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携帯電話が鳴った。夏美がびくっと身体を震わせて、うかがうような視線をおれに向けてきた。なんでもないというように首を振り、電話を耳にあてがった。
「はい?」
「おれだ」
北京語が答えた。崔虎だった。おれは吐息を洩らした。
「なんの用だ?」
崔虎の声は苛立っていた。元成貴の手下どもが歌舞伎町に溢れている。崔虎も仕事がやりづらいのだろう。
「福建《フージェン》の流氓に顔見知りはいないか?」
「今度は福建のやつらに泣きつこうってのか?」
「呉富春が池袋《チーダイ》のやつらとつるんでるかもしれないんだ」
「福建のやつらは間抜けだ。そいつらと手を組もうなんざ、もっと間抜けのすることだ」
「あんたにいわれなくても、そんなことはわかってる」
「おっとぉ、おれにそんな口をきくとは強気だな、健一。やけくそにでもなったか」
「すまん。神経がピリピリしてるんだ」
「おまえだけじゃねぇ。おれのこめかみの血管も、熱いスープに放りこまれたミミズみたいにのたくってるよ」
「悪かった。謝るよ。とにかく、池袋に詳しい人間と話をしたい。だれか、いないかな?」
「いくら出す?」
「三十」
「馬鹿いえ」
「五十だ。これ以上は出せない」
「これ以上出せないだと!? だれと話してるんだ、健一よ?」
「頼む。いじめるのはそれぐらいで勘弁してくれ」
「けっ、半々野郎が。調子にのったのはてめぇだぞ」
「悪かった」
「よし、今夜中に手はずをつけておく。こっちから連絡するから、金を用意しておけ」
「助かるよ……」
おれの言葉が終わる前に電話は切れていた。
「くそっ」
携帯電話を切って、フローリングの床にへたりこんだ。
「おれの運もドツボだな」
「だれだったの?」
夏美がおれと同じように床に腰をおろした。パジャマの胸元に引き寄せられてしまう視線を、おれは無理矢理自分の指先に向けた。
「北京の狂犬さ」
その先を促す夏美の視線を無視して、遠沢の電話番号を押した。留守電のメッセージが流れてきただけだった。おれは舌打ちして、今度はポケットベルの番号を押した。煙草に火をつけ、待った。夏美は黙っておれの横顔を見つめていた。煙草の半分が灰になったところで、携帯電話が鳴った。
「はい」
「遠沢だよ」
「今、どこだ?」
「池袋。ちょっとツテがあってね。こっちの福建マフィアの幹部とあってた。話を聞くのに十万もふっかけられたぜ。なんとかしてくれんかね。おケラだよ」
おれは煙草を消した。遠沢が池袋にいるのなら、崔虎に電話する必要などはなかったのだ。五十万、丸損だった。このゴタゴタのせいで、おれはカモる側からカモられる側におちぶれてしまったのかもしれない。
「わかった。そっちは必要経費ってことでおれが持つ。で?」
「呉富春は昨日までは池袋にいた。今はいない。追いだしたそうだ。元成貴の店を襲ったって聞いてびびったんだろう」
「どこへ行ったんだ?」
「知るか。あいつらのやり方、わかってんだろ? 上海とかのやつらに比べりゃスマートじゃないけど、チャイナ・マフィアはみんな同じ穴の狢《むじな》だ。福建の線は、もう忘れた方がいい」
「わかった」
「それと、あいつの親だけど、名前と住所がわかった。父親は呉富有《ウーフーヨウ》で、五年前に肺癌でくたばってる。母親は中国名が陳秀香《チェンシウシャン》、日本名が坂本香子。千葉の柏《かしわ》の公団に住んでる。国の助成金だけで暮らしてるみたいだ。息子が二人に娘が二人。富春は次男だな。長男は殺人で服役中、長女は中国でくたばってる。末娘は中国名が富蓮《フーリェン》で、日本名が真智子。明日、柏に行ってみようと思ってる」
遠沢は中国名を北京語で発音した。なかなか堂に入っていた。どこかで——たぶん、賭場だろうが——勉強しているのかもしれない。
「頼む。明日の夜、どこかで会おう。そのとき金を渡す」
おれは電話を切った。福建からアプローチする方法は閉ざされた。富春のおふくろの線も期待はできないだろう。手詰まりだ。おれにできるのは、待つことだけだった。
「なにかわかったの?」
夏美は膝を両手で抱えていた。おれが寝ている間に窓でも開けたのだろう、生ぬるい風が吹きこんできて、夏美の短い髪の毛がさらりと揺れた。
「どうやらドツボにはまったらしいってことがわかっただけだ」
がらんとした部屋に視線をさまよわせた。家具のない部屋には、目を止めるべきものが何一つなかった。おれは夏美に視線を戻した。
「着替えろよ。飯を食いに行こう」