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不夜城(35)
日期:2018-05-31 22:25  点击:312
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 天文。おれの後釜《あとがま》。おれに見切りをつけた楊偉民が横浜から連れてきた。
 おれと違って天文はエリートだった。北京語はもちろん、台湾語も日本語も流暢に話せた。中国や台湾の文化や習慣をその身体にしっかり刻みこんでいた。
 父親は台北出身の料理人で、母親はお嬢さんが集まる短大で中国文学の講師をしている日本人。おれと同じ半々だが、天文はサラブレッドだったのだ。
 天文がおれの後釜に座ったのは、たしか十五のときだ。おれより三つ年下だった。楊偉民はおれ以上に天文を可愛がり、天文も楊偉民の期待に充分に応えていた。唯一、天文が楊偉民の意向に逆らったのは、おれになついたということだけだろう。
 どういうわけかは知らないが、天文はおれを実の兄貴のように慕ってつきまとった。楊偉民だけじゃなく、歌舞伎町のほとんどの台湾人、そしておれ自身が、おれなんかとつるんでいるとろくなことにはならないと忠告したのだが、天文は頑として聞きいれなかった。おれと天文の関係は、おれが台湾流氓とつるむようになるまでは密接に続き、天文が楊偉民の元を飛び出した後でも——おれとは違って、天文は自分から楊偉民に見切りをつけたのだ——ときおり飯を食うといった感じで続いている。天文と楊偉民のあいだにどんな経緯があったのか、二人ともぴったりと口を閉ざしているのでおれは知らない。もっとも、想像はつくが。
 おれは天文が苦手だった。いってみればおれは蝙蝠《こうもり》だ。超音波で周囲を探りながら夜の闇に紛れて飛び回ることしかできない。天文は鷲《わし》だ。青い空を従えて飛び、その鋭い視線はなにごとをも見逃さない。天文の茶色みがかった目で見つめられると、おれは背中のあたりにどうにも落ち着かない感じを味わった。
 いちど天文に、なぜ呂方を殺さねばならなかったのかと問い質《ただ》されたことがある。ほかのやり方を選んでいれば、楊偉民もおれを見放しはしなかったはずだ、と。おれは懇切丁寧に教えてやった。呂方が人間の皮をかぶったけだものであったことを。いや、けだもの以下の存在であったことを。先に殺さなきゃ、おれが殺されていたことを。あるいは殺されるより始末におえない状況になっていたに違いないことを。だが、天文には理解できなかった。
 おれと天文は背中合わせに立っていながら、目にしている情景がまったく違っていたのだ。
 口に出したりはしないが、おれの暮らしぶりを天文が悲しんでいるのは目を見ればわかった。昔慕っていたおれが、悪の道に染まり堕落していくのが天文には耐えられないのだ。それでも、おれを見捨てられないのが天文の弱さだ。そしてそれは強さでもある。二、三ヶ月にいちど天文は律義にも電話をかけてきておれを飯に誘う。おれが生きていることを確認するためと、おれから情報を引き出すためだ。流氓の毒牙から堅気を守るためにはおれが握っている情報が不可欠なのだから。組合の理事におさまってからは、なおさらその重要性は増していた。
 
 代々木駅前の交差点を左折し、サンルート・ホテルの前を通って甲州街道に出た。夏美が都庁ビルを見て嬌声《きょうせい》を上げた。まるでお上りさんだ。緊張感のかけらもない。
「どこへ行くの?」
「中野だ」
「電話の人——健一の弱点と会いに?」
 おれは眉をしかめた。余計なことを口走ったことを後悔したって後の祭りだ。
「そうだ」
「わたしも一緒にいていいの?」
 しばらく考えてから答えた。
「ああ、おれの弱点をよく観察しておくんだな」
 天文に夏美を引き合わせておけば、いざというときの保険になる。天文もいい顔はしないだろうが、おれに何かあったときに夏美を匿《かくま》うぐらいのことはしてくれるはずだ。
「だめだっていわれると思ってたのに」
 夏美は目を丸くしておれを見た。
「せいぜい行儀よく振る舞ってくれよ」
 おれはそれで口を閉じた。夏美もシートに背をあずけ満足そうに微笑んでいるだけで口を開かなかった。

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