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結局いい考えは浮かばなかった。一時間ほどでサウナを切りあげ、仮眠をとった。目覚めたのは、すでに夕方に近い時間だった。冷えた身体を湯船に沈めて暖めなおし、サウナを出た。
〈カリビアン〉へ戻ると、留守電が点滅していた。あの徐鋭《シウルイ》というガキからだった。メッセージに残されていた番号を押すと、すぐに電話が繋がった。
「見つけました」
「間違いないか?」
「だいじょうぶだと思います」
「よし。いま、どこにいる?」
徐鋭は大久保にある喫茶店の名前を告げた。
「すぐに行く」
おれは〈カリビアン〉を出た。
徐鋭はすぐに見つかった。ガラス張りの喫茶店で、〈薬屋〉の前にいた連中と忍び笑いを洩らしながら楽しげに話をしていた。
おれは店の中へは入らず、歩道につっ立って徐鋭が気づくのを待った。五分かかった。失格だ。おれが楊偉民なら、こんなにトロいガキを大事な仕事に使ったりはしない。
おれに気づいた徐鋭は慌てたように立ちあがり、ほかの連中をそのままにして店の外へ出てきた。
「場所は?」
煙草に火をつけながら訊いた。
「抜弁天《ぬけべんてん》です」
「どんな女だった?」
「水商売です……」
徐鋭がなにかをいい淀んだ。
「なんだ。なにかあるのか?」
「日本語は上手だったけど、大陸《ダールー》の女じゃないかと思うんです」
馬鹿にされるんじゃないかと怖れているように、徐鋭はおれの顔をちらちらと見た。
「間違いないか?」
「歩き方とか仕種が……日本の女らしくなかったです」
「顔は?」
「なんともいえません」
おれは煙草をふかしながら、職安通りを抜弁天へ下りはじめた。夏美が中国の女かもしれないというのは、予想もしていなかった展開だ。携帯電話で聞いた日本語はネイティヴのそれと遜色《そんしょく》なかった。かすかな訛りはあったが、おれはそれを方言の名残だと思っていたのだ。
「髪は短いです。白いブラウスにジーンズ、足もとはサンダルでした。化粧はしてなかったけど、マニキュアとペディキュアをしてました」
徐鋭はおれの後を追いながらまくしたてた。おれの無言を、馬鹿なことをいった自分にたいする叱責と受け取ったらしい。少し間を置いたのは、爪を飾りたてているから夜の女だと推理したのだということを強調したかったのだろう。
「きょろきょろしてました。側によった日本人に、劉さんですか? と聞きました。それで、その女だってわかったんです」
「女は何分ぐらい待ってた?」
「四十分です」
徐鋭はほっとしたように答えた。
十分ほど歩いたところで徐鋭がおれを追いこし、路地を左に曲がった。
「この先のアパートです」
なんの変哲もない街並だった。古ぼけた二階建てのアパートの手前に、見覚えのある顔の若造が、所在なさげに立ち尽くしていた。弁天荘という、身も蓋《ふた》もない名のアパートだ。
「二〇三号室です」
徐鋭はあたりをはばかっているような小声で囁《ささや》いた。
「出入りは?」
見張り役のガキは頭を振った。
おれは音を立てないように階段を上がり、一番奥の部屋に用があるという顔をして、二〇三号室の前を通りすぎた。表札はなかった。二〇五号室の前で立ち止まった。郵便受けに「葉」と書かれた紙が張りつけてあった。ドアをノックした。
「はい?」
間を置いてから返事があった。
「葉《イェ》さん、久しぶりだな。おれだよ。開けてくれ」
おれは北京語で怒鳴った。今度はさほど間を置かずに、ドアが細く開いた。警戒した目がおれを覗きこんでいた。その隙間に、一万円札を突っ込んだ。
「ちょっと聞きたいことがある。これはその謝礼だ」
素速く囁き、もう一度声を張りあげた。
「何年ぶりだろうな、葉さん。懐かしいよ」
戸惑っている葉を押しのけて、部屋の中へ入った。
「な、なんですか?」
葉はドス黒い顔をした中年だった。不法就労でもしているのだろう、他人を容易に信じない卑屈さが骨の髄までしみこんでいるようだった。北京語にも聞き取りにくい訛りがある。福建の出身というところか。
「二〇三号室のことを聞きたい。住んでいるのは女だけか?」
葉はおれからできるだけ遠ざかろうとするように身をちぢこまらせ、大きく見開いた目だけで肯定の意志を伝えた。
「いつごろこのアパートに越してきたかわかるかい?」
「三、四日前だと思う」
「話をしたことは?」
葉は弱々しく首を振った。
「男はいそうか?」
「わからないよ。ろくに顔を見たこともないんだから」
葉の目がかすかに動いた。おれはそれを見逃すほど間抜けじゃない。繁華街に近いとはいえ、木造のおんぼろアパートだ。若い女がひとり住まいすることなど滅多にあるもんじゃない。女が越してきた日から、部屋の中で様子をうかがっている葉の姿が簡単に想像できた。
「葉さん、もう少し正直になろうよ」
おれは部屋の中を見回した。寒々しい部屋だった。
「あんた、日本に来てからどれぐらいになるのか知らないけど、ずっと一人ぐらしだろう。不法入国して、蛇頭への借金を返すために細々と働いてる。入管の目が恐いからペイのいいところで働くこともできない、かといって流氓の仲間になる度胸もない。貧乏臭い福建野郎だ、女ができるはずもない」
「な、なんのことだい」
「ずっと目を光らせてたんだろう? こんなぼろアパートに住む女だ、わけありに違いない、うまいことすりゃ、やらせてもらえるかもしれないと思ってさ?」
葉は目を白黒させて、おれの視線から逃れようとした。
「で、あんたがやれるかもしれないと思ったってことは、あの女も大陸から来たってことだ。日本人の女が金のない中国人に足を開くはずはないし、香港《シャンガン》や台湾の女なら、こんなところに住んだりはしない。そうだろう?」
「こ、公衆電話で話してるのを通りがかりに聞いただけだ。北京語だった。それだけだよ」
葉の声はかすれていた。
「なにを話してた?」
「助けて、って。北京語でそういってるのを聞いたんだ」
「相手は?」
葉は唾が飛びそうなほど激しく首を振った。まあ、そんなところだろう。
「何日前のことだ?」
「一昨日の夜」
それ以上聞きたいことはなかった。おれは葉に携帯電話の番号を教え、なにか変わったことがあったら連絡をくれ、謝礼はたっぷりはずむ、と鼻薬をきかせて部屋を出た。葉は竜巻にでも襲われて財産のすべてを失ったとでもいうような顔をして、おれを茫然《ぼうぜん》と見送っていた。