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夏美はジーンズに青いタイ・シルクのブラウスにパンプス姿だった。左の肩からルイ・ヴィトンを下げ、ブラジャーをつけてなかった。おれの肘に押しつけられた乳房の頂点が固くしこっているのがわかった。故郷に戻った話をした時の興奮がそこに留まっているのだ。
「車を取ってきてくれ」
さりげなく夏美の腕を外し、キィを渡した。
「運転はできるんだろう?」
「ワイン、飲んじゃったけど」
「自信がないのか?」
夏美は大きくかぶりを振った。
「健一は用心深いから、飲酒運転なんか絶対しないと思って」
「ここに持ってくるだけだ。あとはおれが運転する」
おれはにやりと笑って答えた。夏美はしこめば使いものになるかもしれない。
車を駐めてある場所を教えると、夏美は小走りで駆け去った。夏の夕暮れの日の光にシルクが透け身体の線が浮かびあがっていた。そのラインの美しさを充分堪能してから、傍らにある電話ボックスへ入った。
「はい、『カリビアン』っす」
呼びだし音が二度鳴らないうちに志郎が出た。
「おれだ」
「あ、健一さん。なんかあったんすか?」
おれの置き手紙を読んだはずだが、志郎の声は間抜けみたいに落ち着き払っていた。
「ちょっとヤバいことになってる。店を開けるのはおまえの勝手だけど、気をつけろよ」
「えー、マジっすか? やっべぇなぁ」
「そんなことはないと思うが、もしおっかない中国人におれのことを聞かれたら、知ってることを正直に話すんだぞ」
「どこにいるんすか?」
「池袋だ。ホテルを取ってる。しばらくはそこにいるけど、用がある時は携帯を鳴らせ」
「わっかりました。あの……健一さんがいない間の売り上げなんすけど……」
おれは舌打ちしたいのをこらえた。これが中国人なら、店の備品を全部売り払って、いまごろはどこかに消えているはずだ。
「手紙に書いたとおりだ。経費以外は全部おまえが取っていい」
「ありがとうっす。あの……」
「おれに連絡はないか?」
「メッセージなしの留守電が四時ごろ入ってたのと、ついさっき、組合の周さんから電話がありました」
「なんだって?」
「会いたいって。なんか、怒ってるみたいでしたけど」
「わかった。じゃあ、頑張ってな」
志郎がなにかいいかける気配がしたが、かまわず受話器をおろした。周天文《チョウティエンウェン》からの電話というのが気になった。組合というのは、歌舞伎町でまっとうな商売をしている連中の集まりだ。正式には歌舞伎町華人商店組合という。マスコミで歌舞伎町の流氓が取りあげられるようになり、堅気の中国人までもがマフィア同様に見なされる風潮に歯止めをかけるというのが設立目的の組合で、楊偉民の息がほんのわずかだがかかっている。
おれはうろ覚えの組合本部の番号をプッシュした。若い女の声が下手な日本語で組合の名を告げ、おれが北京語で周を出してくれというと、一瞬間があったあとで、これまた流暢《りゅうちょう》な北京語で少々お待ちくださいといった。
「周天文」
少々どころか五秒もたたないうちに天文が出た。四六時中なにかに尻を追われているような早口は相変わらずだ。
「おれだよ、小文《シャオウェン》。電話をくれたそうだが」
「もう子供じゃないんだから小文はよしてくれよ。それよりどうだ。これから飯でも食わないか?」
「生憎だな。たったいま晩飯を食いおわったところだ」
「お茶でもいいよ。とにかく、どうなってるのかを聞かせてもらいたいんだ」
「どうなってるって、なにが?」
「とぼけるなよ、兄さん。呉富春と元成貴のことに決まってるじゃないか」
「富春? あいつは新宿を出たっきりだろう」
「ふざけるなよ! 兄さんが元成貴に脅されて呉富春を探してることは知ってるんだ」
クラクションが聞こえた。ボックス越しに道路に視線をやると、BMWの窓を開けてこっちに手を振っている夏美と目が合った。
「小文、おまえ、何か握ってるのか?」
「小文はやめろって。おれはなんにも知らないよ。ただ、組合の連中から商売にならないからなんとかしてくれって泣きつかれてるだけさ。で、兄さんから話を聞けば、対応策が見つかるかなって……」
「楊偉民に聞けばいい。おれよりはずっと知ってるぜ、きっと」
「爺さんに借りをつくりたくはないんだよ。わかってるだろう!?」
おれはわざとらしいため息を受話器にふきかけてやった。気安めにもならなかった。天文がそれぐらいのことで怯むはずはない。
「わかった。歌舞伎町はマズい。中野まで出てこれるか?」
「いいよ。中野だろうが大阪だろうがどこへでも行くよ」
天文の声が二オクターブほど跳ねあがった。おれは顔をしかめながら、中野ブロードウェイの二階にある喫茶店の名を告げ、一時間後にそこでといって電話を切った。
BMWは道路の反対側に停まっていた。夏美は助手席に座っていた。
「だれと電話してたの?」
おれが運転席に乗り込むと、夏美は飼い主の帰りを待っていた犬のように目を輝かせて聞いてきた。
「古い知り合いだ。気になるのか? 女じゃないぞ、残念ながら」
「別に。ただ、怖い顔で電話してたから気になっただけ」
「だれにだって弱点はあるんだ」
BMWのアクセルを踏みながらおれはいった。周天文は確かにおれの弱点だった。