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不夜城(33)
日期:2018-05-31 22:24  点击:337
 33
 
 
「食べないの? さっきからずっと恐い顔をしてるわよ」
 煙草を吸いながらときおりワインを舐《な》め、飢えた豚のように料理をぱくついている夏美を眺めていた。スパイスの効いたシシカバブをひと口食っただけで食欲がなくなった。西参道と代々木へ向かう通りの交差点にあるエスニック・レストランは、まだ時間が早いせいもあっておれたちの貸しきりみたいになっていた。
「尻に火がついてるんだ。へらへら笑ってなんかいられないさ」
「富春が見つからなかったらどうするの?」
「そんなことは考えたくもないけどな……二通りの考え方がある」
「どんな?」
 夏美はクスクスをフォークで口へ運び、ワインで流しこんだ。
「逃げる、か、元成貴を殺すかだ」
「そんなこと、できるの?」
 夏美がどっちのことをいってるのかはわからなかった。おれは言葉を続けた。
「逃げるのは簡単だ。だけど、面白くない。ぜんぜん面白くない。おれは二十年近く歌舞伎町で暮らしてるんだ。その間に作ったものを捨てて、他の土地でまた一からやり直すには、おれは年を取り過ぎてる」
「まだ三十そこそこじゃない」
「もう三十半ばだ。おれには度胸がない。流血沙汰にはいつまでたっても慣れることができない。それでも、二十代のころはなんとかなった。空元気でも、体力があったからヤバい場面を切り抜けることもできた。もう、無理だ」
「あっちの方も?」
 夏美は食べる手を止め、舐めるようにおれを見た。からかいと誘いが半々の目つきだった。
「そうさ。さすがに一晩に五回も六回もってわけにはいかない」
「へえ、そうなの。でも、逃げるのがやだとしても、健一に元成貴が殺せるの?」
「おれがやるわけじゃない。人を雇うんだ。北京のやつでも香港のやつでも、元成貴を殺そうなんて度胸があって腕もある流氓なんか歌舞伎町にはいないが、台湾になら知り合いがいる」
 故郷へ帰った台湾流氓の顔を、おれはいくらでも思い浮かべることができた。女たちが引きあげてしまったために日本にいられなくなったやつらだ。台湾へ戻っても、昔のように肩で風を切るというわけにもいかないだろう。そもそも、あいつらは故郷を追われて日本へ逃げてきたのだ。金と航空券を用意してやれば、やつらはすぐにやって来て元成貴を殺し、また帰っていく。血で血を洗う抗争を何十年も繰り広げてきたやつらだ、流血沙汰じゃ上海も北京もかなわない。元成貴を殺したのが台湾の流氓だとばれたとしても、楊偉民にすべてを背負わせてしらを切ることだってできるかもしれない。
 夏美が手を上げた。その表情からはおれの言葉に対する反応はこれっぽっちもうかがえなかった。褐色の肌のウェイター——パキスタン人だろう。あるいはイラン人かもしれない——がやって来て、コーヒーとデザートの注文を受けていった。
「ねえ、台湾へは行ったことがあるの?」
 夏美は両手で頬杖を突き、興味|津々《しんしん》といった顔つきになった。
「いや。チャンスがなかった」
「行こうと思ったことはあるのね」
「第二の故郷だからな」
「わたしはね、一度帰ってみたことがある」
「どこに……ああ、中国か。黒竜江省っていったっけかな」
「日本へ行けるんだってわかった時は、二度と帰ってくるもんかと思ったわ。肥え溜めみたいな村だったのよ、わたしの故郷は。こんな話、つまらない?」
「いや」
 デザートとコーヒーが運ばれてきた。夏美はコーヒーにたっぷりのミルクを入れ、ケーキをつついた。おれはブラックのままのコーヒーをひと口、すすった。
「父親は小麦を作る農民だったわ。でも、人民公社のせいで、作ったものを全部持っていかれるの。農民なのに、家には食べるものがぜんぜんなかった。知ってる? わたしたち、おかずとご飯をいっしょに食べることができなかったんだよ。おかずを食べるんだったらご飯はなし、ご飯を食べたかったらおかずはなし。ご飯とおかずをいっしょに食べていいのは父さんだけ。兄弟は四人いたけど、みんな慢性の栄養失調。母さんもわたしたちも、父さんを憎んでたわ」
「いつ、日本に来たんだ?」
「八三年。八〇年に母さんが日本人だってことがわかって……政府から役人がきたのよ。日本に行って親戚を探すことができるって。父さんも母さんが日本人だとは知らなかったみたい。ずっと黙ってたのよ、母さん。日本人だってことがばれるといじめられるからって。それで、八一年かな、母さんが日本に行って、両親は亡くなってたんだけど、叔母《おば》さんが見つかったのよ。で、日本側の準備が整ったらわたしたち、日本へ行けるんだって、家族中で舞いあがっちゃったわ。父さんは別だったけど。わたしたち、日本人だったんだ。こんな生活、やっぱり間違ってたんだ。黄金の国、日本にいってわたしたち一家、みんな幸せに暮らせるんだって」
 夏美は言葉を切り、皮肉な笑みを浮かべた。
「笑っちゃうでしょ? 日本がこんな国だって知らなかったのよ」
「百パーセントの日本人か金持ちでなきゃ、幸せにはなれない国だからな、ここは」
 おれは答えた。血だけじゃない、言葉、受けてきた教育、見ていたテレビ番組——そういうものが一パーセント欠けただけで、異邦人として扱われるのがこの国なのだ。
「まあそれでも、いくらなんでも中国よりはましなはずだと思ってたわ。飢えることはなかったし、学校にも行かせてもらった。いじめられたけど。なにより農作業をしなくていいのが嬉しかった。水道なんかないから、毎日井戸から桶《おけ》に水をくんで畑まで運ぶのがわたしの仕事だったの。このまま毎日こうやって水を運んで、村の男と結婚して子供を作って……それがわたしの人生なんだって。わたし、五歳ぐらいの時に自分の人生を悟って絶望してたんだよ、わかる?」
 おれは答えなかった。ただ黙って、少しずつ暗くなっていく夏美の瞳を見つめていた。
「日本に来て最初の数ヶ月は幸せだったなあ。でも、すぐに壊れちゃった。まず、父さんが荒れはじめた。それまではさ、一家の大黒柱だったのに、日本語が話せないからただの厄介者に落ちちゃったでしょ、それに父さんだけが日本人じゃなかったのよ。毎日昼からお酒を飲んで、母さんを殴るようになった。それで、次に母さんが壊れたんだよね。母さんも日本語だめだった。ぜんぜんうまくならないの。日本人なのに、家族の中で唯一百パーセントの日本人なのに……。その次が一番上の兄貴、その下の兄貴、わたし……」
 夏美はデザートのティラミスに何度もフォークを突きたてた。形の崩れたティラミスは、道端に落ちている干からびた犬の糞みたいだった。おれは欠伸《あくび》を噛み殺した。
「やっぱりつまらなそうだね」
 ティラミスにフォークを深く突き刺して、夏美は自分を嗤《わら》うように顔を歪《ゆが》めた。
「帰国してきた残留孤児二世を何人か知ってるが、まあ、だれの話も似たり寄ったりだ。おまえは……そうだな、日本国籍がすんなり取れただけでもマシな方なんじゃないか」
「わたしもそう思う」
 おれはカップの底に残ったコーヒーを飲み干した。ぬるくて苦いだけのコーヒー。
「十九の時にね、一度生れ故郷に帰ってみたの」
「へえ」
「あの悲惨な場所をもう一度見れば、幸せな気持ちになれるんじゃないかと思って……十八の時からわたし、風俗で働いてたんだけど、それまでに貯めたお金みんな持って、そのお金で向こうで幼馴染《おさななじ》みに美味《おい》しいものをたくさん奢《おご》ってあげて優越感でも感じようかなって、すっごい馬鹿げたこと考えて。でもね、改革開放路線のせいで、すべてが変わってたわ。人民公社はなくなってた。土で作った粗末な家がみんな消えて、そりゃ日本に比べればぜんぜん田舎くさいけど、煉瓦《れんが》のきれいな家が並んでた。最初はそこが故郷の村だって信じられなかったよ。土にまみれて真っ黒でがりがりに痩せてた友達みんな、ふっくらとした身体つきになってて、学校にも通ってた。まだ貧しい生活だったけど、昔みたいな地獄じゃなかった。みんな、わたしより幸せそうだった。わたし訊いたわ、ごはんとおかずをいっしょに食べてるのかって。当然じゃない、って笑われた……日本みたいな夢の国にいるから、わたしたちのことよっぽど可哀相だと思ってたのねって」
 夏美の目が突然輝きを増した。ありあまる憎悪と絶望、すべてをのみこもうとする虚無とがいっしょになって、おぞましく、しかしいいがたい魅惑に満ちた光が、つぶらな目の奥からおれの皮膚を射抜いていた。
「夢の国だって!! みんな、わたしの持ってる服をうらやましがった。わたしが日本人だってことをうらやましがった。でも、わたしは惨めだった。あんなに惨めな気分になったことなかった。憎んだわ。わたし、すべてのものを憎んだ。父さんも、母さんも、兄弟も、日本も、幼馴染みも、中国も、神様も……わたし自身も」
 おれは馬鹿みたいに口を開けて夏美の目を見つめていた。慌てて煙草を取りだし、口にくわえた。
「故郷へ戻ったのはとんだ失敗だったわけだ」
「そう。だから、健一も台湾に行かなくて正解だったのよ、きっと」
「なあ」
「なに?」
「おれも昔はおまえみたいに物事をいろいろ複雑にとらえてたんだ」
 夏美は首を傾《かし》げた。
「おれがあいのこであることだとか、歌舞伎町で台湾人や大陸のやつらと暮らしていくってことについてだ。毎日のようにうじうじ悩んでだれかを憎んで惨めな気分に打ちのめされてた。で、あるとき気づいたんだ。この世はおれが思ってるよりはずっと簡単な法則で動いてるってことに」
「どんな法則?」
「この世の中にはカモるやつとカモられるやつの二とおりしかいないんだってことさ。自分のアイデンティティがどうだのといったことに頭を悩ますやつは一生だれかにカモられるだけだ。だからおれは悩むのをやめた。カモることに専念したんだ。上には上がいるっていい方、あるだろう? それでいけば下には下がいるんだ。おれはずっと惨めな気分で十代を生きてきた。それだって、おまえの気分にくらべりゃずいぶんマシだったかもしれない。だがな、おまえはおれより惨めだったかもしれないが、アフリカあたりで飢えて死んでいくガキどもより惨めか? アウシュビッツで殺されたユダヤ人より? 他のガキに心臓や腎臓を提供するために生まれ落ちた次の瞬間に腹を裂かれて殺される赤ん坊は? こういうことには果てしがないし、考えたって無意味だ。おれたちには笑うこと以外できないんだからな。だったら、カモることだけに専念してた方がいい。間抜けなカモは腐るほどいるんだ」
「でも……それじゃ、寂しくならない?」
「寂しいだって?」
 おれはテーブルの上に身を乗りだし、夏美に顔を近づけた。
「どういうことだ? 毎日繰りごとを聞いてくれるママのおっぱいが欲しいってことか? 新聞じゃおれたちは文明世界に住んでることになってる。でたらめだ。おれたちはジャングルに住んでるんだ。少なくとも歌舞伎町はそうだ。ハイエナが餌を漁るのをやめて寂しいって泣いたりするか? あいつらは生きてくために他人の餌を横取りするのに忙しすぎる。おれも同じだ。そんなこと、考えてる暇もない」
「年を取ったらどうするの? 身体が動かなくなっても、他人をカモることだけ考えてるつもり?」
「だれからも手を出されないだけの金と力を掴んじまえばいいのさ。それができないんなら……くたばるだけだ」
 夏美は仮面のように表情のない顔をおれに向けた。おれはにやりと笑ってみせ、伝票を掴んで立ちあがった。偉そうなことをいったが、おれの尻には火がついているのだ。夏美が手を伸ばし、おれの手首を掴んだ。
「ねえ、わたしはどうなるの? わたしもカモなの?」
 夏美の顔は真っ青だった。目だけが異様な熱を孕《はら》んで潤んでいた。おれはその目を見下ろして、いった。
「おまえ次第さ。おれがおまえにカモられることもある。そうだろう?」
 夏美はしばし考えこんでいた。だが、そんなに時間はかからなかった。夏美はにこっと笑って小さくうなずき、おれの肘《ひじ》に腕を絡ませて立ちあがった。

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