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十分ほどで夏美はバスルームを出てきた。パジャマ姿だった。
「小一時間ばかり出かけてくる。やってもらいたいことがあるから、着替えていてくれ」
おれはスーツケースから引っ張りだしておいたミニのスーツを指さした。色は真紅だ。これなら、男の目がいくのは服と脚だけで顔を覚えられる怖れはない。夏美には〈薬屋〉まで金を受け取りにいってもらうつもりだ。元成貴はああいったが、〈薬屋〉に見張りをつけてるに決まっている。おれが現れるのを待って尾行するつもりか、あるいは拉致《らち》することも考えているかもしれない。
「せっかくシャワー浴びたのに」
「後でもう一度浴びればいい」
素気なく答え、作りつけのクローゼットから袖《そで》をカットオフしたジージャンとベイスボール・キャップを取りだした。そいつを身につけ、ジョン・レノンのトレードマークだった丸いサングラスをかけると、深夜にナンパに出かけてきたおつむの軽い馬鹿野郎に見える。
「ジーンズとTシャツでいいでしょう? この服を着るなら、お化粧もしなくちゃいけないわ」
「だめだ」
「こういうのを着てる女が好みなわけ?」
「好きじゃない男がいるか?」
ジーンズのポケットに黒星を突っ込み、おれは玄関に向かった。
「おれが戻ってくるまで外には出るな」
「一時間じゃ、そんな暇もないわよ」
「いい子だ」
ドアを閉めた。
渋谷でタクシーをおり、あとは歩いた。明治通りを原宿方面に少し戻り、目立たない路地を右に折れると青空駐車場がある。明け方が近いせいか、駐まっている車は十台ほどだった。一番奥に紺のBMWがあった。フロントウィンドゥの助手席側に見慣れた熊のぬいぐるみが置かれていた。
おれはBMWに後ろから近づき、タイヤの下の土を軽く蹴飛ばした。乾いた金属音がしてキィが転がった。それを拾い上げ、ドアにさしこんだ。ボンネットはまだ温かかった。道楽息子がやってきて、まだ五分と経ってはいないのだろう。シートの上に紙きれが落ちていた。
「次は、ちょっと多めに用意してもらえると助かります」
みみずがのたくっているような小汚い字でそう書かれてあった。最近、薬の量が増えている。そろそろ、この道楽息子とも縁を切る潮時なのかもしれない。
246から山手通りに入り、職安通りを右折した。小滝橋《おたきばし》通りを横切ってガードをくぐったあたりからスピードを落とし、左右に視線を走らせた。見覚えのある中国人たちの姿がやけに目についた。パトカーのサイレン灯の赤いきらめきが歌舞伎町へ入りこむ路地のところどころに点在していた。上海のやつらとおまわりたちが、歌舞伎町の動脈を詰まらせようとしているのだ。
区役所通りを右折してみたが、結果は同じだった。靖国《やすくに》通りを左折して、おれは車を飯田橋に向けた。
マンションから一ブロック隔てたパーキングメーターの前に車を停め、歩いた。自分でもときおり馬鹿らしくなることはあるが、用心を重ねて損をするということはない。なによりも歩くことは健康にいい。
ドアの前で中の様子をうかがった。鼻唄《はなうた》が聞こえる。中島みゆきの歌だ。もしかすると、香港の王菲《ワンフェイ》がカヴァーした方かもしれないが。
そっとドアを開けた。夏美はクローゼットの鏡に向かって、髪の形を整えているところだった。ぴしっと形が決まった上着と、腰の曲線を浮かびあがらせて柔らかい線を強調しているスカートのコントラストが妙に艶《なま》めかしかった。スカートから伸びた脚には黒いストッキング。後ろから見るかぎり、夏美はばりばりのホステスだ。
「準備はいいか」
夏美の背が強張り、爆弾を投げつけられたとでもいうような勢いでさっとこっちに振り向いた。吊《つ》りあがった目に宿っているのは驚愕《きょうがく》、怯《おび》え、慣れに近い反射的な媚《こび》、そして、抑えても抑えきれずに溢れてくる憎悪。中でも、怯えと憎悪の色がおれの心を瞬間的に捉えた。おれは自分の心を探ってそのわけを掴もうとした。だが、おれの心を捉えた目の色は次の瞬間にはさっと消え失せ、安堵と非難の色にとって代わられた。
「ああ、びっくりした。ノックぐらいしてよね」
屈託のない声だった。怯えと憎悪もそこにはなかった。
「出かけるぞ」
「はあい」
夏美は素直にしたがった。
夏美は三足しか靴を持っていなかった。オーソドックスな黒のピン・ヒールを履くと、晴れやかに微笑んで、女優やモデルがよくやるように片足を後ろに跳ね上げてみせた。
「どう? やりたくなる?」
「ああ」
おれはまじまじと夏美を見つめた。夏美の目に見えたものに気を取られていて気づかなかったが、夏美の変身ぶりはたいしたものだった。きつい印象を与える目と眉がシャープさを残したままなだらかに描き換えられ、クールではあるが、ツボを押しさえすれば可愛い女にも変身できるといっているような、ちょいとお高くとまった女をひいひいいわせてみたいと念じている男なら涎《よだれ》を垂らしてすがりつきそうな顔つきに変わっていた。これなら、元成貴の手下に顔を覚えられたとしても、化粧を落とせば見咎められることもないだろう。
エレベータに乗りこむと、夏美はおれの腕に自分の腕を絡ませてきた。おれは放っておいた。悪い気はしなかった。足元に置いた二つのスーツケースが邪魔だった。
明治通りに出て新宿へ向かい、駅前のワシントン靴屋の角を曲がったところで車を停めた。
「やってもらいたいことがあるんだが」
サングラスをかけた目を靖国通りの方へ向けたまま、夏美にいった。
「どんなこと?」
「あの通りを渡って左側の路地、見えるか? 入り口に、さくら通りってアーケードみたいな看板が出てる」
「うん」
「あの通りを入っていって真っ直ぐ、そうだな、五、六十メートルも歩くと誠漢堂って名の古ぼけた漢方専門の薬屋がある。そこに入って、健一の使いの者だっていうんだ。日本語でいい」
「健一の使いでーす」
夏美はふざけた口調でおれの言葉を復唱した。ムカっ腹が立ったが、なにもいわずに説明を続けた。
「分厚い眼鏡をかけた白髪のじじいがいる。そいつが包みを渡してくれるはずだ。それを持って、紀伊國屋《きのくにや》の前に来るんだ」
「健一は?」
いつの間にか、呼び捨てになっていた。
「ここに車を駐めていて目をつけられるとまずいからな。ここらを流しながら迎えにいくよ」
「わかった」
夏美はドアを開け、尻をシートの上で滑らせながら軽やかに車をおりた。
「まだ話は終わってない。歌舞伎町の中は元成貴の手下とおまわりが目を光らせてるはずだ。目立つような真似はするなよ。それから、できたらでいいけど、上海のやつらの動きを観察して戻ってきてくれ」
「任せなさいって」
夏美は面倒くさそうに手を振って背中を向けた。おれの話を聞いていたかどうか、怪しいものだ。だが、夏美は動きだした。いまから話をしなおしたってどうにかなるものでもないだろう。後は、夏美に任せるしかない。ヘマをして捕まっても、おれの知ったことじゃない。
さくら通りへ消えていく夏美を確認して、おれは車をスタートさせた。