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楊偉民の元を叩き出されたおれを拾ってくれたおカマは女を怨んでいた。酔っ払うと、「あたしは元々はノンケだったのよ。ぜーんぶ、女が悪いの」というのが口癖だった。
どういうことかというと、白皙《はくせき》の美青年だった多感な時代に女に手酷く扱われたってことだ。そのときにおカマは誓ったのだ。絶対に女より奇麗になって、他の男を自分がやられたのと同じように扱ってやる、と。男どもを女の手に触れさせてはならない、というのがその誓言の骨子だが、とにかくおカマは徹底して女を嫌っていた。
おカマの店は、ホモや男より女の客が圧倒的に多かった。若いころは厚い化粧と白い肌で酔った男の目なら簡単にごまかすことのできたおカマも年をとり、作戦を変更せざるをえなかったのだ。おカマは自分の店に女を集め、女たちの心を探り、その醜さを見せつけることによって、男たちを守ろうとしていた。
結局、おカマは女憎しの心に凝り固まったパラノイアだったのだが、その庇護の手は当然のことながらおれにものびてきた。おカマはおれをお稚児《ちご》さんにしたかったのだ。絶対に女の魔手に触れさせるわけにはいかなかった。
おカマは女たちに浴びるほど酒を飲ませ、なにかいさかいが起きると必ずといっていいほど両者をけしかけた。酔って、皮膚の代わりに自意識を身体の表面に張り付かせた女たちの争いはほとんど猖獗《しょうけつ》を極めていた。自分と一族のことしか考えない台湾人の争いを側で見てきたおれも、眉をひそめずにはいられないことが多かった。そして、おカマはそんなおれを横目で盗み見しては静かにほくそ笑んでいた。
おカマの目論《もくろ》みはお笑いぐさだった。わざわざ教えてもらわなくても、おれは女の本質というものをちゃんと知っていた。おふくろから学んだのだ。おれにとって女は恐竜と同じだった。いつだって飢えていて、食べたそばから食べたことを忘れてしまう底無しの胃袋と短絡した思考経路を持っていて、飢えを満たすためならどんなことだってやってのける。
だから、おれは流血沙汰すらまれじゃない女たちのいさかいに眉をひそめながら、おカマの女にたいする考察や、同調を求める女たちの声を無視して、ただ黙々と酒とつまみをつくっていた。
そのころ、店にはよく変な電話がかかってきた。夕方の六時、おれが店を開けて仕込みをしていると、その電話はかかってきた。受話器を取り上げても、声は聞こえない。かすかに乱れた呼吸の音が聞こえ、正確に三十秒で切れた。最初は薄気味が悪かった。どこかのおカマがおれを狙っていると思ったのだ。だが、それも度重なるうちに気にならなくなった。おれのジーンズの尻のポケットには、いつもナイフが差しこまれていた。脂ぎったおカマがおれに襲いかかってきたら、そのナイフを使うつもりだった。ナイフの使い方はよく知っていた。呂方とトルエン野郎を刺したときの感触は、まだしっかりと掌に残っていた。
だが、おれのそんな幼稚な決意も、後になってみればただのガキの空回りだった。電話の主はおカマなんかじゃなかった。女だった。
その女は店の常連だった。年は三十前後で黒い真っ直ぐな髪を肩までのばし、化粧っけの薄い顔に丸ぶちの眼鏡をかけていた。いつもグレイや紺のタイトスーツに白いブラウス姿で、女たちの争いにかかわることもなく店の片隅で静かに酒をすすっていた。男たちが女教師という言葉から想起するイメージから抜け出てきたような女で、実際、都立の高校で国語を教える教師だという話だった。
ある夜、おれはその女が電話の主だと気づいた。おカマの店は横に細長く、一番奥にトイレがあった。トイレの横にはビールケースが置かれ、冷蔵庫の中にビールがなくなると、おれはカウンターの外へ出てビールを抜きださなきゃならなかった。その夜は混んでいた。だれがトイレに入っているかなんて、確認する暇もなかった。カウンターの外へ出てケースからビールを抜き出しているときにトイレのドアが開いた。出てきたのはその女だった。女ははっとしたように口を開けていた。それから、喘《あえ》ぐような息を吐き出して「ごくろうさま」といい、おれの横を通りすぎて自分の席に座った。ほんのりといい香りがおれの鼻をくすぐった。そのとき、気づいた。女の喘ぐような吐息と、無言の電話の向こうから聞こえてくる息遣いが似ていることに。
おれはちらっと女の後ろ姿を見てから、カウンターの中へ戻った。女が電話の主であることは確信していたが、そんなことはおくびにも出さなかった。おカマの観察眼が異様なほどに鋭いことを知っていたからだ。おれは黙々と働いた。女が席を立って帰っても、顔すらあげなかった。
翌日、おれは早めに店を開けた。おカマは七時すぎに顔を出す。それまでにカタをつけておきたかった。仕込みを終わらせ、待った。時計の針が六時二分を回ったとき、電話が鳴った。おれは受話器を取った。静寂が流れてくるだけの受話器を。
「……さんだろう?」
おれは女の名字を口にした。あとは一方的なおれのペースだった。女は尻尾をつかまれた牝犬《めすいぬ》みたいなものだった。日曜に女とあう約束を取り付け、電話を切った。その夜、女は店に現れなかった。気にもならなかった。おれの頭の中じゃ、おれに組み敷かれてひいひいよがっている女の裸体が一晩中浮かんでいた。
約束の日曜。女はでかいショルダーバッグをかかえて待ち合わせの場所に現れた。服装はいつもの女教師ルックだ。おれたちは渋谷のラブホテルに直行した。言葉は交わさなかった。お互いの気持ちはわかり切っていた。もっとも、おれの場合は考えが足りなかったのだが。
ホテルに入る前に、女は一瞬だけ足をとめ、濡れた瞳でおれを見上げて、「わたしのいう通りにしてくれる?」と聞いてきた。おれは深く考えずにうなずいた。考えるべきだったのだ。
部屋に入った直後から、女の怯えがおれに伝わってきた。いい年をして、年下の若い男とセックスをするのは初めてということなのだろう。おれは女が可愛くなって、手を差し伸べた。その手を女がさっと掴み、次の瞬間、おれの身体は宙に浮いていた。
背中をしたたかに床に叩きつけられ、おれは肺の中の空気を丸ごと吐きだした。何が起こったのかを考えようとしているうちに、女の腕がおれの首に巻きついてきた。いつもはスーツに覆われている腕が意外に筋肉質だということに気づいたが、それだけのことだった。おれの目の前が真っ暗になった。
気がつくと、真っ裸でベッドに横たわっていた。手足の自由がきかなかった。おれはベッドにくくりつけられていた。
「リンコは十八だっていってたけど、本当なの?」
声がした方を振り向くと、黒い革の下着を着た女が——今でいうボンデージってやつだが、当時はそんな言葉も知らなかった——鞭《むち》を片手に薄笑いを浮かべながらおれを見下ろしていた。その顔には女教師の風情も感じられなかった。剥き出しになった腹は切り立った崖《がけ》みたいに平らで、太股まであるブーツから覗ける脚はしなやかな筋肉に覆われていた。国語教師の身体じゃなかった。
「なんなんだよ、これ!?」
おれは叫びながら、手足をばたつかせた——動かなかった。おれの四肢はしっかりとベッドに固定されていた。
「リンコのいってたことは本当なの」
女はうっとりとした微笑みを浮かべたままだった。リンコってのはおカマの源氏名だ。
「ああ、おれは十八だよ。そんなことより、これ、ほどいてくれよ」
「だめよ」
女はいって、屈みこんできた。
「君は、わたしがリンコから買ったんだから。一日で五万円。高い買い物にならないようにしなくっちゃ」
そして、女は鞭でおれを打ちはじめた。
おふくろにベルトで殴られたことは何度もあったが、生まれてはじめて食らう鞭の味は強烈だった。最初は無感覚。やがてそれが耐えがたい痛みに変わった。身体の表面全体が痛みを増幅するツボになったようだった。最初は女を罵《ののし》っていたが、そのうち頭が働かなくなった。おれはただうめくだけのボロクズと化していた。
女は鞭をふるいながら、ありとあらゆる言葉でおれを——いや、男という生き物全般を罵倒していた。そして、自分がどういう人間であるかを、声を大にしてわめいていた。
女は国語じゃなく体育の教師だった。学生時代は柔道の選手で国際強化選手に指名されたこともある逸材だったそうだ。おれを投げ、締め落とすぐらい、女には朝飯前だった。女は練習中に膝を痛め、選手を引退した。そして、高校の体育教師になった。
女は男が嫌いだった。柔道のコーチにレイプされたことがあるのだ。坊主頭の腋臭《わきが》くさいデブだったそうだ。そのデブに、女は三度犯された。抵抗しようとしたが無駄だった。体重差が八十キロもあったのだ。とにかく、女は男を憎むようになった。特に、力のある男を。女は女子高への赴任を希望したが、叶えられなかった。
失意のうちに都立高校へ赴任した女だったが、そこで女の心と身体に劇的な変化が起きた。青臭いガキどもの肉体と匂いに欲情する自分に気づいたのだ。まだ線のできあがっていない華奢《きゃしゃ》な身体と健康的な汗の匂い。それは、女を犯したデブとは似ても似つかないものだった。はじめて男子生徒の体育の授業を受け持ったとき、女は気絶してしまうんじゃないかと思えるぐらい激しい快感に身を貫かれた。
だが、女は自分の欲望を実現することができなかった。生徒に手を出すわけにはいかなかったのだ。女は生徒たちのトレーニング・ウエアを盗み、布に染み付いた匂いを嗅ぎながらマスターベイションにふけった。それでも、脳裏にこびりついた欲望の火を消すことができずに、同じ志を持った同士を求めて夜の街にさまよいでた。その過程でSMにも出会い、今にいたっているというわけだ。
自分のことを語り終えると、女は鞭を放り投げた。おれの股間に革の手袋で覆われた手を伸ばしてきた。信じられないことに、おれのペニスはいまにもはちきれそうに猛っていた。おれの頭の中は、鞭によって与えられた苦痛と、女の口から吐き出されたおぞましい呪詛《じゅそ》のせいで使いものにならなくなっていたっていうのに。
「清潔そうな顔をしてるくせに、こんなになっちゃって。恥ずかしくないの?」
女は聞いているこっちが恥ずかしくなるような台詞《せりふ》を口にして、おれの股間に顔を埋めた。女の舌先が先端に触れた瞬間、おれは爆ぜていた。
「もういっちゃったの。悪い子ね」
女はまんざらでもなさそうに顔にかかったおれの精液をぬぐった。
「でも、まだ、元気なまんまね」
女はまた身を屈めた。両手でおれのものをもみながら、臍《へそ》のあたりに口をつけ、ちろちろと舌先をおどらせながらおれの顔の方にせりあがってきた。裂けた皮膚に舌が触れるたびに、痛みがおれを苛《さいな》んだ。それでも、おれの怒張は力を失う様子を見せなかった。
「一晩中、可愛がってあげる。君もわたしをいい気持ちにさせるの。だけど、わたしのおまんこに触っちゃだめ」
女はおれの顔をなめまわしながらいった。卑語を口にしたその瞬間だけ、女の身体はひくひくと痙攣《けいれん》した。
「わたしのおまんこは、君みたいなおカマにやらせるほど安っぽくないの。君がやってもいいのは、わたしのお尻の穴だけ。いいわね」
そういうと、女はおれの腹の上で体を起こした。右手はベッドの脇にのび、おれの耳元でなにやら蓋《ふた》を開けるような音がした。女の右手が再びおれの視界に現れたとき、革に包まれたその指先はぬめった光を帯びていた。グリースのような匂いがした。女は腰をあげ、グリースにまみれた指先を尻の方へ持っていった。そして、おれからは見えないどこかにそれを塗りたくった。
「できるだけ我慢するのよ」
女はそう囁《ささや》き、おれの股間に腰を落としはじめた。おれのものは女の左手で支えられていた。膣のそれとは違う圧迫感に、おれのものはあっという間に包みこまれた。
「君はお尻が好きなの。男でも女でも関係なく、お尻の穴が好きなの。そうでしょう? わたしのお尻が味わえて幸せでしょう?」
女は譫言《うわごと》のように口走り、腰を上下に動かしていった。
おれの頭の中じゃ、呂方といっしょに殺したトルエン野郎の姿が浮かんでは消えていた。あいつの薄汚い尻。あいつのクソにまみれたおれのペニス。おれはおれの上で腰を動かしている女を心の底から呪った。
都合六回女に犯された。最初に爆発しちまったのは別にして、だ。おれは心の底から女を憎んだが、女がおれを打擲《ちょうちゃく》し、おれを言葉で嬲《なぶ》るたびに、おれのものは力を取り戻し、女の口の中に、尻の穴の中に熱い精液をぶちまけた。だが、だからといっておれが快感を覚えていたわけじゃない。ペニスの根元で快楽を伝える神経が遮断されちまったかのように、おれはなにも感じなかった。ただ、ペニスだけがおれの意志とは無関係にいきり立っていたのだ。
すべてが終わると、女はまた臆病な女教師の仮面をかぶった。ボンデージを脱ぎ捨てて例の女教師ルックに身を固めた。おれの縄をほどくとショルダーバッグから軟膏の入った瓶を取りだし、血まみれのおれの身体に塗りたくった。おれは女に促されるままのろのろと服を着た。ポケットの中に入れておいたナイフはなくなっていた。そのことに気づいた瞬間、やっと自分を取り戻した。
女はSMの道具をショルダーバッグに詰め込んでいる最中だった。冷蔵庫の前にあった小さなパイプ椅子に手を伸ばした。女は気づかなかった。おれは椅子を女の頭に叩きつけた。
女は気絶もしなければ、取り乱したりもしなかった。血でべっとりした髪の毛をおさえながら、低い声で呻《うめ》いていた。おれはショルダーバッグを拾って中を覗いた。奥の方におれのナイフが転がっていた。フォールディング・ナイフの刃を開いた。スティールの冷たい輝きが、おれがなにをすべきかを教えてくれた。
女の横にしゃがみこみ、髪を引っ張ってこっちをむかせた。女の目は今にも飛び出そうだった。ナイフを女の喉に突きつけ、おれのものをしゃぶらせた。根元が痛んだが、なんとか役に立つ状態にはなった。それから女を四つんばいにさせ、スカートをめくって下着を引き下ろし、女が絶対に触らせないといっていた部分におれのものを突き立てた。
いくまでには長い時間がかかった。おれは機械的に腰を振りつづけた。はじめのうちは恐怖に怯え、闇雲に許しを乞うていただけの女の口から、いつしか明らかにそれとわかる喘ぎ声が漏れはじめていた。おれが激しく腰を打ちつけていった瞬間、女は断末魔のような叫びをあげて気絶した。
女のスーツでペニスをぬぐい、パンツの中に仕舞いこんでから、気絶している女を仰向けにさせた。何度か頬を叩いてみたが、女は意識を取り戻す様子がなかった。おれは舌打ちをしながら女の頬にナイフの刃をあて、すっと引いた。さっきまでナイフの刃が当たっていた皮膚から血の滴が溢れ、やがて、真っ赤な線になっていくのを眺めた。女は顔を切られたことにも気づかず、安らかとさえ取れる呼吸を繰り返していた。
反対側の頬にも同じことをして、おれはホテルを後にした。
あの時以来、女教師にはあっていない。噂をきいたこともない。ただ、おカマがおれを怯えた目で見るようになっただけのことだった。おカマはあの女におれを任せることで、おれに女に対する憎悪を植え付けようとしたのだ。だが、おカマの目論《もくろ》みは外れた。逆に、おれがおカマのボスになったのだ。それだけだ。
参宮橋の駅へと続く坂道を下りながら、なぜ変態の女教師のことなどを思い出したのかと考えていた。考えるまでもない。夏美のせいだ。おれは夏美とやりながら、自分がやっているのではなく、やられているという感覚しか得られなかったのだ。
——そして、女というもの。
おれは女を愛したことがない。たぶん、愛されたこともないだろう。こっちが信頼しなきゃ、むこうも信頼を寄せてくれるわけがない。愛と信頼はわかちがたいものだ。
おれが夏美を信頼するなど、とんでもない話だった。質の悪いジョークにもならない。夏美は大嘘つきだ。
問題は、おれが自分を見失ってるってことだ。富春はおれの手の内に入った。普段のおれなら、さっさと元成貴に話をつけて、富春と夏美を厄介払いするだけのはずだ。すべてが落ち着いてから、元成貴を排除する方法は考えればいい。
それなのに、おれは暴走しようとしている。夏美と手に手をとって乗り切ろうとしているのだ。馬鹿な話だ。そんなことを好んでするのはカモだけだ。そして、おれはそれを承知でカモになろうとしている。
もちろん、おれをカモるのは夏美だ。