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「起きて。もう、二時間たったわよ」
肩を揺すられて目がさめた。まだ九月だというのにジージャンなんぞを着て寝たものだから、身体中汗まみれだった。腰に差し込んだままの黒星のせいで、筋肉が強張っていた。
身体を起こすと、夏美が手を差し伸べてきた。濡れたハンカチ。おれはそれを受け取り顔を乱暴に拭った。
「お腹は空いてない?」
夏美はおれの横で畳に膝をついていた。薄いピンクのパジャマを着ていた。まるで、夫より早く起きて家事に精を出している新妻といった風情だ。
「なんの真似だ?」
おれはいってやった。夏美は恥ずかしそうに顔を伏せた。
「今までのこと、反省しようと思って」
「よくいうぜ」
おれはキッチンへ足を運び、蛇口から直接水を飲んだ。その後を、夏美がひっそりといった感じでついてきた。
「金もない、カードも使えない。富春が捕まって殺されるまでおれに頼るしかない。だから、おれに放りだされないようにしようって魂胆なんだろう。見え見えだよ、夏美」
腕で唇を拭いながら振り返った。夏美は唇の右端を心もち吊りあげ、どこか投げやりな視線をおれに向けていた。
「それにこのマンションをあっさり教えてしまったのも失敗だったな」
「勝手にひとの物を持ちだしたあんたが悪いんじゃない」
おれは夏美の肩に手を伸ばした。夏美はびくっと震え、おれから逃げようとする素振りを見せたが、途中でどこにも逃げるあてなどないのだと気づいたというように動くのをやめた。
「いいか、一つ教えておいてやる。盗まれるやつが間抜けなんだ。それがおれたちのルールだ」
夏美はおれの話なんか聞いちゃいなかった。じっと肩に置かれたおれの手を見つめていた。唇がかすかにわなないていた。
「どうした?」
「撲《ぶ》つの?」
「なんだって?」
「あなたもわたしを撲つ?」
おれははっとして手を引っ込めた。夏美は身じろぎもしなかった。底意地の悪い魔女に魔法をかけられたとでもいうように、ただじっと立ち尽くしていた。
ジージャンのポケットから煙草を取りだし、ゆっくり火をつけた。四、五回煙を吐きだすと、夏美がやっと視線をこっちに向けてきた。
「富春にはよく殴られたのか?」
「富春だけじゃないわ」
「おれは殴ったりはしない。気にしないことだ」
夏美は微笑んだ。白目が黄色く濁ってみえた。おれの言葉など、これっぽっちも信じちゃいないという目つきだった。
「いいのよ、撲っても」
夏美はおれに摺《す》りより、蛇のように身体を絡ませてきた。
「わたしを健一の女にしてくれるなら、どんなことをしてもいいわ。その代わり……わたしを守って」
熱に浮かされたような目がおれを見つめていた。黄色い濁りが一段と濃くなっていた。おれは夏美の腰に手を回し、煙草を深く吸いこんだ。そして、煙を夏美の顔に吹きかけた。
「なにするのよ!」
おれは笑ってやった。顎《あご》のあたりが強張っていたが、うまく笑えたはずだった。
「おれの女になりたいなら、本性をさらけだしてくれないとな」
「なんのことよ?」
「おまえは佐藤夏美じゃない」
「それがどうしたのよ。偽《にせ》の身分を持つことぐらい、だれだってやってるわよ」
「そうさ。おれだっていくつもパスポートを持ってる。おまえが通りすがりの女ならそれでかまわない。ただ、おれの女になりたいんなら、隠しごとはなしだ」
「それがルールってわけ?」
夏美は胸の前で腕を組んでせせら笑った。
「それがルールだ」
おれは煙草の穂先を指で押し潰した。熱さは感じなかった。
「馬鹿みたい。押し倒すだけでいいのよ。それであたしとやれるのに」
「おれはそういうやり方はしないんだ。別に女がいなきゃ困るってわけでもない。何を考えてるかわからない女と一緒に寝て、気がつくと喉を切られてたなんてことになるぐらいなら、一人でマスを掻いてた方がましだ」
「臆病なのね」
「だから、たった一人でも生きてこれたのさ」
「わたしも一人よ。でも、あんたみたいに臆病じゃないわ」
「運がよかっただけだ」
「富春に聞いてた話とぜんぜん違うわ」
夏美の目から黄色い濁りが消えていた。熱病は去ったということだろう。
「頭が回って凄いタフだって……」
「富春にはなにもわかっちゃいないんだ。あいつは目の前に金が落ちてたって、糞と見分けることもできないんだからな。それに、富春とつるむようなやつは頭が悪いといったのはおまえだろう」
夏美がくすりと笑った。耳年増《みみどしま》の少女が、何度も聞かされた下品なジョークに反応したような笑いだったが。
「さて、どうする?」
「佐藤摩莉子。中国名は王莉蓮《ワンリーリェン》。どっちでも、好きな方で呼んでいいわよ」
夏美は空中に人差し指で漢字を書きながらそういった。
「小蓮《シャオリェン》か……そっちの身分を証明するものはあるのか?」
「佐藤夏美のパスポートを手に入れたときに全部捨てたわ。生まれ変わったつもりだったのに」
「親父、おふくろ、兄弟。そういったことを話すつもりはあるか?」
夏美は首を振った。一歩も引かないという気迫が顔の皮膚の表面から滲《にじ》み出ているようだった。
「家族のことは思いだしたくないの。みんな、ろくでなしよ」
夏美は昏《くら》い目でおれを見据えた。またあの目だった。抑えきれない憎悪と怯え、そしてどこかに浮かびあがってしまう微かな媚び。その目はおれの目だった。夏美はおれの分身だった。身体が火照《ほて》り、喉が干上がった。夏美を押し倒したいという獣じみた欲望がおれの内部でマグマのように噴きあがった。
新しい煙草をくわえた。ライターを擦る手が震えていた。火をつけ終えると、ジージャンのポケットに手を突っ込み、煙を大きく吐きだした。
「じゃ、そういうことにしておこう。それに、佐藤夏美の身分を棄てることはない。これからも、夏美と呼ばせてもらう」
おれは夏美の目と視線を合わせないようにしてそういった。夏美の顔がぱっと輝いた。
「ありがとう」
微笑みが広がった顔からは、ついさっき夏美が見せた目の色は奇麗に消えていた。おれはなんだか落ち着かない気分になり、立てつづけに煙草をふかした。