38
BMWは青梅街道を走っていた。窓を開け、肘《ひじ》を突きだして煙草を吸いながらおれはハンドルを握っていた。夏美は助手席でぼんやりと窓を流れる夜の景色を見つめていた。
なにか目的があるってわけじゃない。ただ、夏美のマンションやおれの飯田橋のマンションへ戻ってもなにもすることがない。いや、夏美と二人きりになるのが恐かったのだ。おれは夏美のことを知りすぎた。夏美が語ったのはたわいのないことだ。それでもおれには充分すぎた。そして、おれは夏美に多くを語りすぎ、見せすぎていた。
夏美とやりたかった。だが、やりたくもなかった。おれは混乱していた。こうやって車を流していれば、少しは冷静でいられるような気がした。それに、中野界隈は福建野郎どもの縄張りだ。富春が池袋の福建野郎たちに追いだされたとしたら、中野へ出張《でば》ってくる可能性もないわけじゃない。
環七を右折し、そのまま流して早稲田通りへ入り、さらに中野通りを右折して中野の駅前を通り抜ける。そのコースをのんべんだらりと巡回することが、いまのおれにできる精一杯のことだった。とんだお笑い草だ。
おれはダッシュボードに手を伸ばし、ラジオのスウィッチをいれた。適当にダイアルを調節すると、何度か聞いたことのあるメロディが流れてきた。中島みゆきの曲だ。原曲とはアレンジが違い、歌われているのは広東語の歌詞だった。
「王菲《ワンフェイ》ね」
夏美が息を吹き返したように身を乗りだし、メロディに耳を傾けた。
「大陸の歌手だよな?」
「北京生まれだと思うけど、たしか、香港でデビューしたの。凄い人気よ。香港の音楽って演歌っぽくて好きじゃないけど、王菲はポップで、わたしも大好き」
夏美はそういってメロディを口ずさみはじめた。どこか子供じみた仕種だった。おれの耳には王菲が歌う中島みゆきもどこか演歌くさく感じられたが黙っていた。
王菲の中島みゆきが終わり、新しい曲がかかった。今度は北京語だ。ただ、ヴォーカルに透明感があり、曲調もずっとポップだった。
「艾敬《アイジン》よ。知ってる?」
「いや」
「この子は中国の歌手。健一は歌は好きじゃない?」
「大陸や香港、台湾の曲はよく知らない。耳だけは完全な日本人なんだ。あっちの曲はあまり馴染まない。崔健《ツイジェン》ならよく聞くけどな」
「わたしは日本の歌謡曲やロックよりあっちの曲の方が好き。やっぱり、子供のころに聞いてた音楽って耳に残るのかな?」
「おまえが子供のころに、大陸でこんな曲が聞けたのか?」
「テレサ・テンなら内緒でよく聞いたけど……でも、同じよ。革命歌も艾敬や崔健のロックも、みんな大陸の歌」
「そうかもな」
うなずきながらウィンカーを点滅させた。早稲田通りと中野通りの交差点が迫っていた。
「健一はどんな歌を聞いて育ったの?」
「アイドルの歌謡曲だ。天地真理とか小柳ルミ子、キャンディーズ……」
「天地真理って、あのオバサン?」
夏美は信じられないというように目を丸くした。
「昔は若かったんだよ、あのオバサンも」
駅前の信号が赤に変わった。ブレーキを踏むと同時に携帯電話が鳴った。
「おれだ」
聞きなれた北京語。つくりものめいたどこか金属的な響きのする声。
「どこにいる?」
助手席で夏美が息をのんでいた。おれは人差し指を唇にあてそのままでいるように指示した。
「あの暗号を思い出すのに手間取ったぜ、ちくしょう。頼みがあるんだ、健一」
富春はおれの質問には答えなかった。
「なんだ?」
「元成貴をぶっ殺すのに手を貸してくれ」
「しばらくあわないうちに頭がおかしくなったのか?」
「あの野郎、おれの女をさらいやがった!」
「そんな話、聞いてないぞ」
「女から電話があったんだ、助けてくれってな」
けたたましいクラクションの音で信号が青になっているのに気づいた。おれはアクセルを踏み込んだ。
「女ってのは何者だ?」
「小蓮《シャオリェン》だ。おれの女だ」
おれは息をのんだ。小蓮。富春は、確かにそういったのだ。夏美の嘘が、またひとつばれた。富春には本名は教えていないはずだったのだ。
「おまえに女ができるとはな。世の中、狂ってる」
「ふざけてる場合じゃねぇ! おまえでもぶち殺すぞ」
「殺してみろ。おまえを助けられる人間がいなくなるだけだ」
沈黙。荒い息遣いだけが聞こえてきた。
「すまねぇ。焦ってるんだ。助けてくれよ、健一」
「どこにいるんだ?」
「サンルート・ホテルだ」
おれは舌打ちした。歌舞伎町とは目と鼻の先のホテルに泊まるとは、救いがたいにもほどがある。
「なんだってそんなとこに? おまえ、死ぬつもりか」
「他に思いつかなかったんだ。しょうがねえだろう」
「馬鹿が。大至急チェックアウトしろ。代々木公園のいつもの場所、覚えてるか?」
「ああ」
「一時間後にそこで。必ずタクシーを使え。いいな」
「わかった」
電話がきれた。
「富春?」
それまで凍りついたように動かなかった夏美が口を開いた。目に、例の怯えと憎悪の色が宿っていた。
「そうだ。あの馬鹿が、やっとつかまった」
新しい煙草に火をつけた。それから、掌をズボンでぬぐった。掌は汗まみれだった。