行けば楊偉民たちが決しておれに教えようとしなかった台湾語を学ぶことができた。楊偉民もそろそろ本気でおれを本当の身内として迎える気構えになっていたらしい。しばらく台湾で暮らし、台湾の文化や習慣を身につけ、台湾の女を妻に迎えるという線路に、おれを乗せようとしていたのだ。
おれにとっては渡りに船のはずだった。そのころには、自分は日本人ではなく在日の華僑《ファチァオ》なのだという意識が強くなっていた。新宿を根城にする台湾人にとって、楊偉民の身内に入るということはなによりも心強い支えになるはずだった。だが、おれは迷っていた。おれの身体の中に流れるおふくろの血が待ったをかけたのかもしれない。頭のどこかで台湾を�異国�と考えるおれがいた。台北には楊偉民の知人がごまんといるという話だったが、十八の若い身空で異国の地でひとり暮らすというのは、どうにも気が滅入《めい》る事件だった。おれは新宿の台湾人社会にやっと慣れ、台湾人がおれに向ける笑顔の中に決して心を許してはいない他所者《よそもの》を見る目が混じっていることを確信しながらも、その空気にじっとりとひたっているのが心地好いと感じるようになっていたのだ。
迷いに迷いながら、おれは昼間は学校、夜は楊偉民の甥が経営している中国料理屋で通訳兼ウェイターのバイトをして、決断までの時間を潰していた。そんなおれに、なにかと因縁をふっかけてきたのが、呂方だった。
呂方。ナイフの名手で、年少だったにもかかわらず、新宿|界隈《かいわい》の台湾人不良グループの頭《かしら》に収まっていた。そのグループは、コマ劇場前の広場にたむろするトルエン狂いの日本人のガキどもに対抗するために作られた組織だった。最初は、おれと同い年のやつが牛耳《ぎゅうじ》っていたが、いつの間にか呂方に取って代わられていた。元のボスは呂方のナイフで手の腱《けん》をズタズタにされ、ママの胸へ大声で泣きわめきながら逃げていったという噂だった。
チビの呂方。顔全体が小づくりで、さらさらの髪の毛と小さな目鼻、色の濃い唇、滑らかな顎の線——遠くから見ると小さな女の子にしか見えなかった。両親は間抜けで、日本人にうまい話をもちかけられ、全財産を騙《だま》し取られていた。呂方の一家は、楊偉民に養ってもらいながら、四畳半のアパートで最低の生活を送っていた。楊偉民は呂一家のような家族を大勢抱えていた。それぞれの家庭に必要最低限の金を与え、残りの生活費は家長の裁量に任せるというのが楊偉民のやり方だった。
貧乏でチビで、女みたいな顔をした呂方はコンプレックスに凝り固まったクソ野郎だったが、残虐さとナイフの使い方に関しては右にでる者がなかった。トルエンでラリった日本人のガキを襲撃しているほかは、いつも子分たちをナイフで嬲《なぶ》っては目を濡れ光らせていた。
呂方が密かに心を寄せていた女に手を出してしまった馬鹿がいた。そいつは顔をボコボコに腫らし、手足の筋を切られて大久保公園に転がっているところを発見された。おれが見つけたのだ。おれはすぐに、そいつのズボンの股間がドス黒く濡れていることに気づいた。はじめは小便を洩らしたのかと思ったが、血だった。呂方はそいつのペニスを茸《きのこ》のように縦に切り裂いていたのだ。おれがそいつを肩に担いで親のところへ運ぶ間、そいつは口の中でブツブツと狂ったように呂方へ許しを乞う言葉をつぶやきつづけていた。糞の匂いがプンプンと立ちこめ、おれはそいつを放りだして知らん顔をするという誘惑と戦うのに精一杯の自制心を喚起しなければならなかった。あとで聞いた話だが、そいつの括約筋はずたずただった。呂方が手下に命じてそいつのおカマを掘らせたのだ。そいつとそいつの一族は数日後に台湾へ逃げ帰った。
問題になった女も、一度だけ見たことがある。髪の毛と眉毛をすっかり剃られた顔を歪《ゆが》めながら、呂方の手下に見張られてたちんぼうをさせられていた。屈んだだけでケツが見えてしまいそうな短いスカートをはかされ、客が交渉をはじめるたびにスカートをめくられ、頭と同じように奇麗に剃りあげられた股間をさらけだされていた。その女は、しばらくして連れこみホテルで殺された。ネイヴィのアメ公の変態にやられたという話だった。女の母親も自殺したが、だれも呂方にはなにもいわなかった。おまわりも来なかった。楊偉民の知るところであれば、呂方は歌舞伎町から叩きだされていただろうが、ちょうどそのとき、楊偉民は仕事の揉めごとをまとめるために台湾へ戻っていた。楊偉民が戻ってきたときには、呂方に焼きを入れられた馬鹿と家族は台北に逃げた後だったし、女と母親は埋葬された後だった。楊偉民に告げ口するやつはひとりとして現れなかった。おれも、ずっと口をつぐんでいた。
呂方はおれを目の敵にしていた。同じ楊偉民に養ってもらっている同士でありながら、おれと呂方の立場はあまりに違いすぎた。しかも、おれは日本人との間の半々《パンパン》だ。呂方はおれを見るたびに怒り狂っていたに違いない。楊偉民とその身内が目をつけているのが、おれという人間ではなく、おれの日本人としてのバックボーンだということに呂方は気がつかなかったのだ。
呂方はいつも、そっとおれの後ろに立った。ナイフを模した指をおれの背中に突きつけ、「これで何回死んだことになるんだ、薄のろの半々め!」と本人はドスをきかせているつもりの甲高いテノールの声で囁くのだ。呂方はおれのことを憎みきっていたが、決して手はださなかった。そんなことをすれば、楊偉民の逆鱗《げきりん》に触れて一家が路頭に迷うことは目に見えていた。言葉でおれをいたぶることで、なんとか自分を抑制していた。
「おまえもおれの手下におカマを掘られたいんじゃないか? え、なにかいってみろよ、半々が」
口を開けばねちねちと嫌みを聞かされることがわかっていたので、おれはいつも薄笑いを浮かべて呂方を無視することにしていた。それが呂方の妬みをたぎらせていることはわかっていた。それ以外にやり方を知らなかったのだ。
呂方のグループが日本人のガキどもの待ち伏せをくらい、壊滅に近い打撃を受けたと聞いたのは、台湾大学へ進学することにしようと決めたころだった。ゲームセンターからの帰り道、金属バットや鉄パイプを持った愚連隊に襲われたのだ。襲撃を予想していなかった呂方たちはひとたまりもなかったらしい。腕、肋骨《ろっこつ》、鎖骨を折られ、口から血を流し、中には頭を割られ、脳漿《のうしょう》を撒き散らしたやつもいたということだ。おれは翌日の新聞を見てその夜に飛び交った噂が真実を告げていたことを知った。酷いありさまだった。いつも呂方たちにやられていたトルエンぐるいたちが、金で武闘派の愚連隊を雇ったのだ。だが、路上に転がった台湾人のガキどもの中に呂方の姿はなかった。仲間を見捨て、ひとり逃げだしたという噂がまことしやかに流れていた。実際そのとおりだったのだろう、事件から二、三日たっても、歌舞伎町で呂方を見かけることはなかったし、やられたガキどもの親や現場に居合わせなかった残りのクループのやつらが血眼になって呂方を探していた。
おれは楊偉民の甥の店のあと片付けをひとりでしていた。時間は十二時を少し回ったところだったろうか。終電を逃すまいと駅へ向かう酔っぱらいと、これからもうひと騒ぎやらかそうとする酔っぱらいたちの声で歌舞伎町の通りは賑やかだったが、店の中はしずまりかえり、テーブルや椅子の足が床を擦る音や食器が触れあう音がおれの鼓膜を震わせているだけだった。
ドアが軋《きし》む音がした。そっちに顔を向けると、赤いスウィング・トップにジーンズ姿の呂方が店の奥をうかがうようにつっ立っていた。いつもロックン・ロールふうのオールバックに撫でつけている髪が何日も櫛《くし》をいれていないというようにぐちゃぐちゃに乱れていた。顔は蝋《ろう》のように白く、目は擦り潰した唐辛子を流しこんだように血走っていた。
「なにしに戻ってきたんだ? みんな、おまえを探し回ってるぜ」
おれは呂方に声をかけた。どこか勝ち誇ったような声になっているのに、自分でも気づいていた。
「台北の大学に行くそうだな」
呂方のそこだけ異様に赤い唇がわなないた。おれの言葉なんかまるで聞こえなかったようだった。
「ああ」
おれはただ立ち尽くすだけだった。呂方の目から視線を外すことができなかった。神田川の水底に溜まっているどろりとした泥のように粘ついた狂気の光が、ドアの外から射してくるネオンの光を圧倒しておれの目をじっと見据えていた。
「半々のくせに……」
「おれのせいじゃない」
おれはいった。膝が震えていた。その場にへたりこんでしまいそうだった。呂方がするすると近づいてきた。おれは逃げることもできなかった。
「どうして楊偉民はおまえだけを可愛がるんだ?」
呂方の言葉は意味をなさなかった。おれの目と思考は、呂方の右手に握られた黒光りするナイフに釘付けになっていた。
「おまえ、あのじじいのあれをくわえてやるのか? ケツの穴を貸してやるのか? だから、可愛がられるのか?」
呂方の左手がおれの胸ぐらを掴んだ。ナイフの冷たい刃が頬に押しつけられた。おれは必死で顔を背けた。呂方はおれを殺すつもりだった。疑問を挟む余地はまったくなかった。
「答えろよ、半々」
「楊偉民が欲しいのは、お、おれの日本国籍だよ。わかるだろう? この国じゃ、日本の国籍があるだけでいろんな美味《おい》しいおかずにありつけるんだ」
ナイフが頬から離れた。おれはほっとしたが、呂方のどこか調子の外れた笑い声に安堵《あんど》の気持ちもかき消された。
「なるほど、そういうことか。じじいの目的はおまえの国籍だってわけか」
「日本国籍を持つやつが身内にいれば、なにかと都合がいいんだ。それだけのことさ」
おれは呂方のナイフを見つめていた。いつ、そのナイフがきらめいておれの喉が切り裂かれるのかと気が気じゃなかった。
「よし」
呂方がいい、鈍い光を放つナイフの刃がぱちんと音を立てて鞘《さや》におさめられた。おれは自分の目に映ったものが信じられなかった。
「おまえを殺すつもりだったけど、やめてやる」
呂方はおれにもたれかかるようにしたまま、おれの顔を睨みあげた。下半身がぴったりくっついていて、呂方の股間が固くいきりたっているのがはっきり感じられた。
「殺す代わりに、おまえに本当の台湾人になるチャンスを与えてやる」
「なんだって?」
本当に聞こえなかったのだ。犬のように荒い自分の息が、耳の中でがんがんとこだましていた。
「明日、おれたちを襲った日本人のボスを殺《や》る。おれと一緒にくるんだ。いいな」
おれは喘《あえ》ぐように首を振った。たった二人で殴り込みをかけるなんて、無茶もいいところだ。へたをすれば、二人とも殺される。あるいは、呂方がおれを見捨てて逃げるかもしれない。
「来なきゃ、いま死ぬだけだぞ、半々」
また、ぱちんという音がした。おれの目はナイフの刃に吸い寄せられた。
「どうするんだよ、半々。今ここで犬みたいに殺されたいか? それとも、おれと一緒に日本人を殺りにいって、本物の台湾人になるのか。ただじゃ殺さないぜ。手足の腱を切って、おまえのおカマを掘ってやる。歯を引き抜いてしゃぶらせてやる。目玉を抉《えぐ》って、そこにおれのをぶちこんでやる。どうする、半々?」
しゃべりながら、呂方は股間のものをおれの太股にぐいぐい押しつけてきた。
「い、行くよ」
おれは答えた。それだけいうのがやっとだった。
「そう来なくちゃな」
呂方はにたりと笑った。弱いものをいたぶるサディストの笑いだ。追いつめられた変態が開き直ったときに浮かべる笑いだ。今じゃそんな笑い方をする人間を大勢知っているが、そのときのおれにとっては、生まれてはじめて見るおぞましさの象徴のような笑みだった。しかも、その笑みはおれに向けられていた。
呂方は笑いながらおれの股間をまさぐった。おれは驚いて視線を落とした。おれの股間は呂方に負けないぐらい猛っていたのだ。
「興奮してやがる。思ったとおりだ。おまえは男にいたぶられるのが好きなんだ」
おれは首を振った。あまりに弱々しすぎて、呂方にはぜんぜん通じなかった。
「しらばっくれることはないさ。なんなら、今ここでおまえのおカマを掘ってやろうか?」
「やめてくれ……」
おれは泣いていた。呂方のナイフを奪いとって、張り裂けんばかりに怒張している男根を切り落としてしまいたかった。
「そうだな……楽しみは後に取っておくか。明日の同じ時間、ここに迎えにくる。逃げるなよ。必ず探しだして、生まれてきたことを後悔するような目にあわせてやるからな」
余計な心配だった。おれには逃げる気などなかった。恐怖と屈辱に打ちひしがれそうになりながら、どうやって呂方を殺すか、そのことだけを考えていた。
呂方が出ていった後も、おれはしばらく荒い息をしていた。落ち着いてくると、大急ぎで店を片付け、夜の街へ出ていった。
呂方を殺すための手を打たなくちゃならないからだ。後ろめたいとか、恐ろしいという感情はまったく浮かばなかった。たった二人で愚連隊を襲うなんて馬鹿げていた。殺されるに決まっている。僥倖《ぎょうこう》に恵まれて生き残れたとしても、呂方は必ずおれを犯すだろう。
目の前に醜悪な怪物が現れたのはおれのせいじゃない。そいつを排除しなきゃ前進できないのだとしたら、なんとしてでも排除しなければならない。おれが避けようとする方向に、その怪物は必ずやってくる。最善の排除方法は殺すことだ。
おれは自分の部屋へ戻り、バイトで貯えた金を懐に入れた。三十万近い金があった。その金で、前から目をつけていた売人に近づき、スタミナ・ドリンクの瓶につめられたトルエンを五本買った。代金の他に一方円を売人に握らせ、シャブを買うにはどうしたらいいかと訊いた。売人は渋い顔をしたが、もう一枚札を握らせると、あっさり口を割った。
「おれの使う分でよかったら、あと二枚で譲ってやるよ」
足もとを見られていることはわかっていたが、抗《あらが》ったりはしなかった。もう二万を差しだして、小さなパケをひと包み受け取った。
その足で部屋へ戻った。夜の内にできることはもうなにもなかった。布団にくるまりながら、おれはまんじりともせずに朝を迎えた。
いつしかうとうとしてしまい、気づくと昼を大きく回っていた。おれは楊偉民の甥に電話をかけ、具合が悪いので今日は休みたいと告げた。ファンシー・ケースの奥から安物のトレンチコートを引っ張りだし、トルエンとシャブをポケットに突っ込んだ。しばらく部屋を見回してから、外へ出た。ヘマをやらかすと二度と戻って来れないかもしれないと思ったのだが、寒々しい部屋にはなんの感慨も持てなかった。
コマ劇場前には、平日にもかかわらず若いやつらが思い思いの午後をすごしていた。おれは広場を見波せる喫茶店に腰を落ち着け、辛抱強く待った。しばらく周囲を観察してから、トルエンで脳みそが溶けだしてしまったようなやつに決めた。そいつは映画館のエントランスの階段に尻を下ろし、筋肉がだらしなく弛緩《しかん》した顔を意味もなく上下に振っていた。
そいつを見たまま、テーブルの上のコーヒーを飲み干した。手は震えちゃいなかった。鼓動が早くなることもない。もう、引き返せないのだ。おれは喫茶店を出た。
「ごきげんだね」
そういってトルエン野郎の隣に腰をおろした。そいつはなにかいったが、呂律《ろれつ》がすっかりおかしくなっていて、なにをいっているのかまったくわからなかった。
上着の懐からトルエンの瓶を取りだし、そいつに笑ってみせた。
「やる? 一緒に?」
そいつは嬉しそうにうなずくと、ひったくるようにして瓶をおれから奪い取った。
そいつのわけのわからない日本語に相槌《あいづち》を打ちながら時間を潰した。頃合をみて立ちあがり、おれの部屋へ来ないか、と誘った。
「そこならおまわりを気にしないでラリっていられるし、トルエンなんかよりもっといい薬もあるんだ」
そいつがいやだというはずはなかった。おれはそいつに肩を貸し、そいつの調子っぱずれな鼻唄《はなうた》にあわせてやりながら、コマの前を後にした。空はすっかり暗くなっていた。
おれの部屋でもう二本ほどトルエンをあてがってやると、そいつは鼾《いびき》を立てて寝はじめた。おれはそっと立ちあがり、そいつの懐を探った。安物のシース・ナイフが手に触れた。台所でシャブの粉末を水に溶いた。用意しておいた注射器でそいつを吸いあげ、居間に戻った。鼾は途切れることなく続いていた。そいつの袖《そで》をまくりあげ、慎重に針を突きたてた。
そいつの目が開いた。口が動き、気持ちいいという言葉が途切れ途切れに漏れてきた。目尻に涙が浮かんでいた。
その涙を見た瞬間、おれの中でなにかが弾けた。獣じみた唸りをあげながらそいつの身体をひっくり返し、薄汚れたジーンズを引きずりおろした。震える手で自分のジーンズとトランクスをおろすと、赤黒く怒張したペニスが勢いよく跳ねあがった。先端が濡れ光っているペニスを、おれはそいつの尻の穴にぶちこんだ。ぶちこんだ次の瞬間、おれはいっていた。
息を弾ませながら風呂場へ行き、精液と糞にまみれたペニスを乱暴に洗った。ティッシュを大量に使ってトルエン野郎の尻のまわりを拭き、パンツとジーンズを引きあげてやった。トルエン野郎はうつろな目をおれに向けて、気持ちよかったか、と聞いた。おれはそいつをぶん殴った。それから、頭を抱えて部屋の隅にうずくまった。
九時を少し回るのを待って、店に電話を入れた。少し具合がよくなったので店の片付けはやっておくよ、といってやると、ぶすっとした声で応対していた店主の声が急に愛想のいいものに変わった。
十時半にもう一度電話をかけた。呼びだし音がなるだけだった。おれはだらしなく意識を失くしているそいつを担ぎあげ、部屋を出た。立ちどまって部屋を振り返るなんて馬鹿な真似はもうしなかった。
おれは目を閉じて呂方を待っていた。鼾の音ももう気にならなくなっていた。ドアが開いて風が舞い込んできたときには、しっかりナイフを握りしめていた。
「よく逃げなかったな」
呂方の人を小馬鹿にしたような声を聞きながら、口の中で三つ数をかぞえた。それから壁のスウィッチを叩いて消した。
「なんだ!?」
目を開けた。目は暗闇にすっかり慣れていた。呂方はナイフを構えていたが、腰が引けていた。おれの居所を探そうと、落ち着きなく顔を左右に振っていた。
「健一《ジェンイー》、なんの真似だ!?」
呂方がおれの名を呼ぶのをはじめて聞いた。いつもは、侮蔑をこめて半々と呼ぶだけなのだ。
おれは素速く呂方に近寄り、腹にナイフを突きたてた。肉に刃が食いこむ感触に、一瞬我を忘れた。手から柄が外れた。
「てめぇ!?」
暗闇の中で呂方が目を剥《む》いた。おれは慌てて飛びすさった。次の刹那、臍《へそ》の脇に冷気が忍びこんだ。氷柱を突きたてられたようだった。悪寒はすぐに激痛に変わった。
「ぶっ殺してやる! 半々のちくしょうめ、おれを刺しやがった。ぶっ殺してやる!!」
痛みを堪えることができたのは、呂方のナイフさばきがおかしかったからだ。まだ闇に目が慣れていないのだ。それに、左手で押さえた腹からはナイフの柄が突きでていた。
おれはテーブルの上に立ててあったスティール製の椅子を掴み、横なぐりに呂方の頭を払った。鈍い音がして、呂方が床に転がった。後を追った。馬乗りになって、ナイフの柄を掴んだ。一気に刺しこんだ。左手で呂方の口をおさえ、右手でナイフを突きたてたまま全体重をかけて呂方を押さえこんだ。釣りあげられた魚のように呂方は激しく暴れたが、やがて動かなくなった。
おれは転がるように呂方の体からおりた。心臓が激しく脈打ち、口の中がからからに乾いていた。刺された傷口から火傷《やけど》しそうな熱感が広がり、背中は悪寒に凍えそうだった。
おれは服をはだけ、傷口を覗きこんだ。暗闇でよくわからないが、呂方のナイフは皮膚と脂肪を切り裂いただけのようだった。
顔をしかめながら、おれは呂方のナイフを探した。テーブルの下に転がっていた。それを取りあげ、太平楽に鼾を立てて眠っているトルエン野郎の髪を掴んで上体を起こし、背後に回った。目を閉じてそいつの喉を切り裂いた。ひゅーっという音がして血が吹きでた。髪を放すと、ごとんと音を立てて頭が床にぶつかり、勢いをなくした血が床に溜まりはじめた。そいつの手足が痙攣《けいれん》しているのを見ると、ふいに笑いが込みあげてきた。
笑いを噛み殺しながら、呂方のナイフの柄を上着の袖で拭った。倒れたままの呂方に近づき、慎重にナイフを握らせた。それから、今度は呂方の腹に突き刺さったナイフを引き抜いた。血が飛びでるかと思ったが、そんなことはなかった。同じように柄を拭い、トルエン中毒の右手に握らせた。そいつが右利きであることは確かめておいた。
そこまでがおれの限界だった。頭の中が真っ白になり、おれは気を失った。
目がさめたのは病院のベッドの上だった。楊偉民がおっかない顔をしておれを見下ろしていた。
「呂方は?」
おれは聞いた。聞いた瞬間にしまったと思った。
「身内に手をかけるとはな」
楊偉民にはなにもかもお見通しだった。他人を見るような冷たい目がすべてを語っていた。
「おれはなにも……」
「黙れ。不良同士の喧嘩ということで警察の方は収まりそうだ。おまえは運悪く巻き込まれただけだとな。だが、わしは知っておる。おまえが呂方を殺したんだ」
静かな声だったが、おれは楊偉民に唾を吐きかけられるんじゃないかと思った。
「まさか、おまえが殺しをやるとはな。このわしを騙し通したとは、たいしたやつだ」
「爺さん、おれの話も聞いてくれよ」
「いや、聞いても無駄だ。おまえはわしの信頼を裏切ったのだ。身内を殺すという最悪のやり方でな。おまえの父親は台湾人の中でも最低の流氓だった。母親は日本の牝犬《めすいぬ》だ。その血がおまえには流れている。わしは教育でその血を正そうと思っていたが、間違いだった。血は購《あがな》えん」
それだけいうと、楊偉民は病室を出ていった。おれは、楊偉民のいう信頼というものがどこにあったのかと考えていた。そんなものはどこにもなかったのだ。おれが呂方を殺したことがばれれば、いくら楊偉民でも立場は悪くなる。呂方の両親は貧乏ではあってもれっきとした本省人なのだ。日本人の血が流れる半々に息子を殺されたとあっては黙っちゃいないだろう。揉めごとが起こる前に、おれを切り捨てた。そういうことなのだ。
楊偉民は高校を卒業するまでの学費は出しつづけてくれた。甥の店も首にはならなかった。台湾大学へ進学する話がおしゃかになり、楊偉民の家での夕食に招かれなくなっただけだ。
他の台湾人にも、そしておれにもそれで充分だった。おれは相変わらず楊偉民の保護下にはおかれているが、身内ではなくなったのだ。