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おれたちはエレベータに来り、三階を素通りして四階でおりた。まだ若いが背筋がピンと張った店長が待ち受けていて、おれたちを一番奥の個室へ案内した。楊偉民が一人で茶をすすっていた。天文《ティエンウェン》の姿は見えなかった。
おれたちが入っていくと、楊偉民はじろりと顔を上げた。その目はおれを素通りして夏美に張りついた。無表情だったが、楊偉民が戸惑っているのは手に取るようにわかった。やがて楊偉民はおれに視線を向け、どういうことだと聞いてきた。
「迷惑をかけるな、爺さん」
楊偉民の無言の問いかけには答えず、向かいの席に腰を下ろした。夏美はおれの左隣に座り、すぐに馴れた手つきでテーブルの中央に置かれた茶器をとっておれに注いだ。
「その女性はどういう理由でここにいるんだ?」
蜥蜴《とかげ》のような目でじっと夏美を見つめていた楊偉民が口を開いた。囁《ささや》くような北京語だった。
「富春《とみはる》の女だった。今はおれの女だ」
日本語でかえした。夏美は北京語ができないという合図だ。だが、楊偉民は騙《だま》されなかった。
「中国の女性だな。茶を入れる手つきでわかる」
相変わらず北京語で楊偉民はいった。
「おれと同じだ。半々《パンパン》だよ。大陸で子供時代をすごしたんだ」
「なるほど」
楊偉民はふいに興味を失ったというように手で弄《もてあそ》んでいた湯飲みに視線を戻し、それきり口を閉ざした。おれの手札を見切ろうとして頭を働かせているのだ。
夏美はすました顔で座っていた。おれは茶を飲んだ。喉がからからだった。ほんのちょっと前になれない演説なんかをぶったからだと思いたかったが、そうじゃないことは自分でも承知していた。
煙草に火をつけた。待つことには慣れている。つまり、沈黙にも慣れている。だが、今この個室を覆っている沈黙はおれを妙に息苦しい気分にさせた。
楊偉民が咳払いをした。それで少しばかりほっとした。息苦しさを感じているのはおれだけじゃないのだ。よく考えれば、おれたち三人が顔を突き合わせるのはこれがはじめてだった。
天文が歌舞伎町へやってきたのは、おれがゴールデン街のおカマのところにいる間だった。おれが台湾の流氓、陳錦《チェンジン》の下っ端をやるようになったころには、天文はすっかり楊偉民の身内として歌舞伎町に溶けこんでいた。
だれかから噂《うわさ》を聞きつけたのだろう、天文はおれに会いにやってきた。そして、すぐにおれを「兄さん」と呼ぶようになった。おれは天文が嫌いだった。妬ましかった。傍目《はため》にも楊偉民が天文を可愛がっているのが見て取れたからだ。それでも天文に「兄さん」と呼ばせていたのは、楊偉民の痛いところを押さえておくのは悪いことじゃないって判断が働いたのと、ここで天文に辛く当たったら、それこそ呂方と変わらないと思ったからだ。そのころのおれは自分がなにになりたいのか見当もつかなかったが、なにになりたくないのかはよくわかっていた。嫉妬や妬みという感情をできるだけ自分から遠ざけたかった。おれはいつも天文の前じゃにこにこしていた。それに、おれがじたばたしなくても、すぐに楊偉民が天文をおれから遠ざけようとするはずだった。
おれの読みは見事に外れた。ことおれに関する限り、楊偉民は天文のすることに口を挟まなかった。天文は暇を見つけるとおれのところへやってきて、どうでもいいことを駄弁っては帰っていった。それは、おれにすればちょっとした驚きだった。楊偉民が天文に意見しないはずがないのだ。百歩譲って、本当に天文にはなにもいわなかったとしても、人を使っておれに天文に近づくなと警告することぐらい楊偉民には朝飯前だったのだ。
おれは考えた。答えを見つけなきゃおちおち眠ることもできそうになかった。納得のいく答えは、楊偉民が耄碌《もうろく》したってことだ。天文が可愛すぎて、ものが見えなくなっているのだ。だが、その答えはおれにはどうしても信じられなかった。もう一つの答えは、おれが天文を嫌っているのを知っていて、天文を見るたびに自分を殺しているおれを弄《もてあそ》んでいるというやつだった。あまりにばかばかしすぎて自分でも笑ってしまった。
結局、答えは見つからなかった。仕事やトラブルが起こった際の楊偉民の考え方は知っていた。だが、心の底で楊偉民がなにを考えているのかなんて、わかったためしがないのだ。
答えが見つからないまま、おれは天文を受け入れつづけ、陳錦の組から与えられる仕車に没頭した。陳錦が歌舞伎町のど真ん中で対立する組織の鉄砲玉から数発の銃弾をくらってくたばったときにはおれもそこそこの信用を得るようになっていた——下っ端の流氓を引き連れて盗みをしたり、パチンコ屋を荒らしたりしていたのだが、おれには盗みはどうにも割があわないように思えてならなかった。頭のいいプロなら、直接自分では手を下さない故買屋がぴたっとくる。盗みは頭の悪いやつのする仕事だ。だから、おれは故買屋になりたかった。それも、ヒモのつかない。陳錦の死はいいきっかけだった。独立してフリーで仕事をしたいといっても文句はどこからもでなかった。
おれが独立すると——別に事務所を構えたわけじゃないが——天文がやってきた。そして、おれの独立を祝って三人で宴を設けようといった。三人てのは、もちろんおれと天文、それに楊偉民のことだ。天文はおれが流氓の世界から足を洗ったと信じこんでいたのだ。
おれは天文のおめでたさを笑ってやった。そして、楊偉民がうんというか先に聞いてこいといって追い返した。もう、天文にはうんざりだった。案の定、天文はうなだれて戻ってきた。その夜、天文と酒を酌み交わし、もうおれのところへは来るなといった。楊偉民が喜ばないと。天文は反論したが耳は貸さなかった。天文は戻ってきたときと同じように、うなだれて帰っていった。おれは有頂天だった。おれはなにかをやり遂げたのだ。おれひとりの手で。そして、楊偉民と天文との腐れ縁を断ち切った。もう、おれが気にかけなきゃならない人間はいなかった。
楊偉民からあいたいと連絡があったのはその数日後だ。釈然としないまま、〈薬屋〉を訪れたおれに、楊偉民は天文を可愛がってやってくれといった。ここ数日の天文は見る影もないほどしおれているのだ、天文を立ち直らせることができるのはおれだけだ、と。そして、もしおれが今までどおり天文との関係を続けるなら、おれの仕事に便宜をはかってもいい、とまでいったのだ。
つまりはそういうことだ。楊偉民はすっかり耄碌していた。天文のことになるとものが見えなくなるのだ。おれはうなずいた。楊偉民に逆らえるはずもなかったし、おれにとって楊偉民が与えてくれる便宜は金塊よりも価値のあるものだったからだ。
〈薬屋〉を出ると、その足で天文を捕まえ、おれたちの仲はこれからも続くといってやった。前にも増して天文が妬ましかったが、それを平然と口にすることができた。
そうやっておれたちは十年以上のときをすごしてきたが、三人がそろうことは有り得なかった。特に、天文が楊偉民の元を飛び出した後ではなおさらだった。それでも、天文はときおり思い出したように、楊偉民が死ぬ前に三人で飯を食わなきゃと口にした。おれがそれに答えることはなかったし、楊偉民も同じだろう。
おれは三人で顔を合わせるとしたら、天文をてこ[#「てこ」に傍点]にして楊偉民を動かさなきゃならないときだと決めていたし、楊偉民はそれを怖れていた。
その時が、今やって来たのだ。