26
バスの振動で起こされた。時計は十時を指していた。軽く伸びをし、シートの位置を元に戻した。参宮橋のマンションを出、適当に車を走らせて哲学堂の脇に出たところで車を停め、そのまま仮眠を取ったのだ。軽い休憩のようなものだ。お決まりの夢を見ることもない。
哲学堂に隣接している草野球場の施設の中に入り、水でうがいをした。かなりましな気分になった。車に戻り、歌舞伎町に向かった。
〈カリビアン〉は変りないようだった。店の前には酔っぱらいが残した吐瀉物《としゃぶつ》もなければ、野良猫のクソもない。おれを痛い目にあわせようと躍起になっている若い上海人の姿もなかった。しかし、どこかに見張りがついているはずだ。元成貴と、そして楊偉民の。
ドアを開けるとかび臭い匂いが鼻孔に押し寄せてきた。雨が統いたときはいつもこうだ。床や壁にしみついた酔っぱらいどもの思念が腐臭を放つ。
扇風機をまわしてその匂いを追い払い、カウンターの隅に載っかっている電話に手を伸ばした。着信ランプが点滅していた。メッセージは五つ。最初の二つは仕事の電話だ。マレーシア系の窃盗グループのボスがソニーのCDプレイヤーをトラック一台分|捌《さば》きたいといっていた。もう一つは、祖母の形見の翡翠《ひすい》の指輪を買ってくれないかという女から。この女は金に困るといつもこうしておれに電話をかけてくる。おれが電話に出るとくたばれといわれるのがわかっているので、必ず留守を狙ってメッセージを残すのだ。いかれている。だが、この世にはいかれてないやつの方が珍しい。
女の方は放っておくつもりだが、マレーシアはそうはいかない。この商売じゃ信用がなによりもものをいう。
三つ目と四つ目のメッセージは、発信音と同時に相手が受話器を置いていた。五つめは、富春からだった。
「おれだ。まさか、元成貴の豚野郎にとっ捕まっちまったんじゃないだろうな。頼みがある。また電話する」
メッセージはそれだけだった。なにかに尻を蹴飛ばされているかのような早口の北京語。その図体ならトロいぐらいにゆっくりしゃべった方が凄みが出ると何度もいって聞かせたものだが、まくしたてるような富春のしゃべり方はついに変わらなかった。
おれはカウンターの上に身を乗りだし、グラスとアブソリュートの瓶を取った。指一本分をグラスに注ぎ、一気に飲みほした。渇きは癒えなかったが、とりあえずはそれで充分だった。
頼みたいことというのは想像がつく。夏美を探してもらいたいのだ。馬鹿なやつだ。
ウォッカの熱が頭に昇ってきた。目を閉じ、富春が電話をかけてきそうな場所に考えを巡らせた。時間の無駄だった。目を開け、電話を手元に引き寄せた。ここで待っていれはそのうち富春から電話がかかってくる。おれはただ待っていればいい。時間があれば。そして、おれに度胸があれば。残念ながらおれには時間も度胸もない。いつ元成貴の気が変わるか知れたものじゃない。嵐が通りすぎるまで、ここには近寄らない方が無難だった。
「はい、『カリビアン』です。留守にしてます。御用の方はメッセージをどうぞ」
同じ内容を北京話でくり返し、最後にアルファベットの羅列を付け加えた。
「YZYPKSWPWR」
携帯電話の番号を、富春とクレジットカード強盗をやっていたときに使った符丁に当てはめたやつだ。意味もなく並べたアルファベットに〇から九までの数字を当てはめた符丁で、子供だましみたいなものだがそれなりの役には立った。問題があるとすれば富春が覚えているかどうかだ。この符丁をあいつに覚えこませるのに、かなり頭を痛めた記憶がある。
メッセージがきちんと録音されていることを確かめ、テープを交換した。時計に目をやると、十一時をすっかり回っていた。まだ眠っているかもしれないと思いながら、頭の中にある番号を押した。呼びだし音が十回鳴って諦めようとしたところで相手が出た。
「はい?」
寝起きの声だった。
「おれだ、健一だよ。起こしちまったかな」
「寝ようと思ってたところよ」
秀紅の声はもう普通に戻っていた。
「昨夜《ゆうべ》店で起こったことを知りたいんだ」
「成貴に聞いてよ。さっきまでずっと彼に話してたんだから。それとも、仲のいいおまわりがいれば、そっちに聞けば? ずっと同じことを訊かれてうんざりしているの」
「悪い。あんたの口から直接聞きたいんだ。礼ははずむよ、頼む」
「いいわ」
諦めたような吐息が漏れた。
「最初から話してくれ」
「わたしは客と話してたわ。日本人がへたくそなカラオケをがなりたててたけど、店の中は割と静かだった。日曜だしね。そのうち、ドンっ、て大きな音がして、ドアが開いたの。呉富春が立っていたわ。ううん、そのときは呉富春だとはわからなかったんだけど、とにかく、銃を握って、なにか探しものをしてるみたいな目で店の中をひととおり見回したの。そして、わたしを見つけると、元成貴はどこだ!? って吠えるような声で叫んだの」
「ちょっと待ってくれ。女はどこだ、の間違いじゃないのか?」
「それはもう少しあとよ」
「悪かった。続けてくれ」
「呉富春はわたしに向かってきたわ。それで、男の子たちがわたしを守ろうとして……ズドン、ズドン、ズドン。もう、店の中は大パニックよ。男の子や女の子が撃たれて倒れていくし、あちこちで悲鳴が上がるし。どれぐらい経ったのかわからないけど、気がつくと、呉富春がわたしの目の前にいたの。銃口があんなに大きいなんて思わなかったわ。真っ黒なのよ。地獄に通じる穴みたいだったわ」
「わかるよ、その気持ち。匂いまでついてるからな」
「匂い?」
「硝煙の匂いさ」
秀紅の言葉が途切れた。おれの過去について思いかえしているのかもしれない。
「それで?」
おれは先を促した。
「女はどこだ、って……。知らないって答えたわ。成貴がなにかしたって、わたしが知るわけないじゃないのって。答えたというより、泣いて叫んだという方が正しいけど。撃たれるのかと思ったけど、そのとき、だれかが呻《うめ》いたのよ。呉富春ははっとしたように立ちあがって、周りを驚いたようにきょろきょろ見回して……まるで自分以外のだれかが拳銃をぶっ放していったと思ってるみたいだったけど、それから、出ていったのよ。わたしは一一〇番に電話をかけたわ。それでお終いよ」
「富春は本気であんたを殺すつもりだったかい?」
「ええ。そう思うわ。あいつの気が変わったのは、天のお導きよ」
「狂ってる?」
「百パーセント」
「元成貴はなんていってたかな」
「女とはなんのことだって。身に覚えがないみたいだったわ」
おれは受話器から口を離して、そうだろうな、とつぶやき、煙草に火をつけた。
「富春の着てたもの、覚えてる?」
「ジーンズと足首まであるスニーカー、白い無地のTシャツに紺色のブルゾンだったと思う」
秀紅の度胸と記憶力のよさに拍手してやりたくなった。殺されるかもしれなかったというのに、秀紅は目に映ったものをちゃんと記憶しているのだ。
「銃は?」
「成貴のボディガードが持ち歩いてるのと同じやつだったと思う。なんていうんだったかしら……」
「黒星《ヘイシン》。トカレフ」
「それよ。それを二つ、両手に握ってたわ」
「他になにか思いついたことはないかい?」
ためらいが伝わってきた。おれは辛抱強く待った。
「成貴にも話してないの。気のせいかもしれないのよ。さっきあなたがいった硝煙の匂いと間違えたのかもしれない」
秀紅には珍しく、自信のないおずおずとした口調だった。
「かまわないさ」
「呉富春の身体から、お線香の匂いがしたような気がしたわ」
「ありがとう、秀紅。そのうち、見舞いにいくよ」
「そのうち、か。あなた、生き残るつもりなのね」
返事をする前に電話は切れた。目の前が暗くなったような気がした。もともと明るくなんかなかったのだが、それでも、秀紅の口からそんな言葉が出てくるとは思ってもいなかった。元成貴はおれを殺すつもりだ。少なくとも、秀紅はそう感じている。
おれは頭を振って不吉な考えを追い払った。これまでだって生き残ってきたのだ。どうしてそれが続けられないなどと考えなければいけない?
上の部屋へあがって、とりあえず必要なものをボストンバッグに詰めこんだ。後に残ったのは、どうでもいいようなものばかりだった。この店はおれの城みたいなものだったが、たいした感慨もわかなかった。もしかすると、ここには二度と戻ってこれないかもしれない。そう思ってみても、おれの心の中は空っぽだった。おふくろと住んでいた大久保のマンションと同じだ。
店におり、志郎に手紙を書いた。しばらく顔を出せない、店をやるやらないはおまえの勝手だ、もし店を開けるなら、おれがいない分の売り上げはすべてくれてやる、代わりに仕入れも自分の金でやれ。そんな内容の日本語を、思いつくままに書き散らした。
店を出ようとして、ふと、CDラックに目がいった。ほとんどのCDは志郎が集めてきたものだが、なかにはおれが買ってきたものもある。崔健のCDに手を伸ばそうとして思いとどまった。崔健の歌はすべて空で歌える。曲にこめられた魂は、CDの中じゃなくおれの頭の中にある。地図に描かれた祖国と現実の祖国が違うようなものだ。それに、なにかに執着するやつは、必ず墓穴を掘ることになっている。
CDをボストンバッグの中に放りこむ代わりに、AVのメイン・スウィッチをオンにした。ターン・テーブルの上には崔健のセカンドアルバムが入れっぱなしになっている。リモコンで曲を選択し、スタートさせた。
崔健の歌う『南泥湾《ナンニイワン》』。中国の革命歌だ。おれにとっての南泥湾はこの歌舞伎町ということになるのだろうが、そんなことにたいした意味はない。
おれは古いメロディを背中で聞きながら〈カリビアン〉の階段を下った。一度も振り返らなかった。