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マンションに戻ると、夏美は例の赤いボディコン・スーツに身を包んで待っていた。
「すまん。いい忘れてた。普通の格好でいいんだ。ジーンズにTシャツとかな。もう一度着替えてくれ」
おれの言葉が終わらないうちに、夏美の表情はさっと不機嫌になった。まるで映像が切り替わったようだった。
「悪い」
もう一度謝った。
「これから行くのは、まあ、いってみれば家族会議みたいなもんだ。おまえに目のやり場に困るような服を着られると、まとまるものもまとまらなくなる。相手は頭の固い中国人なんだ」
「キスして」
夏美はいった。表情は少しも変わらなかった。
「なんだって?」
「キスして」
夏美は辛抱強く繰り返した。肩をすくめるしかなかった。夏美を抱きよせ、静かに、だが激しく唇を貪《むさぼ》った。
「機嫌は直ったか?」
「うん」
夏美は少女のように微笑むと、おれの腕の中からぱっと離れ、スーツを脱ぎはじめた。おれを誘うように。
煙草を取りだし、夏美のストリップティーズを眺めた。いい眺めだったが、おれの心は穏やかじゃなかった。こいつはおれのペースじゃない。全然違うのだ。
〈桃源酒家《タオユェンジゥジァ》〉は靖国通りに面した、サンパーク・ビルの隣の雑居ビルの三、四階を占拠している。三階が一般客席、四階には厨房と団体用の個室がある。天文のパトロンになった旦那衆はかなりの金を注ぎこんだはずだが、それなりの見返りは得ている。天文は一流のマネージャーなのだ。夕方の五時から朝の五時まで、〈桃源酒家〉には客がひっきりなしにやって来る。
おれたちは地下駐車場にBMWをとめ、地上には出ずにサブナードの〈ドトール〉に腰を据えた。
「この前と同じだ。このあたりをぶらついてくる。なにか変なことがなけりゃ、ここに戻ってきて、おれといっしょに夜食を取りにいく」
コーヒーに口をつける前にいった。夏美はすかさずうなずいた。
「変な中国人が待ち伏せしてないかみてくればいいのね」
そういって勢いよく店を出ていった。
安いだけが取り柄のコーヒーをすすりながら、地下街をゆっくり観察した。本来なら、待ち合わせの場所にこんなに近いところで様子をさぐるなんてことはしない。だが、この期におよんで楊偉民がおれをはめようとするなら仕方がないという気持ちがどこかにあった。おれは賭けに出たのだ。楊偉民が天文を思う気持ちは欲よりも深いという目に、有り金を全部ぶち込んだのだ。いまさらじたばたしたってはじまらない。それに、本当にやばいと思っているなら偵察に夏美を使ったりはしない。香港かマレーシアあたりの、危険の匂いに敏感な奴等ならいくらだって知り合いがいるのだ。つまり、これは癖ってやつだ。必要ないとわかっていても、いつもどおりにやらなきゃ尻のあたりがむず痒《がゆ》くなってくる。
コーヒーをあらかた飲み干し、三本目の煙草に火をつけたところで夏美が戻ってきた。
「ノー・プロブレム」
夏美の息はかすかに乱れていた。それだけだ。おれをまっすぐ見つめる目にはなんの動揺も映ってはいなかった。
「なにも気づかなかったよ」
「座れよ」
夏美に椅子をすすめた。
「いいか、これから会うのは天文と、あの薬屋の爺さんだ。天文はともかく、爺さんは重要な話の席に女が加わるのを嫌う。だが、おれはおまえにも話を聞いておいてもらいたい。おれの女だといえばなんとかなるが、ただの女ってわけじゃないと爺さんに思わせることができればもっといい。できるか?」
「あの人、何者?」
夏美はすっかりぬるくなって湯気も立たないコーヒーをすすった。コーヒーカップの縁の上で、黒く輝く瞳が探るようにおれを見ていた。馬鹿げたことを聞くなといっているのだ。
「おれと天文の昔の保護者だ。人によって堅気と流氓の顔を使い分ける食えない爺さんだよ」
「今じゃ仲が悪いわけ? 三人とも」
「難しいな。おれは楊偉民が嫌いだ。楊偉民も同じだろう。問題は天文なんだ。あいつは楊偉民のやり方やおれの生き方を軽蔑してる。だが、嫌っちゃいない。で、楊偉民の方は天文にベタ惚れなのさ。今だって手元に帰ってきてもらいたいと思ってるだろう。その天文がおれのことを兄貴と慕ってる。それを知ってるから楊偉民もおれを追いだすことができない。そんなところだ」
「でも、もう二度と顔も見たくないっていわれてなかった? 楊偉民て人がそれを知ったら?」
「楊偉民は元成貴におれを売った。おれがそれを知ってるってことは天文にもいずれ伝わるとあいつは踏んでたはずだ。何もしないさ。今のところはな」
「よくわかんない」
「おれも最初はわからなかった。勉強したんだ。人生って試験でいい点を取るために」
夏美はまたコーヒーをすすった。眉間に皺《しわ》がよっていた。おれの言葉を考えているようだった。やがてカップをテーブルの上に置き、頬杖《ほおづえ》を突いた。
「で、健一はいまのところ何点だと思ってるの? 自分の人生」
「五十点ってとこだろう。おれにもうちょっと才覚があれば、いまごろはビルの一つも建ててるはずだ。そうしたら、こんな目にあうこともなかった」
「だいじょうぶ。健一は絶対百点とれる。今はちょっと運がないだけだよ。わたし、わかるんだ。健一は百点をとる。健一と、わたしのために」
夏美は微笑んだ。その目には永遠に続くトンネルのようにどこまでも黒い闇が広がっていた。おれはその闇をじっと見据えた。ただで手に入るものなんてどこにもないんだということを教えてやらなけりゃならなかった。
しばらくすると、闇が消えた。夏美の顔に戸惑いが浮かんだ。
「昔はおれも百点を狙ってた」
夏美の目を見つめたまま口を開いた。
「必死こいてな。だけど、そのうち気づかざるをえなかった。おれはどう転んだって楊偉民や元成貴みたいにはなれっこないってことに。百点をめざしてもいいやつとそうじゃないやつがいる。そういうやつらは、百点をめざしてあがいてる内に周りが見えなくなって結局カモにされちまう。おれもそうなりかけてた。だが、運よく立ち止まることができたのさ。そして周りを見た。たいして長く生きてるわけじゃないが、おれの人生にはそんなにいいこともなけりゃ、悪いこともなかった。おれの身体の中に流れてる二つの血がおれをそうさせてた。つまり、おれが半々であるかぎり、おれには半々の人生しか与えられないってことだ。よくもなく、悪くもない。それが嫌だったら血を流さなきゃならない。おれにはできない。できなかった。それから、おれはせいぜい頑張って五十点をめざすことにしたんだ」
「それはおかしいよ。だって、半々だって成功してる人はいるじゃない。百点取ってる人、いっぱいいるよ」
「いいや。そういうやつらはただ勘違いをしてるだけさ。口じゃ、自分はハーフだとか抜かしていても、心の中じゃ自分は日本人か中国人のどっちかだと思ってるんだ。いいか、夏美。血ってのはただ身体の中を流れてるだけじゃそれほど意味のあるものじゃない。意識しなきゃだめなんだ。血を意識し、そいつの意味を毎日毎晩考えたことのないやつはどうだっていいんだ。本当の半々ってのは、おれやおまえみたいなやつらのことだ。どこにも受け入れてもらえないやつらのことだ。おれは半々として生まれたんじゃない。半々である自分に気づいたんだ。日本人と台湾人のあいのこだから半々だってわけじゃない。おれ自身が自分のことをそう考えてるから半々なんだ。この違いはでかい。わかるか?」
「なんとなく」
夏美はテーブルに視線を落とした。たぶん、日本に来てからの自分に起こったことを考えているんだろう。
「健一が絶対正しいとは思わないけど、健一の考え方はわかったと思う」
夏美はコーヒーカップを見つめたまま、いった。
「それでいい」
「だから、五十点でもいいよ。わかったから」
「それだっておまえのためじゃない。おれのためにやってるんだ」
おれは立ち上がった。そろそろ約束の時間だった。
「さ、行くぞ。楊偉民《ヤンウェイミン》は時間にはうるさいんだ」
夏美はなにもいわずについてきた。