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公衆電話で何本か電話をかけ、〈カリビアン〉によって銃を持ち出してからタクシーを掴まえて飯田橋《いいだばし》に向かった。自分の女の店が襲われたのだ。元成貴がいつまでも紳士的に振る舞っていると想定しているわけにはいかない。何時間後には〈カリビアン〉は復讐《ふくしゅう》に飢えた若い上海人たちに囲まれているかもしれないのだ。
飯田橋には三年前から借りているマンションがある。狭いワンルームだがこんなときのために、毎月十万の金を払って確保しておいたものだ。この部屋の存在を知る者はいない。たぶん、楊偉民だって知らないはずだ。部屋の名義は堅気のものになっている。手数料を払って契約してもらったのだ。そいつはいま、オーストラリアで貿易の会社をやっている。当分、日本に戻ってくる予定はない。
部屋に入って簡単にシャワーを浴びた。身体はくたくただったが、頭はすっかり冴えきっていた。おれの人生に訪れた未曾有《みぞう》の危機。のんべんだらりと眠ることなどできそうにもない。
なにもない部屋だが、ベッドと電話だけはある。それに、なにがしかの着替えとタオルだ。タオルで濡れた髪の毛を拭きながら〈カリビアン〉へ電話を入れて留守電をチェックした。元成貴から二本、楊偉民と崔虎から一本ずつメッセージが入っていた。どれも、気が滅入《めい》るような内容だった。元成貴と崔虎のメッセージは無視することにし、〈薬屋〉の電話番号を押した。
「はい」
「おれだよ」
おれは日本語でいった。楊偉民の電話を盗聴しようなどという馬鹿はいないだろうが、念のための安全策だ。
「どこにいる?」
楊偉民の声は間延びしていた。一日に何度も職場に電話をかけてくる神経質な古女房を相手にしているような声だった。
「内緒だ。また売られちゃたまらない」
「富春もいっしょなのか」
楊偉民はおれの皮肉をあっさり無視した。
「馬鹿いうなよ。崔虎に殴られ、元成貴にしこたま脅されて一日中歩き回ってたんだ、富春を探してだ」
「〈紅蓮〉に集まった野次馬の中におまえがいたことを元成貴は知っているぞ、健一」
「たまたま通りかかっただけだ。他になにか情報はないか?」
「やったのは富春で間違いないらしい。女はどこだと叫びながら乗りこんできたということだ」
「女?」
「詳しいことはまだわからん。店にいた連中はあらかた警察にひっぱられている。我が身可愛さに真っ先に逃げだした臆病者から聞きだしただけだ」
「わかった。また明日連絡する。徐鋭たちに、もう仕事はいいと伝えておいてくれないか。他の仕事にかまけている暇はどこにもない」
「わかった。伝えよう」
「爺さんも気をつけてくれよ、元成貴がおれを掴まえようと思ったら、まずあんたに目を向けるだろうからな」
「ほほう、おまえがそんな殊勝なことをいってくれるとはな。わしのことなど、クソ喰らえなんじゃなかったのか」
おれは受話器を口もとから放し、小声で罵《ののし》った。今日、元成貴の周りにいたのは直属の部下やボディガードたちだった。口が軽いやつなどいるはずもない。ということは、あの連中の中に楊偉民が送りこんだスパイがいるということだ。元成貴は自分が歌舞伎町の支配者だと思っているかもしれないが、とんだ孫悟空だ。楊偉民の掌で踊らされているだけなのだ。もちろん、おれだって人のことはいえないが。
「健一」
楊偉民のぼそりとした声が聞こえた。
「なんだよ」
「逃げた方がよくはないか。なにが起こっているのかはわからんが、どうやら富春は元成貴に喧嘩を売る気らしい。おまえが富春を見つけたところで、おいそれと元成貴の前に顔を出しはしないだろう。おまえは身動きが取れなくなるぞ」
「どこに逃げろっていうんだよ」
「台湾はどうだ。おまえがその気なら手伝ってやろう」
「それで、いくらかかるんだ?」
「五百万というところか」
「じゃあな」
おれは受話器を置いた。楊偉民の顔に唾を吐きかけてやりたい気分だった。