27
サブナードの地下駐車場に駐めてあるBMWにバッグを放りこみ、新宿駅から山手線に乗った。
秀紅に電話をかける前は、どこへ行けばいいのか見当もつかなかったが、今は違う。服に匂いがしみつくほど線香が焚かれている場所といえば、おれの知るかぎり新宿近辺には二ヶ所しかない。大久保駅の裏側にある二階建ての木造アパートの一室と、百人町のマンションの一室だ。似たような顔の台湾人老夫婦が、私設の寺院のようなものをやっているのだ。はじめは、故郷を離れてやってきた人間のために朱色の祭壇をこしらえただけの粗末なものだったが、不景気になってから需要が極端に伸び、台湾人だけじゃなく大陸やタイのやつらまで祈りを捧げにくるようになっていた。特に女たちには人気で、仕事が終わった深夜、仏さまに供えるための花束を抱えた女たちが大久保方面に向かっていく姿が夜毎目につく。休日には、千葉や埼玉からバスを仕立ててお参りにやってくる女たちもいる。もちろん、彼女らが祈るのは商売繁盛だ。金以上に大切なものなどこの世にはないということを、女たちはよく知っている。
大久保の方の寺院をやっているのは人がいいだけの夫婦だが、百人町の方はちょっとばかり事情が違った。張國柱《チャングォチュー》と馬曼玉《マーマンユイ》という夫婦がやっているのだが、馬曼玉がやり手婆の典型のような女なのだ。台湾から出稼ぎにくる若い女が多かったころは手広く売春を組織してたんまり稼いでいた。女の数が少なくなると、商売替えをしたんまりとはいえないがそれなりに稼いでいる。銃器の密輸と密売を手掛けているのだ。寺院には「華聖宮《ファションゴン》」というたいそうな名前が付けられているが、実質は密売の隠《かく》れ蓑《みの》というにすぎない。曼玉婆さんにかかっちゃ、仏さまも慈悲のふるいようがない。富春だって、仏さまに用があったわけじゃあるまい。婆さんが売り捌《さば》く銃に用があったのだ。
そのまま新大久保でおりようかと思ったのだが、時間が早いことを考えてやめた。寺院は早朝まで開放されている。婆さんたちが起きだすのは昼を過ぎてからなのだ。二時間ほど時間を潰さなきゃならない。おれは目的地を目白に切り替え、扉の窓からどんよりと曇った空を見上げた。
目白に出てすぐ、携帯電話の電源を切りっぱなしにしていたことを思いだした。スウィッチを入れるとタイミングを計っていたようにベルが鳴った。
「はい?」
「泥棒!」
夏美だ。声が二オクターブぐらい跳ねあがっていた。
「どうした?」
「どうしたじゃないわよ。カード、返して」
「なんのことだ」
「銀行とカード会社に紛失したって電話いれたから、持ってても使えないわよ。返して」
「なんのことだかわからないって」
「豚野郎」
北京語だった。おれも北京語でこたえた。
「部屋に戻っておとなしくしてろ。そのうち見つかるさ。じゃあな」
夏美がなにかを叫んだが、おれは電話を切った。ベルの音量をミニマムに調節した。すぐにベルが鳴ったが、ポケットに突っ込むとほとんど気にならなかった。
目白通りを西へ進み、ケンタッキーのある角を左に曲がった。十メートルほど歩いた右側に目当てのマンションがあった。超の字を三つぐらい並べたくなる外人専用の豪華マンションで、住んでいるのは外交官、事業家、タレント、それに詐欺師だ。もっとも、ペテンを働かない人間がこの世にいるのかと訊かれると、おれも返事に困るが。
エントランスの中ほどにある側面のパネルから五〇五のボタンを選び、押した。返事はなかった。煙草に火をつけ、ボタンを押しっぱなしにした。二本目の煙草に火をつけたところで、やっと金《キム》のダミ声がスピーカーから聞こえてきた。
「うるせえな。いいかげんにしやがれ」
立派な日本語だった。
「おれだよ。健一だ。仕事があるんだ」
「あんたかよ。何度いったらわかるんだ。午前中は寝てるって」
おれはボタンを立てつづけに押した。
「わかったわかった。今開けるよ。くそ」
金の言葉が終わるか終わらないかのうちに、ドアの向こう側に人の気配がした。エレベータが開き中から二メートルはあるんじゃないかと思うぐらいの大女が出てきた。なにかの雑誌で見たことがある。日本で人気が出てきたというファッション・モデルだ。二メートルはおおげさにしても、一九〇近くはあるに違いない。モデルは内側からドアを開けると、「COME IN」といった。おれは巨人の国に迷いこんだガリバーのような気分でモデルを見上げ、口笛を吹いてやった。本来ならおれがドアを支えてやるべきなのだが、そんなことをすれば、モデルの気分を害するに決まっていた。
モデルは一瞬だけおれに微笑みを見せると、表情のない能面のような顔で表の通りに出ていった。歩幅がおれの三歩分はありそうな歩き方だった。
おれは首を振りながらエレベータに向かった。大女の後ろ姿と、大金をかけてあるに違いないセキュリティ・システムにはなんの支障も来されずにマンションの中へ入れたことを考えると、おれの人生もまんざら捨てたもんじゃないという気分になってきた。このマンションであの大女に抱かれて眠ったら、さぞかし首筋が寒くなることだろう。
金の部屋はガラクタ置き場だ。リヴィングの床は足の踏み場もないほどコードやパソコンのオプション機器がばらまかれ、その上の空間にはざっと見ただけでも十台以上のパソコンが無秩序に並べられている。おれにはなにがなんだかわからないが、そうしたものすべてがなんらかのシステムの中で密接な繋がりを持っているらしいのだ。パサパサに乾き盛大な寝癖がついた髪の毛をかきむしりながら、金はマッキントッシュの前に座ってモニタと睨めっこをしていた。起きている時間のほとんどを、金はこうやって過ごしているのだ。
「なにか面白い情報はあるかい?」
足の裏を怪我しないように注意しながら、おれはガラクタ置き場の真ん中に進んでいった。
「おまえさんに話したってわからないだろうが」
モニタをスクロールする文字を眺めたまま金はいった。おれもちらっと眺めてみたが、モニタに映っているのは日本語でもハングルでもなく、英語のようだった。
金のフルネームが何というのか、おれは知らない。おれが知っているのは在日朝鮮人で、初めての女にへたくそと嗤《わら》われて以来ずっとインポで、五十近い年になるまでずっとパソコンに囲まれて生きてきた変態だということぐらいだ。パソコンおたくたちの間では「ゴールドマン」という通り名で伝説的なハッカーとして知られている。いま流行のインターネットにも、一般に開放されるずっと前から、金は潜りこんである種の人間や企業に必要な情報をかっさらっていたのだ。
おれは二枚のキャッシュカードとクレジットカード、それに夏美のパスポート番号を書きつけた紙を金に差しだした。
「これを洗ってもらいたいんだ」
金はおれの差しだしたものをつまらなそうに指先で摘みあげた。
「劉さんよ、こんな仕事、わざわざおれに持ってこなくてもいいだろうが」
「他に頼める人間を知らないんだ」
「何度も教えてやっただろう、おれの仲間を」
「みんなガキだ。信用できない」
「ま、そりゃそうだ。あいつら、何度口をすっぱくしていっても遊び気分が抜けやがらねえ」
パンチパーマをかければすぐにでもやくざといって通りそうな顔と声で、金は満更でもなさそうにうなずいた。
「カードの方は紛失届けが出てるかもしれない。頼むよ」
「わかったわかったわかりました。腹のたしにもならない仕事だけど、劉さんの頼みとあっちゃやらないわけにはまいりませんって」
金はキーボードをそっと撫でた。モニタをスクロールしていた文字列が魔法のように消えた。キーボードの上を金の太い指が動くたびに、モニタはぱっぱっと切り替わって金に何事かを伝えていった。
確かにこんなのは金にとっては仕事とはいえないようなたぐいのことだろう。金はアメリカの空軍や中国共産党本部のコンピュータに侵入したこともある凄腕のハッカーなのだ。おれも金の噂《うわさ》を聞いてはいたが、長い間雲の上の存在だった。金がかかりすぎるのだ。クレジットカードをぱくったところで数十万の稼ぎにしかならないのに、いちいち金を使ってカードの汚れを調べていたんじゃ割にあわない。
風向きが変わったのは、四年ほど前のことだ。金はロリコンだった。歌舞伎町のエロ本屋でロリータものに熱心に目を通している金を見かけたやつがいたのだ。子供好きの変態ってのは、日本じゃまだ数が少ない。住処《すみか》を這《は》いでて動き回っていれば、いやでも目につく。いろいろ調べてみると、金が必ず年に数回フィリピンに出かけていることがわかった。ビンゴだ。おれは故郷の母親が急病で、いますぐ大金が必要だというフィリピンの娼帰と話をつけ、まだ五歳になるかならないかだった娘を借り受けることにした。大急ぎでパソコン通信を勉強し、金が出入りしているというネットに入りこんだ。そして、網を張った。
そのパソコンネットは、変態の溜り場みたいなものだった。話題といえばアニメとパソコンのエロゲーム、それにどこそこの幼稚園に可愛い子がいるといった情報ばかりだった。おれは慎重に変態たちの輪に加わり、頃合を見て、歌舞伎町のフィリピン人娼婦で子供を一晩預からせてくれる女がいるという情報を流した。もちろん、おれもやった、最高だった、と付け加えることは忘れなかった。その情報に押し寄せてきた変態は腐るほどいたが、金はなかなか引っ掛かってこなかった。おれは辛抱強く待ちながら、ときおり、餌《えさ》を撒いた。最初の娼婦の口利きで、別の少女を抱くことができた、とか、口が固いのは安心できるのだが少々高くつくのが頭痛の種だといったような餌だ。
しばらくして、金が食いついてきた。電子メールで、おれがやったという女の子の写真を見ることはできないかといってきたのだ。おれは昔、手に入れた写真をスキャナでパソコンに取りこみ、それを電子メールで送信した。アメリカで出まわっていた地下ポルノのビデオから起こした写真で、日本じゃまず目にしたやつはいないはずのものだ。
数日後、金からまた電子メールが届いた。金は相場の倍払ってもいい、絶対に口外しない、だから、紹介してくれないか、と。
おれは待ち合わせの場所と、フィリピン人娼婦の名前——ルナといった——を指定する電子メールを送った。あとは簡単だった。歌舞伎町のミスター・ドーナッツに現れた金を、ルナが自分の娘が寝ているアパートに送りこみ、ことをおっぱじめようとする直前に、ルナのボーイフレンドのチンピラ——日本人だ——に踏みこませたのだ。
金はそれが罠《わな》だったことに気づいた。だが、罠にかけたのが目の前のチンピラじゃなく、おっとり刀でかけつけ中国語でわめきはじめたおれだとまでは気づかなかった。
おれはチンピラとルナを軽く殴りつけ、大声で泣いている女の子を優しく抱きかかえた。それから、金にいってやったのだ。訛りの強い日本語で。
「あんたもこいつらにひっかけられたクチか? 参るなぁ。変態さんは見境がつかなくて」
「お、おれはなにも……」
「いいんだよ、パソコン通信とかなんとか、おれにはわからないんだから。こいつら、しょっちゅうこんなことで稼いでるんだ」
パソコン通信という言葉に、金はたやすく反応した。電子の世界では強持てでも、現実の世界じゃそうはいかない。いくら顔がいかつくても、だ。
おれはうまく話をまとめるふりをして金を解放してやった。その後の二ヶ月は、週に一度ほど目白に出かけていっしょにお茶を飲んだ。はじめは金も嫌がっていたが、そのうちハッキングのことや変態趣味のことをちらほらと話すようになった。金の懺悔《ざんげ》を聞く神父の役目を勝ちとったようなものだ。おれは変態趣味を他人に気づかれないように楽しむ方法をあれこれと考えては、金に教えてやった。そして、三ヶ月後に金に仕事を頼んだ。ある人間のパスポートが偽造である証拠を手に入れたかったのだ。金は格安で引き受けてくれた。
キッチンのどこからか、振動音が聞こえてきた。なぜわざわざそんなものをキッチンに置かなきゃならないんだとぶつぶついいながら、おれはガラクタをかき分けて流しの上のプリンターに手を伸ばした。吐きだされた用紙は二枚。夏美の銀行への出入金がプリントされていた。
片方の銀行は、カードの決済にだけ使っていたらしく、規則性のない金額が毎月四日に入金され、六日に落とされているのがわかるだけだった。もう片方が、夏美のいわゆる取引銀行だった。口座を作ったのが一九九二年の六月。以降、毎月五十万から八十万の金が定期的に入金され、ほとんど同じ額がランダムに引き落とされていた。残金は五十万ほど。でかい金が動いた様子はなかった。マンションの頭金を夏美はどこかで手に入れたのだ。おそらくは、店の売り上げ以上にやばい金だ。
「ちょっと」
金の野太い声に顔を上げた。
「クレジットカードだけどな、奇麗なもんだ。飯屋、宝石屋、ブティック。支払いが滞ったこともなければ、使用限度額をオーバーしたこともない。それでも、プリントアウトがほしいか?」
「もちろん」
おれはこたえた。宝石や服の金額はどうでもいいが、食い物屋で使った金額は、見るやつが見れば価値のある情報に変化する。一人で食ったのか男と食ったのか、それとも大人数でか。特に夏美の場合は水商売の女だ。外食となれば一人ってことはあるまい。
また振動音がして、プリント用紙が吐きだされた。全部でA4の用紙が五枚はあった。
「パスポート番号の方は時間がかかる。そいつと睨めっこでもして時間を潰してくれ」
金に曖昧《あいまい》にうなずき、おれは用紙にチェックをいれはじめた。夏美がカードを取得したのは一九九三年の八月。保証人の名義は佐藤正隆という男だった。兄ということになっていた。本当に兄かどうかは怪しいものだ。当時、夏美が勤めていた店のマネージャーかなにかだろう。
リストにはブティックや宝石店での買い物が続き、ときおりしゃらくさい名前のレストランや、どう考えてもホストクラブとしか考えられない店の支払いが混じってくる。キャッシュやローンのサービスを使用したことは一度もなく、夏美はカード会社にとって上々の顧客だった。
飲食店の利用が増えはじめたのは去年の春あたりからだった。中華が圧倒的に多く、和食やイタリアンやフレンチらしいのは数えるほどしかない。あとは飲み屋。恐らく、そのころ夏美と富春は出会ったのだ。名古屋に逃げこんだ富春に金を稼ぐ目当ても才覚もなく、夏美が支払いを受け持ったということだ。
「出たぁ」
パチンコ屋の椅子に座って数分もたたないうちに当たりが出てしまった親父のようなすっ頓狂な声を金が張りあげた。
「なんだ?」
「劉さん、この番号のパスポートは、取得した翌日に紛失届けが提出されて再発行されてるぜ。盗まれたんだな」
「なるほど」
「名前は佐藤夏美。性別は女。生年月日は一九六七年七月。本籍地は岐阜県。未婚。わかるのはこんなとこだ」
おれは胸の前で組んだ腕で顎の下をぽりぽりと掻いた。
「金さん、悪いんだけど、他のカード会社を調べて愛知県か岐阜県で一九六七年七月生まれの佐藤夏美がカードを取得してるかどうか調べられないか」
「おれをだれだと思ってるんだよ」
気分を害したような顔をして、金はモニタに向き直った。おれは顎を掻くのをやめ、煙草に火をつけた。金が露骨に嫌な顔をした。パソコンというのは煙草の煙に弱いのだ。ひと口思いきり煙を吸いこんでから、蛇口をひねり煙草の穂先を水で濡らして消した。
「悪いね」
「いや、おれが無神経だった」
「すぐ終わるさ。そしたら、外で好きなだけ吸えばいい……ほら、出たぁ」
おれは金の肩越しにモニタを覗きこんだ。金がハッキングしたのはマスターカードのホスト・コンピュータらしかった。モニタの上から下まで隙間なく並んだ文字の中に、佐藤夏美という名前は三つあった。一九六七年七月生まれの佐藤夏美は名古屋市在住ということになっていた。
「その佐藤夏美のカード使用状況を出せるか」
答える代わりに金は太い指でキーボードを叩きはじめた。画面が切り替わり、おれが手にしたプリント用紙と似たようなレイアウトが現れた。
「しけた女だな」
金が洩らした感想のとおりだ。この佐藤夏美は半年に一度カードを使うかどうかだ。それもキャッシングだけ。
「別の女だぜ、劉さん」
「そういうことになるな」
おれは屈めていた腰を真っ直ぐに戻した。夏美は夏美じゃない。わかったのはそれだけだ。だが、なにもわかっていないよりはマシになったような気がした。