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不夜城(40)
日期:2018-05-31 22:28  点击:296
 40
 
 
 駐車場から代々木公園までは十分ほどかかった。約束の時間までまだ二十分ほどある。腰にさした黒星《ヘイシン》の感触を確かめて、参宮橋門を通りぬけた。坂道を登りつめた左側にある休憩所が待ち合わせの場所だ。仕事でだれかにあわなきゃならないとき、よくこの場所を利用した。夏場こそ、夜が更けても草っぱらやベンチでペッティングにふける若いカップルや、スケボーの練習をするガキども、健康バカのジョガーたちがうようよしているが、寒くなれば人っ子ひとり見えなくなるし、おまわりの巡回に出くわすおそれもなかった。富春をボディガードに仕立てて連れてきたことも何度かあった。
 まっすぐ休憩所には向かわず、舗装されたサイクリング・ロードをぐるりとまわってみた。クソ暑いせいかジョガーの姿は少なかったが、公園の中は若い連中でいっぱいだった。例によってペッティングに励んでるやつら、バンドの練習をしてるやつら、ビールとつまみを持ちよって花火大会をしているやつら……中国人、それも胡散臭《うさんくさ》い中国人の姿は目につかなかった。
 照明に照らされて木々の合間にぼんやりと浮かび上がった休憩所に、おれは足を向けた。スケボーを抱えたガキどもがたむろしていた。腕時計を覗きこむと、そろそろ富春が現れる時間だった。ガキどもを追い払おうと思ったが、何かあったときに盾になると考えてやめた。代わりに、隅にあるベンチに腰を下ろして煙草に火をつけた。邪魔者が侵入したとでもいうように、ガキどもが駄弁《だべ》るのをやめた。心地好い静けさと、うざったい緊張感が休憩所を急速に覆った。
「おじさん、ここ、おれたちの場所なんだけどな」
 最初の煙を吐きだす前に、ガキどもの一人が近寄ってきた。長髪にベイスポール・キャップを逆にかぶったガキだ。だぶだぶのTシャツに短パン、ナイキのバスケットシューズ。背はそれ程高くないし、体つきも華奢《きゃしゃ》だったが、目つきには危ない光があった。
 おれは黙ってそのガキの顔を見つめた。ふいに、呂方《リューファン》の顔が脳裏に浮かんだ。目の前のガキは呂方にそっくりだった。
「ここはおれの場所でもあるんだ。悪いな、邪魔はしないよ」
 煙を吐きだしながらいった。ガキの眉間にかすかに皺《しわ》が寄った。
「覗きなら、他でやれよ。ここはおれたちの場所だっていってんだろ」
 声にも刺《とげ》が含まれていた。ガキの言葉を無視して煙草を吸いつづけた。
「聞こえねえのかよ!?」
「聞こえてるよ」
 ガキの足元に煙草を投げ棄てた。ガキは一瞬鼻白んだが、怒気をあらわにしてがなりたてた。
「ざけんじゃねえよ、ムカつくじじいだな。やっちまうぞ!」
「やってみろよ」
 おれは立ち上がった。馬鹿なことをしているとは思ったが、もう身体はとまらなかった。おれの右手には黒星が握られていた。
 ガキどもが一斉に息をのんだ。芝居気たっぷりに時間をかけて新しい煙草に火をつけ、ベイスボール・キャップのガキに近づいた。
「ムカつくガキだな。やっちまおうか?」
 ガキはおれの顔なんか見ちゃいなかった。ガールフレンドとセックスしている最中に親に踏み込まれたとでもいうような目つきでじっと銃口を見つめていた。
「で、ここはだれの場所なんだって?」
 おれはガキの顔に煙を吹きかけて注意を促した。
「あ、あんたの場所……」
 それだけいうのに、ガキは何度も唾を飲み込まなきゃならなかった。自己嫌悪が募った。目の前のガキが呂方に似てるからといって、夏美に痛いところを突かれたからといって、こんな馬鹿なことをしてもいいという法はない。少なくともおれが作りあげたルールにはない。だが、一度やりはじめたことは最後までやり通さなきゃならない。銃口をガキの腹に押しつけて、いった。
「違うな。ここはおまえたちの場所でもあるし、おれの場所でもある。そうだろう?」
「そ、そうです」
「よし」
 おれは黒星をベルトの間に差し込んだ。
「おれはここにいるが、おまえたちもいなくなる必要はない。友達にもそう伝えろよ」
 ガキがうなずいて背後の仲間になにか声をかけようとした瞬間、休憩所の裏手の方から葉ずれの音がし、暗い影が北京語で叫びながら突然姿を現した。
「健一《ジェンイー》、だいじょうぶか!?」
 富春。ごたいそうにも両手に黒星を握っていた。
 ガキどもは一斉に逃げはじめた。止める暇はなかった。それよりも、ガキどもに銃口を向けようとしている富春を制止するのが先だった。
「やめろ。ただのガキだ」
 富春は不思議そうな表情をこっちに向けた。少ししてから両手の銃をおろし、なにごともなかったという面で近づいてきた。
「そこんところでおまえを見つけた。囲まれてた。だから、裏から回って助けようと思ったんだ」
 銃を振り回しながら富春は説明した。
「銃をしまえ、この馬鹿野郎」
 富春はぽかんとした顔で両手の銃を眺め、一丁を腰に、もう一丁を肩に引っ掛けていたスポーツバッグの中にしまいこんだ。
 富春はちっとも変わっちゃいなかった。ウェイヴのかかった豊かな髪の毛は多少長くはなっていたが、適度なオールバック・スタイルで頭のてっぺんを覆っていた。今にも飛び出さんばかりのぎょろ目と、分厚い唇、それに反してすんなりと通った鼻梁《びりょう》。なにも変わっていない。頭の中身だってこれっぽっちも変わっちゃいないだろう。
「歩こう。大丈夫だとは思うが、さっきのガキどもがママに気の狂った中国人が銃を持って暴れてるって泣きついてるかもしれない」
 おれは富春を促して歩きだした。久しぶりに富春にあったというのに、感慨はわかなかった。おれの目の前にいるのは、面倒を引き連れてやってきたただの馬鹿野郎でしかなかった。
「だいじょうぶか?」
「ぐるっと回ってみた。おまえを探してるやつは見当たらなかった」
「おまえがいてくれて助かったぜ。おれひとりじゃどうにもならねえ」
「帰ってきたなら、真っ先におれに連絡するべきだったんだ」
「なにいってやがる。おまえの店に電話したんだぜ。電話に出たやつに、あいたいって伝えて時間と場所まで指定したってのに、おまえは米なかったじゃねえか」
 舌打ちした。志郎に電話番がつとまると信じるなんて、どうかしていた。
「その連絡は聞いてない。携帯の方にかけてくりゃよかったんだ」
「重要な話に携帯電話を使うなって、おまえ、口をすっぱくしていってたじゃねえか」
 富春は得意げに胸を張った。
「で、今日までは池袋に潜んでたってわけか?」
「ああ、昔恩を売っておいた福建野郎がいてな。そいつのヤサを借りてたんだが、おれが元成貴を狙ってるってわかったとたん、これだ」
 富春は掌で首をかき切る真似をした。
「まったく、度胸のねえやつらだよ」
「度胸の問題じゃない。だれだってそうする。そもそもなんだって戻ってきたんだ?」
「電話でいっただろう。元成貴の豚野郎がおれの女をさらったんだ」
「今までどこにいたんだ?」
「名古屋《ミングーウー》だ」
「元成貴が名古屋まで手をのばしておまえと女を見つけたっていうのか」
「そんなことおれにわかるかよ!」
 おれたちはサイクリングロードに沿って原宿方面に歩いていた。ベンチで抱擁を交わしていたカップルが、富春の怒声に驚いて機械仕掛けの人形のように跳ねあがってこっちを見た。
「声がでかい。北京語で話してるからっていい気になるなよ、富春」
「すまねえ。元成貴がどうやったかなんて、おれは知らねえ。ただ、女から連絡があったんだ。元成貴に捕まってる、助けてくれってな」
「おまえに女ができたか……想像もつかないな。どんな女だ?」
 さり気なく餌《えさ》をまいた。夏美に関する情報を富春からしぼり取ってやるつもりだった。だが、おれのまいた餌は想像以上に効果的だった。富春の表情に動揺が走ったのだ。
「どうした? なにかまずいことでも聞いたか」
「いや……なんでもねえ。ただの女だ」
「ただの女ってことはないだろう。なにをしてる女だ? 大陸の女か? それともこの国の女か? どうやって知り合った?」
 おれは矢継ぎ早に質問をはなった。富春に考える時間を与えたくなかった。
「あ、ああ。水商売だ。おれたちと同じ半々だよ。日本と大陸のな。おふくろが日本人で親父が大陸だ。知り合ったのは……たまたま飲みに行って気が合ったんだ」
 富春の嘘はこれっぽっちも上達しちゃいなかった。富春とたまたま気が合う女なんか、世界中を探したって見つかりはしない。
「水商売ったっていろいろあるだろうが」
「……日本人相手の台湾バーだ。客を取ってた」
「そんな店におまえが足をむけたってのか? おれには話が見えないな。それとも、歌舞伎町を離れてる間に生き方を変えたってのか、富春?」
 富春は答えなかった。黄色く濁った目で宙を睨《にら》みながら、怒ったように顔を歪めて黙々と歩いていた。広い額に無数の汗のしずくが浮き上がっていた。
「富春、おれはな、元成貴に脅されてるんだ。死にたくなかったらおまえを連れてこいってな。やつに逆らっちゃ、歌舞伎町じゃ生きていけない。だが、ダチを売ることはできない。信義にもとるからな。そうだろう?」
 おれは富春に考える時間を与えてやることにした。富春と夏美の間には男と女以上の何かがある。そいつを確かめたかった。たとえ嘘をつかれたとしても、相手が富春なら綻《ほころ》びを見つけてそこからなにかを知ることができるはずだ。
 富春はうなずいた。おれは続けた。
「おれはおまえを助けたい。だが、元成貴を相手にするとなったら、生半可なことはできない。徹底的にやらなけりゃな。そのためには、できるだけ細かいことを知りたいんだ。それがおれのやり方だ。覚えてるだろう?」
 富春はもう一度うなずいた。
「おれはおまえの女のことを知りたい。その女がおまえをはめようとしてるわけじゃないって確信が持てなけりゃ、おれは動けない」
「小蓮《シャオリェン》はおれをはめたりはしない!!」
 富春は吠えた。目を剥き、唾《つば》を飛ばしておれに詰め寄った。おれはさがらなかった。頭がフル回転していてそれどころじゃなかった。
 富春はまた夏美を、小蓮と呼んだ。恐らく、夏美の本名には蓮という字がつくのだ。そして、夏美と富春の間には、ただの行きずりではない、もっと深いなにかが横たわっている。
「健一、ふざけたことを抜かすと、おまえだってぶち殺すぞ!」
「落ち着けよ、富春。おまえが話してくれなきゃ、おれにはなにもわからないっていってるんだ。話してくれるな? その小蓮って女のことを」
 富春は喉になにかがつかえたような表情を見せて足をとめた。そしてぷいとおれから顔を背け、足早に歩きはじめた。
「小蓮とは……幼馴染《おさななじ》みだったんだ。名古屋でばったり出くわした。それで……なるようになっちまったんだよ」
 また嘘だ。頭に浮かんだことをそのまま言葉にしているのがみえみえだった。
「幼馴染みっていうと、その小蓮も残留孤児二世ってことか?」
「ああ……あいつは、隣村にいたんだ」
 日本ならともかく、中国での隣村がどれだけの距離を置いて隣接しているのかはおれにだって想像がついた。開放政策が続いている現在の大陸じゃどうかは知らないが、富春が暮らしていたころの大陸、それも農村部じゃ自分たちの村だけが世界の大半だったはずだ。遠く離れた隣村の人間の顔なんてたとえ見かけたことがあるとしても覚えているはずがない。
 ——つまり、富春と夏美は同じ村の出身だってことだ。夏美は黒竜江省の出身だといっていたが、嘘っぱちだ。富春と同じなら、吉林省ってことになる。
「あの辺は残留孤児が多いみたいだからな」
 おれは富春に助け船を出してやった。
「そ、そうなんだ。お、同じ日本人との半々だってことで、何度か話したことがあったんだよ」
 夏美は、自分が半々だと知ったのは八〇年だといっていた。この件に関して嘘をつく理由はない。それに、残留孤児たちは、余計な軋轢《あつれき》を避けるために自分が日本人であることを隠している場合が多かったと聞いている。残留孤児二世の大半は、日中間で残留孤児問題が表面化しはじめた八〇年代に入ってはじめて、自分が日本人の血を引いていることを知らされたのだ。富春だってそうに違いない。鼻たれ小僧の時分には、生粋《きっすい》の中国人として畑仕事に精を出していたのだ。
「それが名古屋でばったりか。すごい偶然だな」
「おれも信じられなかったよ」
 富春は夢見るような目つきで夜空を見上げた。富春が感傷にひたることがあるなど、今の今までおれは考えたこともなかった。
「よっぽど惚《ほ》れてるみたいだな」
「おれの家族だからな」
「結婚したのか?」
「まさか。ただ……まあ、おれたち、夫婦みたいなもんだからよ」
 夏美の態度からはとてもそうとは思えなかったが、おれはとりあえずうなずいた。
「で、小蓮をどうしても取り戻したいっていうんだな?」
「あたりまえだ」
「助けてくれって以外、なんの連絡もないんだろう? おまえに連絡したことがばれて殺されたって可能性もあるな。だったらどうする?」
「世界中の上海野郎をひとり残らず殺してやる」
 富春はいった。冗談なんかじゃなかった。じめじめと湿った底無し沼からわきおこってきたかのような声を聞けば、この世に起こる全てのことをジョークとして笑い飛ばさなけりゃ気が済まない人間でも、それがだれにも汚すことのできない純粋|無垢《むく》な誓いの言葉であることがわかったはずだ。
 富春の横顔を盗み見た。全身の肌があっというまに粟立《あわだ》った。
 
 前方に原宿の明かりが見えてきた。まだ話は終わっちゃいなかった。おれたちは適当なベンチを見つけ、腰を下ろした。
「最初にやらなけりゃならないのは、小蓮を助け出すことだな」
 煙草に火をつけながらいった。
「できるか?」
「できるか、じゃない。やらなけりゃいけないんだ。そうじゃなきゃ、おまえが元成貴をバラしたとたん、小蓮は殺されるぞ」
「そうだな。元成貴を殺《や》るのはそれからでも遅くねえ」
 元成貴を殺さないという考えはおれたちにはなかった。その点ではおれたちの思考ははっきりしていた。
「ところで、どうして黄秀紅を殺さなかったんだ?」
「だれだ、その女?」
「元成貴の情婦だ。おまえが襲った〈紅蓮〉のママのひとりだよ。彼女がいるから襲ったんだろう?」
「ああ、あの女か。あの女をさらって元成貴と取り引きするつもりだったんだが……」
「どうした?」
「あの女をひっさらおうとして目をみた瞬間、やる気がなくなっちまったんだよ」
 煙草を吸う手をとめ、富春に顔を向けた。
 おれの知ってる富春は、どんな馬鹿げたことであっても、やると決めたことはとことんまでやる性格だった。
「そんな目で見るなよ。おれだって不思議だったんだ。とにかくよ、この女に手を出しちゃいけねえって、そう思っちまったんだよ」
「変わったな」
「そうか? だとしたら、小蓮のおかげかもな」
 富春はそういって、照れる様子もなく笑った。おれの心臓の鼓動が速くなった。
「なんにしろ、都合がよかったよ」
 おれは煙草を吸いながら、慎重に言葉を継いだ。
「黄秀紅には、おれもいろいろと貸しがある。彼女を通じて小蓮が捕まってる場所を調べられるかもしれない」
「マジか?」
「おまえが秀紅に手を出さなかったことも使えるだろう。大丈夫だと思う」
 煙草を投げ棄て、足で踏み消した。
「よし、おれは今夜中に黄秀紅を掴まえて、小蓮の居所を探り出す。それと同時に、元成貴に連絡を入れて、おまえの居所が掴めそうだとはったりをかましておく」
「そんなことする必要があるのか?」
「大ありだ。元成貴は馬鹿じゃない。小蓮を連れ出すためにはあいつの目を他に向ける必要がある。おまえならうってつけだ。あいつがおまえを殺す考えに夢中になってる間におれが小蓮を助ける。すぐに元成貴におまえが見つかったと連絡を入れる。おまえは元成貴を待ち受けて、殺すんだ」
「わかった」
 富春はあっさり答えた。疑問も質問もなしだ。自分が騙《だま》されているとは露ほども考えていないのだ。こんなやつが今まで生きてこれたということが、おれには容易に信じられなかった。
 ジージャンのポケットから十万のズクと飯田橋のマンションの鍵を取り出した。
「おれはさっそく動かなきゃならない。これはとりあえずの資金と、隠れ場所の鍵だ」
 富春に飯田橋のマンションの場所を教えてやった。これでもうあの部屋は使えない。だが、背に腹は替えられない。この件がうまくいったら、新しいマンションを探せばいいだけのことだ。
「元成貴を殺す段取りは今夜中に考えておく。いくらなんでも、元成貴を殺してあとは元どおりってわけにはいかないからな。おまえと小蓮の逃亡経路も考えておかなきゃならない」
「なにからなにまで悪いな、健一」
「気にするなよ」
「小蓮にもいつもいってたんだぜ。おまえは最高の相棒だ」
 肩をすくめた。おれの嘘がばれたら、富春は世界中の台湾野郎——あるいは日本人をぶち殺すと誓うのだろうかと考えながら。
「小蓮を助けたら連絡を入れる。それまでは動かないでじっとしてろ」
「わかってるって」
 富春は立ち上がって、おれに分厚い手を差し出してきた。おれはその手を握った。
「なあ、健一。これが全部片付いたら、おまえも名古屋へこいよ。それで、昔みたいにつるんで楽しくやろうぜ」
「ああ、そうだな。考えておくよ」
 富春はおれに背を向けると、公園の出口をめざして歩きはじめた。公園を出ればすぐに原宿駅だ。富春は何も考えずに電車に乗り、飯田橋で安眠を貪るのだろう。おれに考えることを任せることですっかりリラックスしているのだ。
 富春は馬鹿だった。天文よりも愚かだった。馬鹿を通り越して、哀れですらあった。おれの周りにはいつだって富春や天文のような人間しか寄りついてこないのだ。

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