29
百人町へはタクシーを使った。屋台村で知り合いの料理人に軽い飯を作ってもらい、それで腹を膨らませ、華聖宮《ファションゴン》へ向かった。
山手線と中央線のガードに挟まれた大久保通りのちょうど真ん中あたりを右に曲がりしばらく歩いた先に華聖宮が入ったマンションがある。エレベータもない古ぼけたマンション。階段を上がると、線香の香りが鼻についてきた。
初めて訪れたやつでも、華聖宮がどの部屋なのかはひと目でわかる。くすんだスティールのドアが並んでいる中、一番奥の部屋のドアだけ別世界のような色彩を誇っているからだ。中華風の赤を基調とし、名前もよくわからない神様たちが描かれた飾りものが派手派手しくドアを取り囲んでいる。そしてその真ん中に、特大の文字で「華聖宮」と書かれた看板が打ちつけられているのだ。
ドアの脇の呼び鈴を押した。それほど待つこともなくドアが開いた。皺《しわ》だらけの顔がおれを正面から見据えていた。張國柱《チャングォチュー》だ。世界中の苦難を一人で請け負ったってこれほどの数は刻まれないだろうと思えるほどの皺の中で目を瞬かせ、張國柱はおれを招き入れた。
「景気はどうだね、劉《リウ》さん?」
「ぼちぼちだよ」
おれは目の前で手で振りながら答えた。部屋の中は線番の煙で霞んでいた。
トイレとバスルームに挟まれた短い廊下を抜け、ダイニングキッチンを横切って、奥の和室に入った。朱塗りのどでかい祭壇が視界一杯に広がった。無数の仏像があら捜しをしてるような目でおれをじっと見下ろしていた。祭壇のあちこちには線香が立てられ、まるで燃えてるんじゃないかと思えるぐらいの煙を盛大に吐きだしていた。
「神様に線香をお供えしててくれんか。婆さんを呼んでくる」
張國柱はそういうと、おれに背中を向けた。おれは顔をしかめながら祭壇の脇にある線香を三本摘まみ、蝋燭《ろうそく》の火に先端をかざした。神様仏様を信じてるわけじゃないが、表面だけでもとり繕っておかないと、あとで泣きを見ることになる。台湾人社会じゃ、祭壇を前にして鼻くそをほじくるようなやつは同じ人間とみなされない。
先端から煙を立てはじめた線香を両手で持って、おれは三度こうべを垂れた。壺にその線香を突きたてたとき、馬曼玉《マーマンユイ》の耳障りな声が聞こえてきた。
「珍しいことがあるもんだ。仏様が腰を抜かさなきゃいいけどね」
「婆さんがこの祭壇をこしらえたときに、みんなショックで寝込んだに決まってる」
おれは顔をしかめたまま振り返った。この部屋の中じゃ、煙草を吸おうという気にもならない。
「相変わらず罰当たりなことをいいよる」
馬曼玉は不機嫌そうに顔を揺すった。ほつれた白髪が霞のように揺れ、艶と張りのある健康そうな頬の肉がぷるんと震えた。曼玉婆さんは國柱爺さんの精気を吸い取っている、というのは、ここらの台湾人の間じゃ笑えないジョークだ。
「楊偉民《ヤンウェイミン》の狸《たぬき》は変りないかい?」
馬曼玉はおれを押しのけるように祭壇の前に立ち、線香を手に恭しく祈りを捧げた。
「ああ、あと五十年はくたばりそうにないよ」
「そうかい」
馬曼玉は残念そうに肩をすくめた。昔、楊偉民にこっぴどくどやしつけられたことがあるらしい。馬曼玉は楊偉民を嫌っている。
「あの耄碌爺《もうろくじじ》いがいなくなれは、歌舞伎町もずいぶんと風通しのいい町になるのにねえ」
おれと馬曼玉はダイニングキッチンへ戻った。張國柱がお茶をいれていた。張は茶碗にお茶を注ぐと、ひっそりとした足どりで祭壇の隣の部屋に姿を消した。まるで曼玉婆さんにかしずく執事のようだった。実際、この二人は夫婦というより女主人とその使用人といった方がぴったりはまる。
「で、なんの用だい?」
馬曼玉はお茶をすすりながらいった。おれに椅子をすすめる気配もなかった。
「なんだと思う?」
おれは勝手に椅子に腰を下ろし、茶碗に手を伸ばした。
「あんたが銃を買いに来るわけはないし、さて、なんだろうね」
感心して馬曼玉の顔を眺めた。堂に入ったとぼけぶりだ。
「わかったよ」
おれは苦笑いを浮かべた。
「昨日、呉富春《ウーフーチュン》が来ただろう」
「だれだい。その呉富春というのは?」
「とぼけるなよ。そのときの様子を教えてくれ」
馬曼玉はなにも答えなかった。おれの顔から目を逸らさず、音を立ててお茶をすすっていた。
「五万出す」
「知らないね」
「婆さん、強欲すぎるぜ」
「今日、元成貴《ユェンチョンクィ》に電話する約束があるんだよ。そろそろ時間かねえ」
はったりだということはわかりきっていた。それでも、折れて見せるしかなかった。
「七万だ」
「線香やお供え物にかかるお金も最近じゃ馬鹿にならないんだよ、健一や。あたしたちも年だしね」
「お参りに来る女たちからお布施はたっぷり入ってるだろう」
「本職の方が厳しいのさ」
馬曼玉は肩を落として寂しげにつぶやいた。みえみえの芝居だが、この婆さんにそれをやられると誰も何もいえなくなってしまう。それに、馬曼玉の台詞《せりふ》はあながち嘘でもない。歌舞伎町じゃ銃はだぶついている。やくざは新法が怖くて銃から手を引きはじめているし、中国の流氓たちは独自のルートで腐るほど銃をかき集めている。馬曼玉のお得意さんは、流氓の組織からも弾きだされた跳ねっ返りだらけなのだ。
「十万。それ以上は出せない」
馬曼玉の顔がしょうがないねというようにすっとゆるんだ。犬か猫の肉球なみにぷっくり膨らんだ掌がこっちに突きだされた。おれはポケットに手を突っ込み、十万のズクをその手に握らせた。
「最初から十万出す気だったんじゃないか。どっちが強欲だかわかりゃしないよ」
恨めしげな声だったが、指と目は忙しく札の枚数を確かめていた。
「はじめっから話してくれ」
馬曼玉がズクをしまい込むのを待って、おれはいった。
「昨日の六時ごろだったかねえ……たった今人を殺して来たみたいな顔でここに乗りこんできたんだよ。仏さまにお祈りもせずに、銃を売れってね。あの子にも日本人の血が流れてるんだろう?」
富春の礼儀がなってないのは全部日本人の血のせいだといいたげな目で、馬曼玉はおれの顔を見た。おれは顎先を揺すって先を促した。
「しょうがないからあたしは聞いたのさ、どんな銃がほしいんだってね。そうしたら、なんだっていいから二丁よこせって怒鳴るんだ。心臓が止まるかと思ったよ。年寄りを大切にしないと罰が当たるよってよっぽどいってやろうかと思ったけどね」
「それで」
「まあ、礼儀はなってないけど、久しぶりの上客かもしれないと思ってさ、金を見せてくれっていったんだよ。そうしたらあの罰当たり、二十万ぽっちしか出さなかったのさ。あたしは、そんな金じゃ一丁だって売れるもんかっていってやったよ。あたりまえさ、一丁につき仕入れでどれぐらいかかってると思ってるんだい。人を馬鹿にするにもほどがあるよ。でも、日本人はだめだね。目上の人間を敬うことも知らなけりゃ、商売のなりたち方だって知らないんだ。てめぇをぶっ殺して取っていってもいいんだぞ、このくそ婆あって凄むんだよ」
馬曼玉の目尻が悔しそうにひくついた。
「あたしはいってやったよ。そんなことをしてごらん、楊偉民が黙っちゃいないよって。そうしたら、あんな老いぼれになにができるってうそぶいて、あたしの喉を絞めようとしやがるのさ。國柱が間に入ってくれて助かったけどさ、國柱がいなかったら、ほんとに殺されてたかもしれないよ」
おれは張國柱が消えた部屋の方に視線を飛ばした。あのよれよれの爺さんが、血気にはやった富春を御したというのがどうにも信じられなかった。
「國柱は今でこそああだけど、昔は軍人だったんだよ」
おれの視線の意味を察した馬曼玉はどうってことはないという口調でいった。
「今だってその気になればあたしを守るぐらいのことはできるんだ。なにも知らないやつらは口さがないことをいってるけどね」
おれは黙ってうなずいた。馬曼玉が銃の密売をはじめたと聞いたときは、なにをとち狂ったのかと思ったものだ。だが、張國柱の過去がそうさせたのだということがやっとわかった。
「そんなことがあってさ、國柱に怪我でもされちゃかなわないし、あの礼儀知らずにあれ以上暴れられても困るから、中古の黒星を二丁、売ってやったんだよ。二十万ぽっちでね」
「おれから十万巻きあげたんだ。それで我慢しなよ」
「ふん、なんだい、十万ぽっちで偉そうにするんじゃないよ。最近は景気がいいって話じゃないか。知ってるよ、盗品の横流しだけじゃなくて、不法滞在の真面目な子を狙って金を巻きあげてるらしいね」
おれは茶をすすって煙草をくわえた。馬曼玉のいうとおりだった。オーヴァーステイしてる連中の大半は、真面目にコツコツ働いてる。やつらには偽造パスポートを手に入れる知恵もなけれは金もない。そんな間抜けだから、やつらは犯罪の被害にあっても警察に届けることができない。不法滞在がばれて強制送還されてしまうからだ。おれたちにはかっこうのカモだ。
歌舞伎町でちょっと耳をそばだてていれば、どこそこのだれがオーヴァーステイなのかはすぐにわかってくる。福建あたりの流れ者に声をかけて、そんなオーヴァーステイの連中を脅しあげて金を奪うという仕事に、おれは今年になってから手を染めていた。
馬曼玉は責めるような目をこっちに向けていた。ヤクザ同士で金を奪いあうのはいいが、堅気に手を出すなんてとんでもないという目つきだ。おれは煙草の煙を吐きだしながら、その視線を平然と受けとめた。祭壇を隠れ蓑にヤバい商売に首を突っ込んでいる馬曼玉にそんなことをいわれる筋合いはないし、そもそもおれには罪悪感なんかこれっぽっちもない。滞在期限が切れたというのになんの手も打たないやつらが悪いのだ。この件に関してなにか問題があるとしたら、馬曼玉の耳におれがやったという噂が届いているということだ。楊偉民も気づいているのだろう。そろそろ手を引いた方がいいってことだ。
「まだ続きがあるんだろう?」
「十万分は話したよ」
「ふざけるな」
おれはにべもなくいい返した。馬曼玉はあっさりとうなずいた。
「今回は特別サービスだよ、健一。貸しはそのうち返してもらうからね」
「ああ」
「あの馬鹿が帰ったすぐ後に、上海の女の子が四、五人、来たんだよ。外に福建のチンピラがうろついてるって怯えてたね」
「福建だって?」
「あんなダサいかっこしてるのは福建に間違いないっていってたよ。呉富春が連れて来たんだろう」
「上海の子ってのは、なにをしてる女だ?」
馬曼玉は歌舞伎町の上海クラブの名を口にした。そこで働いているということらしい。その店なら、おれも知っていた。元成貴の息がかかった売春専門のクラブだ。そこで働いている女なら、流氓の顔にも詳しいはずだった。
「見たことのない顔だったんだな?」
「そういってたね」
おれは立てつづけに煙草をふかした。ここらあたりにも福建人はいる。真面目に働いてるやつも流氓も、だ。だが、流氓は新宿じゃ比較的おとなしくしている。歌舞伎町は上海と北京の縄張りで、やつらが肩で風を切って歩けるのは池袋|界隈《かいわい》と決まっているのだ。
元成貴の手下の話を思いだした。富春は明治通りでタクシーを拾って池袋方面に消えた。
「婆さん、長居して悪かったな」
煙草の吸い殻を湯飲みの中に放り投げて立ちあがった。
「顔色が悪いよ、大丈夫かい?」
馬曼玉の顔は、その声とはぜんぜんそぐわなかった。
「ちょっと寝不足なんだ」
「今度は夕方においで。たまには台北の家庭料理を食わなきゃ身体がもたないよ」
「婆さんが作ってくれるのかい!?」
まじまじと馬曼玉のふくよかな顔を見下ろした。馬曼玉を知って、もう十年近くになるが、料理をしているところなど一度も見たことがない。
「國柱が作るんだよ」
わたしがなんで料理なんかしなきゃいけないんだい、という目と声だった。
張國柱がこもっている部屋のドアにちらっと視線を走らせた。部屋からはなんの気配も伝わってこなかった。おれは首を振りながら華聖宮を後にした。