47
煙草を灰皿に押しつけたとき、天文が入って来た。
「遅れたね。すまない」
天文は夏美にふと目をとめたが、なにもいわずにおれと楊偉民の間の椅子に腰を下ろした。
「さて、そろそろわたしを呼び出したわけを聞かせてもらおうか、健一」
待ち侘びたというように楊偉民が口を開いた。おれは楊偉民と天文の顔を見渡した。天文がうなずいた。
「簡単な話だ——」
「ああ、その前に、そこの女性は本当にこの場にいる必要があるのか?」
おれの言葉を遮って、楊偉民は皺だらけの手を夏美に向けた。相変わらずだ。こうやってこの場の主導権を握ろうとする。
「ああ。彼女はすべてを目に焼き付けなきゃならないからな。だれかがおれをはめたら、彼女はおれが教えた香港の人間にあって、おれをはめたやつにきっちりお返しをすることになってる」
楊偉民と天文が夏美に視線を合わせた。が、夏美は動じるふうもなく、二人に微笑みをかえした。
「だれがおまえをはめるんだね?」
楊偉民がいった。
「あんたに決まってるじゃないか」
「兄さん!」
天文が目を剥いておれを睨みつけた。
「ここではそんな口のきき方はやめてくれ。おれも兄さんも恩がある人なんだぞ」
「いっただろう、天文。この爺さんはおれを元成貴《ユェンチョンクィ》に売ったんだ。次も売らないって保証はどこにもない」
天文はかすかに首を振った。それから、おれに話しても埒《らち》が明かないというように楊偉民に視線を転じて訴えた。
「爺さん、なんでそんなことをしたんだよ?」
「呉富春《ウーフーチュン》などという馬鹿なやつとつるんで仕事をしていたのは健一だ。自分の過ちは自分で償わなければならん」
「それとこれとは別だろう。兄さんはおれたちの身内じゃないか」
楊偉民がちらっとおれの顔を見た。道端に落ちている犬の糞を見るような目つきだった。
「違う。健一は身内ではない。かつてはそうだったが、わたしの面子《メンツ》を潰して身内から去ったのだ」
何千年もの間、凍てついた風にさらされてきた氷河を思わせる声で楊偉民はいった。これには、天文も取りつく島がなかった。
「天文、そのことはもういい。おれと爺さんの間でかたがついてるんだ。問題は、爺さんがおれに借りを返すつもりがあるかどうかだ」
おれは天文の左手に右手を重ね、軽く叩いた。反応はなかった。天文は化け物を見るような目で呆然と楊偉民を見つめていた。
「借りとはなんだ? わたしはおまえに借りなどないぞ」
「その辺のところは天文に聞いてくれ、楊偉民」
楊偉民の顔が曇った。
「天文、どう思う? おまえの意見を聞かせてくれ」
「おれは——」
天文はなにかをいいかけたが、途中でそれをのみこんだ。自棄になったように湯飲みに手を伸ばし、中身を乱暴に口に放りこんだ。それから、楊偉民とおれの顔を見つめ、もう一度視線を楊偉民に戻して口を開いた。
「爺さんのしたことは信義にもとる。少なくとも兄さんは爺さんを裏切るような真似はしてない。昔の件だって、殺したのはやりすぎにしても不可抗力だったんだ。兄さんは他にはどうしようもなかった。それなのに……爺さんは兄さんに償うべきだとおれは思う」
沈黙が流れた。天文は魅入られたように楊偉民を見つめ、楊偉民は切り立った崖を思わせる表情を手元の湯飲みに向けているだけだった。夏美がテーブルの下でおれの左手を握ってきた。おれはそっと握りかえした。
「健一は呂方を罠《わな》にはめて殺したのだよ、天文。健一がどう言い訳しようと疑いの余地もない。この男は身内を平然と殺したのだ」
楊偉民がいった。神父が説話を語るような口調だった。だが、天文には通じなかった。
「おれはいろんな人に話を聞いたんだよ、爺さん。呂方ってのがどんな人間だったのか。知りたかったんだ。どうして兄さんが、あんな目にあわなきゃならなかったのか。だから、おれにはわかってる。呂方ってのは獣だったんだ。兄さんは獣に襲われて反撃した。それだけだ」
「獣は健一の方だ。たしかに呂方にも問題はあったが、わたしに話せばすべては丸く収まった。健一はそれをする代わりに呂方をおびき出し、殺したのだ。関係のない日本の若者まで殺してな」
天文がはっとしたようにおれに顔を向けた。
「あれは……呂方が殺したんだろう?」
楊偉民が仮面のような表情の下でほくそ笑んでいるのが手に取れるような声だった。おれは、なんだそんなこと、という顔で天文の視線を受けとめてやった。呂方の話になったときから、楊偉民があのトルエン狂いのことを持ち出すのはわかっていた。あとは天文を動揺させてやるだけだ。天文は周りの世界がはっきりとした輪郭を持っているときは強い。だが、周囲がぼやけはじめると、ただの子供みたいにわけがわからなくなってしまう。
おれは舌で唇を湿らせ、いった。
「ああ、おれが殺した」
「なんで……」
「わかるだろう、天文。ただ呂方を殺すだけじゃだめだったんだ。裁判も刑務所もごめんだ。大手を振って外を歩けないんなら、逃げた方がましだった」
天文は天を仰いだ。
「あんたたち、二人とも糞だ!」
「その糞の間で泳いでたのはおまえだぞ、天文」
天文の肩に手を置いた。
「なあ、天文。おれはここんとこのごたごたで疲れてる。楊偉民も同じだろう。そろそろ本題に進ませてくれないか」
天文はうつろな目をおれに向けた。それから、力なくうなずいた。
「爺さん……おれはもう、なにがなんだかわからない。だけど、今回だけは兄さんの頼みを聞いてやってくれないか。おれからも頼む」
それだけいうと、天文は自分の殻に閉じこもった。うつむいて、二度と顔を上げようとしなかった。
「さて、と。天文はこういってるが、どうする?」
楊偉民にいった。楊偉民は死んだ魚の目を、その場に百年も座っていたんだぞといわんばかりの姿勢でおれにぴたっと向けていた。
「どうしてほしいんだ?」
「明日、元成貴を殺す。おれじゃない。富春が殺《や》るんだ」
楊偉民はなにもいわなかった。ただ、黙って先を促すだけだ。ちろりとも動かない死んだ魚の目は、おれがちょっとでも隙を見せればたちどころに食い殺してやると語っていた。
「おれは明日、元成貴に電話をかける。富春を手渡すってな。ただし、条件を付ける。手下をぞろぞろ連れてこられたんじゃたまらない。せいぜい、二、三人でお出ましくださいってとこかな」
言葉を切ってみんなの顔を眺めまわした。楊偉民は相変わらずの目でおれを見つめていた。天文はうつむいたままだった。夏美は、おれを信じきったような澄んだ目をこっちに向けていた。だれもなにもいわなかった。
「元成貴はそんな状況を嫌うだろう。そこで、おれが提案する。場所はこの店で、楊偉民が立会人になると。元成貴は来る。そう思わないか?」
楊偉民はおれから視線を外して、なにやら考え込むように眉をよせた。
「渋るかもしれんが、おまえの言葉次第では来るだろう」
「おれは口がうまい。あんたもそれは知ってるだろう」
「ああ」諦めたような口調。楊偉民はうなずいた。「来るだろう。元成貴はきっと来る」
おれは満足の笑みを浮かべて先を続けた。
「あいつらがここへ来る途中で、富春に襲わせる。富春を動かすねじ[#「ねじ」に傍点]はおれが持ってる」
ちらっと夏美に視線を走らせた。
「店の中じゃ絶対に何もしない。だから、あんたにも天文にもそれほど深刻な問題にはならないはずだ」
「失敗したらどうなる?」
「させないよ。失敗したら、おれまであの世行きだからな」
楊偉民は喉の奥で乾いた昔をたてた。笑っているのだ。
「よかろう。それで、元成貴を殺した後はどうなる? 上海のやつらが黙ったままでいるとでもいうのか?」
「富春をくれてやるよ。ただし、死体で。富春のかたさえつけば、あいつら、元成貴の後釜争いが忙しくなって、他のことを考えてる暇がなくなるはずだ」
「わかった」
楊偉民がいった。囁《ささや》くような声だった。
「好きなようにするがいい。ところで、一つ聞きたいことがある」
おれは、なんだというように眉を上げた。
「呉富春はなんだって元成貴を狙っているのだ。〈紅蓮〉を襲ったときに、女はどこだと叫んだそうだが、そちらの女性のことなのか?」
「ああ。富春はこの女が元成貴に捕まってると信じてるんだ」
「おまえが考えたのか?」
楊偉民の顔は無表情だったが、声は冷ややかだった。
「まさか。富春は歩くトラブルだ。わざわざ下手な手を使ってまで呼び寄せる価値なんかない。それに、あいつが戻ってくるまでおれはうまくやっていた。そうだろう?」
楊偉民は冷ややかな笑みをおれに向けただけだった。おれの背中に緊張が走った。こんな時の楊偉民は腹の底でなにかを企んでいるのだ。
「なにかいいたいことがあるのかい?」
「いや。さっきもいったように、好きにやるがいい。だが、これはおまえの唯一のチャンスだ。しくじるなよ。おまえがしくじって、わしらに火の粉が降りかかるようなことがあれば——」
楊偉民はいったん口を閉じて、まだうつむいたままの天文に顔を向けた。沈痛な視線だった。
「ただではおかんぞ、健一。おまえはもうすでに天文を傷つけた。わしは天文を傷つける者は絶対に許さん。わしとかかわったことを一生後悔させてやる」
「後悔ならとっくにしてるさ」
楊偉民の声に負けない冷ややかさで答えた。
「とりあえず、おれが頼みたかったのはそういうことだ。明日の夜七時にここへ来てくれ」
楊偉民がうなずくのを待って、おれは天文の肩に手を置いた。
「天文、そういうことだ。明日は頼む」
「おれに触るな!」
天文はおれの手を撥《は》ねのけて叫んだ。
「あんたも爺さんも、二度とおれに触るな。いいな!?」
個室の入り口の方がざわめいた。天文の怒声に、従業員たちが集まってきていた。天文がなんでもないというように背後に手をかざした。その間も、おれと楊偉民の顔を交互に睨《ね》めつけていた。
「おれの馬鹿さかげんを償うために、明日はなんだってあんたのいうことを聞いてやるよ。だが、それだけだ。あんたとは縁を切る。絶対にだ」
「かまわない。だいたい、昔からおれたちの間に縁なんかなかったんだ、小文」
夏美の肘を取って立ち上がらせた。
「おれはおまえが嫌いだった。おまえはそれを知ってておれにまとわりついた。おれに嫌がらせがしたかったんだ。そうだろう?」
「違う」
天文の顔は真っ赤だった。
「おれはあんたが……兄さんが好きだった」
「なあ、あれは何年前だったかな……二丁目でおまえが若い男と手を繋いで歩いてるのを見たことがあるぜ。あのおカマ、おれに似てたかな?」
天文の手がさっとひらめいて、湯飲みが飛んできた。かつんと音がしておれの目の前でなにかが弾けた。一瞬置いて、するどい痛み。
「なにすんのよっ!?」
夏美が北京語で叫んだ。さっと身体を躍らせ、天文につかみかかろうとしていた。まるで、生まれたばかりの子供を殺された女虎のような剣幕だった。満身の力を左手に込めて、なんとか夏美を抱きよせた。
「だって、あいつ、健一に……」
夏美はおれに訴えた。瞳が爛々《らんらん》と輝いていた。
「いいんだ」
額に手を当てた。生暖かいものが掌に広がった。見た目は派手だが、たいした出血量じゃない。おれはその掌をジージャンになすりつけた。
顔を正面に向けると、震えながらつっ立っている天文が目に入った。楊偉民は平然さを装っていたが、おれの発言が与えたショックに気もそぞろなのがありありだった。二人を見ると痛みが遠のき、残酷な喜びが身内に溢れてきた。
「豚め」
天文がいった。
震える天文に微笑んでみせた。
「じゃあな、小文。明日は頼んだぜ。爺さんをちゃんとここに来させておくんだ。元成貴を信用させないとな。——それから、変な誤解を招かないように早く嫁をもらえ」
おれは夏美の腰に手を回し、個室を出た。だれもおれたちを呼び止めなかった。