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不夜城(21)
日期:2018-05-31 22:13  点击:285
 21
 
 
 音。だれかが息を殺して階段をのぼってくる気配。おれは黒星《ヘイシン》を握り、ペンライトを消した。上着の内ポケットからサングラスを取りだし、かけた。
 足音は部屋の前でとまった。周囲の様子をうかがっている。夏美か。あるいは他のだれかか。黒星の銃口をドアに向けた。
 足音の逡巡《しゅんじゅん》は長くは続かなかった。鍵が差しこまれる音がし、おもむろにドアが開いた。次の瞬間、甘い香水の匂いが鼻をついた。足音の主は女だ。
 明かりがつけられ、鼻唄が聞こえた。靴を脱ぐごそごそという音が統き、夏美が姿を現した。
 夏美はおれに気づかなかったようにくるりと台所に身体を向け、それからはっとしたように振り返った。
「だれ!?」
「静かに」
 おれは銃口を夏美に向け、人差し指を唇の前に突きたてた。
「夏美ちゃんだろう?」
 夏美はこたえなかった。凄い目でおれを睨んでいた。小鼻が膨らんでいる。髪は茶色がかったショートで、小ぶりな耳が完全に露出していた。目は奇麗なアーモンド型で、力強いラインを描く細い眉といっしょになって意志の強さを感じさせた。鼻は高くも低くもないが、やや潰れた感じがする。唇はふっくらとしていてまるで小さな女の子のようだった。顎は鋭く尖っていた。ひとつひとつのパーツはちぐはぐだったが、全体としてはまとまっていた。淡い色のルージュを唇に塗っているだけで、化粧っ気はなかった。ポップアートが描かれたTシャツに色の抜け落ちたジーンズ。肩からはルイ・ヴィトンのショルダーバッグを下げ、右手にコンビニの袋を持っていた。身長は百七十近く、年齢は二十五、六といったところか。おれの好みからすれば痩せすぎだが、この手の女に性欲をくすぐられる男は多いだろう。
「だれなの?」
 夏美がいった。銃を意に介してもいないようだった。
「おれに買いとってもらいたいものがあると電話でいわなかったかい?」
 夏美の視線がゆるんで、怪訝そうな表情に変わった。近眼の人間がものをよく見ようとしているような目つき。鼻の頭にかすかな皺がよっていた。
「劉《りゅう》……さん?」
「そうだ」
 おれはセイフティをロックして銃をさげた。夏美が一人だと納得がいったのだ。
「ほかを当たれっていったじゃない」
「気が変わったんだ」
「気が変わって人の部屋に忍びこんで、銃を構えて待ち受けてたわけ?」
 夏美の方はまだ納得できないようだった。猫背気味に背中を丸め、顔をこっちに突きだしてきた。
「押入の中を覗いたことは謝る。あんなものが入ってるなんて思いもしなかったんだ」
 夏美は顔をしかめた。舌の先がぺろりと姿を現した。それから、慌てたように視線をスーツケースに向けた。
「あっちは見てない。鍵がかかってたからな」
「この部屋のドアにも鍵がかかってたはずよ」
 おれの嘘はあっさりと一蹴された。夏美は憤然としたように手に提げていたコンビニの袋を台所に放り投げ、ルイ・ヴィトンを足もとにすとんと落として指を玄関に向けた。
「とにかく、靴を脱いで。日本の部屋は靴を脱いであがるものよ。常識でしょう」
「すまない。あんたがごつい男を連れてきたら、窓をぶち破って逃げようと思ってたもんでね」
「銃を持ってるくせに」
「ただのおもちゃさ」
 おれはその場で靴を脱ぎ、左手に持って玄関に向かった。おどけたふりを装っていたが、決して夏美に背を向けなかった。
「本当におもちゃなら、しまっちゃえばいいじゃない。わたし、あなたを襲ったりはしないわよ」
「それもそうだな」
 おれは銃を腰にさした。
「あらためて自己紹介をしようか。おれは、劉健一《りゅうけんいち》だ」
「佐藤夏美よ」
「本名を教えてくれる気はないのか?」
 夏美が、なんのこと、と問うように首を傾げた。
「中国人だと聞いたんだが」
「日本人よ。子供のころは中国にいたけど。免許証、見る?」
「どこに住んでたんだい」
「いってもわからないでしょう。黒竜江省の小さな町よ」
 それで納得がいった。
「残留孤児二世か」
「悪い?」
「いや」
 夏美はコンビニの袋の中身を台所に並べはじめた。正面からは確かめようのなかった尻が、おどろくほどエロティックな曲線を作っていた。着痩せするタイプなのかもしれない。おれはスーツケースの中のタイトミニを着ている夏美の姿を想像した。悪くはない。
「座布団もないけど、その辺に適当に座って」
 夏美の言葉にしたがって腰を落ち着けると、さっき灰皿がわりに使った紙コップと、烏竜茶が注がれた紙コップが目の前にさっと現れた。
「それで、わたしの留守の間になにをしようとしていたの?」
 夏美は台所の縁に尻をのせて、おれを見下ろしていた。まるで、悪ガキのいたずらを見咎めた若い女教師という風情だ。
「初対面の人間とあうときは、下調べをするのが癖なんだ。それだけのことさ」
「調べものをしているときにわたしが帰ってきちゃったというわけ?」
「いや。ここには調べるものなんかなにもなかったからな。あとは、あんたが帰ってくるのを待って、話を聞こうと思ってた。水商売でたんまり稼いでるはずの若い女が、家具なしのおんぼろアパートにスーツケース二つだけで転がりこんでる。おれでなくても好奇心はそそられるさ」
「そんなに長いことここにいるつもりはないわ」
「そうだろうな。あんたには似合わない」
 そういって、煙草に火をつけた。
「わたしも吸っていいかしら」
 おれは煙草の箱を夏美にさしだした。ピアニストのように細くしなやかな指が伸びてきて煙草を抜きとった。マニキュアの色はピンクがかったオレンジだった。
「で、おれに買いとってもらいたいものって、なんだ?」
 煙草に火をつけてやりながら、訊いた。夏美は長く煙を吐きだし、心ここにあらずといった感じで、ロールシャッハ・テストに使うような染みが浮かんだ天井を見つめた。それから、薬に酔ったような焦点のあわない目をおれに向けてきた。
「あなたが扱わないのは子供だけだって聞いたわ。薬や銃でも、出所がはっきりしてるものなら買い取ってくれるって」
 うなずいた。おれの本職は故買屋だ。安く買い叩けて高く売れるものならどんな商品にでも手を出す。ただし、子供の臓器を売り買いするやつらとだけは取り引きしない。倫理がどうのといったたわごとじゃない。商売に差し障りが出るからだ。最近じゃ、フィリピンやタイから来た娼婦たちが身ごもってしまったガキを買いとる輩が歌舞伎町にも増えている。いい金になるのだ。だが、そいつらは街の虫ケラたちからも、ウジ虫なみの敬意しか払ってもらえない。おれのような仕事をしている人間には、信用がなにより大事なのだ。子供を扱っているという噂が流れたら、長い時間をかけて築いてきた信用も、あっという間に下落してしまう。
「おれは故買屋だ。金にかえられるものなら、大抵のものを扱う」
「————」
 夏美が口を開きそうになったが、おれはそれを遮って言葉をつづけた。
「なにを売りたいのか聞くために、確かめておきたいことがある。あんた、新宿の女じゃないだろう? 王からおれの名を聞いたなんてでたらめだ。おれのことはだれから聞いた? 新宿以外の場所でも名前が囁かれるほどの大物だとは、おれ自身も思ってないんだが」
「呉富春《ウーフーチュン》よ」
 夏美はこともなげにいった。しかも、北京語で。
「名古屋から来たの。富春の女なのよ、わたし」
 今度は日本語だった。
「驚かないの?」
 夏美はおれの顔をじっと見下ろしていた。
「なんとなく、想像はしていた。今夜、富春はある店に拳銃を持って乗りこんだんだ。女はどこだって叫びながらな」
「ある店って?」
 夏美は驚いていた。口調に問い詰めるようなきつい響きがあることにも気づいていないようだった。
「あんたは知らないだろう」
 夏美の表情が険しくなった。おれは気づかないふりをして、ゆっくり煙草を吸った。
「教えてよ」
「いっても無駄だって」
「あなたが決めることじゃないわよ」
 まるで女王様のようないいぐさだった。眉を吊り上げている夏美の顔に、おれは煙を吹きかけた。
「なにするのよ!」
 煙草の吸いさしが飛んできた。予想していたので、なんなくかわすことができた。
「短気な女だな、あんた。中国女の欠点だ」
 壁に当たって畳の上に落ちた煙草を摘み上げ、灰皿がわりのコップに落としこんだ。
「わたしは日本人よ」
「みんなそういいたがるんだ。でも、根っこには中国の考え方がしみついてる」
「あなたになにがわかるのよ」
 おれは肩をすくめてみせた。
「富春はなんの関係もない人間を五人殺して逃げた。さあ、なにを売りたいのか、そろそろ教えてくれてもいいだろう」
「富春よ」
「なんだって?」
 夏美は平然と見返してきた。
「おれが歌舞伎町に戻れば、健一に迷惑がかかるって、富春はいつもいってたわ」
「だから?」
 おれはなにげなくいったが、夏美の言葉に今度こそ驚いていた。富春がおれのことを気遣うとは、そんな心根があるのなら、元成貴を怒らせる前にくたばってくれればよかったのだ。
「あなた、富春のせいでトラブルに見舞われてるんでしょう。富春をあなたに渡せばいくらくれるの?」
 煙草を消した。ずっと夏美の目を見ていたが、変化をとらえることはできなかった。
「富春となにがあった?」
 おれは訊いた。
「うんざりなの。逃げたいのよ」
 それだけいえばわかるだろうとでもいうように、夏美は唇をきっと結んだ。たしかに、大方のことは想像がついた。おれだって最後には富春に見きりをつけたのだ。富春のねじくれ曲がった性根は、周りにいる人間を極度に疲弊させる。ガタがきた原発の中で寝起きしているようなものなのだ。いつ暴走し、放射能を撒き散らしはじめるか想像もつかない。だが、おれにはそれで夏美を解放してやるつもりはこれっぽっちもなかった。
「どうやって富春と知りあったんだ?」
「お店で」
 どんな店なのかは聞くまでもなかった。
「いつ?」
「去年の春先かしら」
 おれはうなずいた。富春が元成貴の右腕を殺したのは去年の一月。時間的な辻褄《つじつま》はあう。
「よくあんなやつの女になる気になったな」
「切羽《せっぱ》つまってたのよ。やくざまがいの嫌なやつに付きまとわれてて、富春ならそいつを追い払ってくれると思ったの」
「なるほど」
「一緒に暮らすようになってすぐに後悔したわよ。わたしの店を見張ってて、わたしが送りだした客の後をつけて、二度と夏美に近寄るなって、ぼこぼこに殴るのよ。あいつのせいで、わたし、何度も店をかわったわ。それに、夜になると、今日の客にはどんなことをしてやったんだって、ねちねち問いつめるの。嘘をつくとぶたれる。本当のことをいうと、今度は売女《ばいた》めって殴られる。もう、気が狂いそう」
「逃げればよかったんだ」
「逃げたに決まってるじゃない。富春が金をもらって人を殺す仕事をしてるってこともわかっちゃったしね、これ以上一緒にはいられないし、いたくなかったから。でも、その度に見つかったわ。執念深いのよ、富春は。蛇みたい。それで、蛇みたいな目でわたしを見つめて、もう逃げないでくれ、おれが悪かったからっておいおい泣くのよ。二日もたてば、泣いてわたしにすがったことも忘れてまたわたしをぶつようになるの」
 富春が執念深いという点には同感だった。歌舞伎町の台湾クラブに李麗珍《リーリーチェン》という女がいた——香港のヌード女優の名をパクった源氏名で、本名はわからなかったが。おれと富春が東通りのルノアールで仕事の打ち合わせをしていたときのことだ。その麗珍が、客の男と一緒にルノアールに入ってきた。麗珍を見つけた富春は急に顔色をかえ、「おまえ、おれを嗤《わら》った女だな」と叫びながら詰めよっていったのだ。いきなり怒鳴られた麗珍ははじめのうちこそぽかんとしていたが、やがて、あんたのことなんか見たこともない、どこの売女と間違えているんだか知らないがとっとと失せろと反対に啖呵《たんか》を切った。麗珍に殴りかかろうとする富春を、おれは後ろから抱きついてとめた。そして、麗珍の勤めている店に富春は足を踏み入れたこともないってことを思いださせてやり、どこかの女と間違えているんだろうと聞いてやった。富春は、頭を振ってこの女に間違いないと断言した。三年前の寒い雨の日に、びしょ濡れになって道を歩いている富春を暖かそうな毛皮を着て嘲笑《あざわら》ってすれ違ったのは確かにこの女だと。おれは呆れてものもいえなかった。
 そのときは、おれが富春をルノアールから連れだすことで収まった。だが、その何日かあと、麗珍はどこかの路地裏で殴り殺された。おれは富春を歌舞伎町から遠ざけ、あの日、麗珍と一緒にいた男を見つけだして口止め料を払ったのだ。富春の執念深さには、何度痛い目にあわされたか、わかったもんじゃない。
「それで、富春ときっちり縁を切る方法を考えたってわけ」
 夏美は微笑んでいた。気のある男を誘惑する方法を思いついたときの女の子のような、淫靡《いんび》だがどこかにあどけなさの残る微笑みだった。
「それが歌舞伎町に来ることか」
「富春が歌舞伎町にいられなくなったわけは何度も聞いたわ。元成貴って大物にひと泡吹かせてやったんだって、いつも自慢そうに話してたから。元成貴って人に、富春を殺させればいいんだって、だれにでも考えつくわ。簡単よね」
 おれにはそれほど簡単には思えなかった。事実、もう五人の人間が死んでいるのだ。
「その話のどこにおれが絡んでくるんだ?」
「元成貴って、大物なんでしょう? わたしみたいなのがのこのこ出かけていって会いたいといっても、会ってくれるわけないじゃない。で、富春があなたのことをいってたのを思いだしたの。台湾と日本の半々で、富春の元のパートナー、台湾華僑と上海マフィアに顔が利く人だって」
「顔が利くってほどじゃない。迷惑をかけないかぎり見逃してもらえるってだけのことだ」
「そんなこと、わたしにわかるわけないじゃない。とにかく、わたしはその劉健一って男を利用するべきだと思ったのよ。富春を相棒にするぐらいだから、頭の方はたかが知れてるじゃない。わたしの思うように動かせるかもしれないって」
「やれやれ」
 おれの皮肉なつぶやきも、自分の言葉に酔いはじめている夏美の耳には届かなかった。
「だったら、富春を新宿におびき寄せて、騒ぎが大きくなったところであなたに売ればいいと思ったのよ。そうすれば、あなたは富春を元成貴のところに連れていくでしょう? 富春は殺されて、わたしは晴れて自由の身。荷物をまとめて新幹線に飛び乗って、新宿に部屋を借りたの。一週間ぐらいあいつをやきもきさせてやってから、電話を入れたわ。新宿にいるんだけど、元成貴って人に掴まったの、いま隙をみて電話をかけてるのよ、みんなであなたはどこにいるんだってわたしを殴るのよ、助けてって。どう?」
 電話を再現した部分を、夏美は早口の北京語でまくしたてた。
「あんたは大馬鹿野郎だ」
 おれはいってやった。得意げに胸を突きだしていた夏美の顔が、納得のいかない理由で父親に折檻《せっかん》された女の子のように歪んだ。
「なによ」
「そんな小細工を弄《ろう》さなくても、歌舞伎町に戻ってきたってだけで富春は死人も同然なんだ。あんたは、新宿にいると富春に伝えるだけでよかったんだ。歌舞伎町にいて元成貴の目を逃れることなんかできやしない。一週間も待たずに富春は殺されていただろうよ」
「それを早く、確実にしたかったのよ」
「あんたがくだらない芝居をうったおかげで、富春は頭に血が昇っちまった。もう、五人殺してる」
 夏美が顎《あご》を引いた。おれが嘘をいっているとでもいうように、大きな目でじっとおれの顔を見つめた。
「富春は、女はどこだって叫びながら元成貴の女がやってる店に乗りこんだんだ。いまごろ元成貴は、その女ってのは何者だと考えてるだろう。もう、子分たちに探させてるかもしれない。名古屋とだって繋がりはあるはずだ。佐藤夏美という富春の女が姿を消したってことは、すぐに伝わる」
「だって……」
「富春が殺したのは、元成貴が可愛がってた男だ。富春に女がいるとしたら、その女も富春と一緒に殺そうとするだろうな。元成貴は、富春に負けず劣らず執念深い野郎なんだ」
「わたしは富春とはなんの関係もないのよ」
「そんなこと、元成貴の知ったことじゃないね。それに、警察もあんたに興味を示すだろう」
「嘘よ」
 夏美はいった。おれの言葉を信用しかねている。
「人が死んでるんだ」
 おれは辛抱強く言葉を続けた。こんな馬鹿な女など、さっさと放りだしてしまってもいいのだが、ここでいい含めておかないと性懲りもなく事態をかき回す怖れもあった。それに、富春がこの女を追っているなら、もしかするとおれの切り札になるかもしれない。持ち札は多ければ多いほどいい。
「どうせ死んだのは中国人でしょう」
「警察にはそっちの方が都合がいいんだ。あいつらは、歌舞伎町を昔の姿に戻したがってる。外国人を歌舞伎町から追いだしたいんだ。中国人絡みの事件を舌なめずりして待ち構えてるのさ」
 おれは煙草を取りだした。苛々《いらいら》して、神経がささくれだってきているのがわかった。
「まあ、警察のことは置いておいてもいい。富春を見つけるとしたら、元成貴の方が先だからな。おまわりにうろつかれちゃ、元成貴だって腹が痛むんだ。さっさと富春を始末して、後腐れをなくそうとするだろう。なんにしろ、元成貴は富春と一緒にあんたのことも探してる。間違いない」
「どうすればいいの?」
 夏美は媚《こ》びるような目で見つめてきた。どうやら、やっと事態の深刻さを理解したようだった。
「おれだったら、いまの内に逃げだすね」
「あなたが手助けしてくれれば、なんとかならないかしら」
「ごめんだ」
「意地悪なのね。もっと優しい人だってきいてたわ」
「おつむの悪い女は嫌いなんだ」
「なによ」
 夏美は唇を尖らせてそっぽを向いた。子供じみていた。いや、実際のところ夏美は子供なのだ。
「とにかく、ここは歌舞伎町に近すぎる。引き払った方がいい。名古屋に戻ってろ。富春が元成貴に捕まるか殺されるかしたら、連絡を入れてやる」
「だめなのよ」
 顔を横に向けたまま、夏美は情けない目をよこしてきた。
「どういうことだ?」
「名古屋に戻るつもりはなかったから、いいチャンスだと思って店の売り上げを持ち逃げしてきたの。いま名古屋に戻ったら殺されるわ」
 おれはため息をついた。どうして世の中には後先を考えずに突っ走ろうとする間抜けが多いのか。
「名古屋でなくてもいい。札幌《さっぽろ》、仙台、大阪……とにかく、東京から離れるんだ」
 夏美は首をすくめた。
「それもだめ。お金がないの」
「売り上げを持ち逃げしてきたんだろう?」
「マンションの頭金にしちゃった」
 口を開けたまま夏美を見た。富春を殺すための穴だらけの計画を練りながら、この娘はのんきに家探しをしていたとでもいうのか。
「参宮橋とかいうところに、掘り出しものがあったのよ。新築じゃないんだけど、内装がきれいで信じられないぐらい安かったの」
 夏美は畳に膝を突き、白亜の豪邸を思い描いているかのように目を輝かせた。おれは立てつづけに煙草をふかして、夏美の妄想にちゃちゃを入れてやった。
「それで、あんたは東京というか、新宿を離れるつもりはない。それどころか、残りのローンを払うためにも早く働き口を探したい。それにはさっさと富春にくたばってもらうしかない。そういうことだな?」
「そうね。そうなるわね」
 なんとも邪気のない声だった。
「よし、富春を売ってもらう代金は、あんたを元成貴から逃がしてやるってことでチャラだ。いいな」
 夏美は不服そうだったが、反論はしなかった。
「いい子だ。今後も、おれのいうことには逆らわないではしい。あんたも知ってのとおり、復讐を誓った中国人には情けなんて通用しないからな」
「いいわよ。わたしはどうすればいいの?」
「とりあえず、ここを出る」
 腰をあげて玄関に向かった。
「いますぐ出ちゃうの?」
「そうだ」
「ちょっと待ってよ。スーツケース、ひとつ持ってくれない?」
 夏美の声を無視して、おれはドアを開けた。

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