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携帯電話が鳴った。
「劉《りゅう》さん? 夏美ですけど……」
「様子が変わったんだ」
おれは女の声を遮った。
「申しわけないが、ほかを当たってくれ。当分、あんたのお役には立てそうもない」
おれはそういって電話を切った。すぐにベルが鳴ったが、おれは電源スウィッチをオフにして無視することにした。
富春が馴染《なじ》みにしていた飲み屋を虱潰《しらみつぶ》しに当たったが、ろくに話もきいてもらえなかった。どの店にも元成貴《ユェンチョンクィ》の手下が張り込んでいたし、店のやつらはみんな、元成貴の逆鱗に触れるのを怖れ、富春などそもそものはじめからこの世に存在しなかったことにしたがっているようだった。
日曜の歌舞伎町は、日本人より在日外国人の姿の方が目立つ。こんな夜には、富春も動こうとはしないだろう。
そう結論を出して、〈カリビアン〉へ足を向けようとしたとき、けたたましいサイレンの音が聞こえた。サイレンは風林会館の方へ向かっているようだった。おれはサイレンに誘われるように、歩く方向を変えた。ここのところ、流氓《リウマン》たちの抗争は鳴りを潜めている。跳ねっ返りの福建野郎や血の気の多いマレーシア系の流氓が喧嘩をやらかすぐらいのものだ。
だが、サイレンの数は尋常じゃなかった。東京中のパトカーが歌舞伎町に集まってきてるようだった。殺し以外にありえない。日曜の歌舞伎町での殺し。腹の底に石の塊が居座っているような不快感が生じていた。
風林会館の脇に出たところで、顔見知りを見つけた。そいつはもの凄い勢いで路上を駆けていた。
「おい!!」
叫んで、そいつの前に立ちはだかった。
「なにがあった?」
そいつはつんのめるようにして立ちどまり、間抜けな視線を送ってきた。
「あ……健一さん。大変です、大変です」
「なにが大変なんだ?」
「〈紅蓮《ホンリェン》〉が襲われたんです。呉富春の野郎に」
そいつを放りだして走った。風林会館裏の路地を折れ、そこで茫然と足をとめた。路上は救急車とパトカーが占拠していた。おまわりたちが慌ただしく動き回り、無線を使ってわめきたてる声が、野次馬の騒音をかき消して湿った空気を震わせていた。
救急隊員たちが、担架を押しながらビルの外へ出てきた。担架に乗っているのは、昨日、おれと寝てくれた女だった。黒いボディコン・スーツの右胸の辺りが濡れて光っていた。顔や手足には血の気がなく、ぴくりとも動かなかった。
ビルの前で不安そうに肩を寄せあっていた女たちの一団が担架に気づき、嗚咽《おえつ》の合唱が始まった。合唱隊の中に黄秀紅《ホヮンシウホン》と他の二人のママの姿はなかった。店の中で事情聴取を受けているのか。それとも、殺されてしまったか。
おれは野次馬の陰に隠れてビルのエントランスを見張りながら、富春の動機はなんだろうと考えた。歌舞伎町に戻ってくること自体自殺行為だというのに、元成貴の女がやっている店を襲うなんてのは、度しがたいにもほどがある。脅しをかければ、元成貴が手を引くとでも考えたのだろうか。
おれが考えをめぐらせている間にも、担架は次々に運びだされた。全部で五回。どいつも、運びだされる間ぴくりとも動かなかった。おれが知っている富春は、どちらかというと銃を使う人間を軽蔑していたように思う。拳とナイフがあれば、人を殺すなんて簡単だと自慢げに話していたものだ。歌舞伎町を離れていた一年の間に、富春になにがあったというのだろう。
救急車が野次馬を蹴散らすように走り去ったあと、私服のおまわりに先導されるように秀紅と他の二人のママがエントランスに姿を現した。三人とも顔が蒼《あお》ざめ強張《こわば》っていたが怪我はなさそうだった。おれはじっと秀紅の顔を見つめた。秀紅の顔がこっちに向いた瞬間をつかまえて目立たぬように手を振り、軽く握った拳を耳のあたりに持っていって、あとで電話すると伝えた。秀紅は曖昧にうなずいた。操り人形のようにぎごちない動作、表情のない顔で、おまわりの指示に黙々と従い、一台のパトカーに他の二人と共に乗りこんだ。
おれは野次馬の群れをそっと離れた。