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不夜城(49)
日期:2018-05-31 22:35  点击:301
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 崔虎の車は古ぼけたベンツだった。運転手のほかにボディガードが助手席に乗っていた。夏美を真ん中に挟む形で、おれと崔虎はバックシートに座っていた。ベンツは新宿通りを四谷《よつや》方面に向かっていた。
「いい女じゃねえか」
 崔虎がからかうような顔をおれに向けた。夏美は肩を強張らせて崔虎から身を遠ざけようと必死になっていた。おれの位置からでも、崔虎の白く細長い手が夏美の太股の上を這いまわっているのが見えた。おれはなにもいわなかった。黒星はまだおれの腰に差したままだったが、おれの腕と三対一という状況じゃ、勝負は目にみえている。
「どこで拾ったんだ?」
 崔虎は夏美の膝の上に身を乗りだし、おれの顔を覗きこんできた。右の肩で夏美の乳房を押し潰していた。拳を握り締め、答えた。
「呉富春の女だ。あいつを捕まえるために抑えたんだ」
「ほお、おまえの女じゃないってのか。エレベータから出てきたときには、てっきりそうだと思ったがな」
 崔虎は身体を元に戻した。
「でもよ、劉健一《リウジェンイー》、おまえの唇に口紅がついてるのはどういうわけだ?」
 動かなかった。ただ黙って窓の外の景色を見ていた。これぐらいのはったりにいちいちひっかかっていちゃ商売にならない。いまはそんなことより、なんだって崔虎が現れたのかを考えなきゃいけないときだ。
「ふん。おまえの女じゃないってなら、おれがいただいてもいいってことだな」
「明日以降ならな」
「どういうことだ」
「明日、元成貴に呉富春を引き渡す。そのときにこの女が必要なんだ」
「そこだよ、おれが知りてえのは」
 崔虎はいった。もう、夏美をいたぶるのはやめていた。
「ほんのちょい前、おまえは今にも死にそうな声でおれに手助けを求めてきた。それがよ、数時間後の今じゃ、楊偉民と周天文を交えてなにやらおっぱじめようとしてやがる。なにがあったか、知りたくなるじゃねえか」
「おれたちがあうってことはどこで知ったんだ?」
「なに、楊と周のやつを見張らせてたのさ。おまえが動くときはあの二人も動くだろうと思ってな。今日の夕方、周をつけてたやつがドジ踏みやがってよ、それで見張りを強化してたとこなんだ。ついてたぜ」
 崔虎の話しぶりには淀みがなかった。
「それで?」
 おれは訊いた。
「ぶちまけちまいな。呉富春はもう見つけちまったんだな。元成貴の野郎をどうするつもりだ?」
「どうもしない。呉富春をやつに渡す。それでおしまいだ」
「ふざけんなよ、おい」
 崔虎はまた身体をこっちに乗りだしてきた。街のイルミネーションに照らされた息苦しい空間の中で、崔虎の目はそこだけが場違いのように赤々と燃え上がっていた。
 その目をじっと見つめた。煙草が吸いたくなった。ポケットに手をのばしたが、煙草のパッケージは空だった。
「わかってんだろう。おれは気の長い方じゃねえんだ。このねえちゃんが嫌な思いをしないうちに吐いちまいな」
「その女はおれには関係ない」
「ふざけんなってんだろうが」
 崔虎はおれを攻撃目標にするのをやめ、夏美の顎に手をかけて強引に自分の方へ向かせた。
「なあ、ねえちゃん。薄情な野郎だと思わねえか、ん?」
「放してよ!」
「威勢がいいな。よし、おれの質問に答えたら放してやる。おまえは健一の女だ。そうだな?」
 夏美はおれの方を見ようとした。だが、崔虎が手に力を入れたのだろう。苦痛に顔をしかめ、視線を崔虎の顔に戻した。
「そうよ。わたしは健一の女よ。それがどうかした!?」
「何回やった?」
「なんですって?」
「健一とだ。何回やった。覚えてるだろうが」
 崔虎の、なにかに取り憑《つ》かれたかのような目が、下の方からじっと夏美をうかがっていた。夏美は気丈にも顎を掴《つか》まれたままその目を見返していた。だが、その抵抗も痛みのために目尻から涙がこぼれ落ちるのと同時に崩壊した。
「四回……」
「よかったか?」
 夏美は答えられなかった。崔虎の手は力が入りすぎて痙攣《けいれん》するように震えていた。崔虎の指に押さえられた夏美の顎は赤く変色し、いったん堰《せき》を切った涙は途切れることなく夏美の顔を濡らしていた。
「よかったかって聞いてるんだぜ!」
「よかったわよ! 健一は最高なんだから。あんたなんかめ[#「め」に傍点]じゃないわよ!!」
 夏美は叫び、涙でいっぱいの目を大きく見開いて、崔虎の病的な顔を睨みつけた。たいした女だ。
「へえ、そうかよ」
 崔虎は急に興味がなくなったという顔で夏美を解放し、シートの背凭《せもた》れに背中を預けた。
「おれなんかめじゃねえってよ、健一。どうする?」
 そのときには腹も固まっていた。夏美の肩に手を回し、空いた手で変色した顎をさすってやりながら、答えた。
「富春に元成貴を殺させる」
 崔虎がため息をもらした。満腹になったハイエナが漏らすようなため息だった。
「もう女には手を出さねえから、詳しく話せ」
 話してやった。元成貴がくたばれば、崔虎は確実に行動を起こす。そうなれば、歌舞伎町で上海と北京の戦争が勃発することになるだろう。どっちが勝つにしろ、おれにかまってる暇はなくなるはずだ。
「だいたいわかったが、まだ解《げ》せねえことがあるな。周の野郎はわかるが、なんだって楊の老いぼれまでおまえに手を貸すんだ?」
「あの爺さんはおれを元成貴に売った。その貸しを返してもらうだけだ」
「まったくよ、時代は変わってるってのに、老いぼれどもはどうにもならねえな。信義だの面子だの、そんなものがまだあると思ってやがる」
「そんなもの、昔からどこにもなかったんだ」
 おれがいうと、崔虎は嬉しそうに笑った。
「気が合うな、え、健一」
 それっきり、崔虎は口をつぐんだ。ベンツは内堀通りを左折し、九段に向かっていた。おれは夏美をしっかり抱きしめ、皇居の壕《ほり》を眺めた。かすかなエンジン音と夏美が鼻をすする音が車内に立ちこめるすべての音。夏美の目は憎悪に満ち満ちていた。その目はおれに崔虎を殺せと訴えていた。おれは小さくうなずいた。夏美にいわれるまでもない。おれの腰のど真ん中でも冷たい憎悪が燃え盛っていたのだ。
「おまえにそれほど度胸があるとは思わなかったよ」
 ベンツが靖国通りに入って再び新宿に鼻先を向けると、やっと崔虎が口を開いた。
「いい計画だ。嬉しくって小便をちびりそうだ。上海のやつらはのさばりすぎだ。そろそろ、おれたちにつき[#「つき」に傍点]がまわってきてもいい。だが、問題がある。呉富春とかいう馬鹿野郎が確実に元成貴を仕留めるって保証がねえ」
「それはおれも考えていたよ。頼みがある。ショットガンを調達できないか?」
「街のど真ん中でショットガンをぶっぱなすってか? 通行人が巻き添えを食うぞ」
「車に轢《ひ》かれて死ぬのも、銃の流れ弾にあたって死ぬのも同じ事故だ」
 おれはいった。自分で望んだとおり、綱のように冷たく固い声だった。
「いうじゃねえか。確かにそのとおりだ。いつだったかテレビのニュースでこの国は五十年の間戦争に関与してないってほざいてたが、この国の人間は馬鹿か目が見えないかのどっちかだな。もうずいぶん前から新宿じゃ戦争がおっぱじまってるってのによ。戦場にのこのこやってきて撃たれたって、そいつはだれのせいでもねえや」
 ベンツが赤信号にひっかかってとまった。隣の車線は家族乗りのホンダ。頭にピンクのリボンを巻き付けた子どもがウィンドゥに顔をへばりつけてこっちを見ていた。崔虎がそれに気づき、顔をくしゃくしゃにして手を振った。子どもが手を振り返してくると、崔虎の相好《そうごう》はさらに崩れた。その表情からは、たった今までの殺伐とした会話は微塵《みじん》もうかがえなかった。
「馬鹿みてえだと思うか?」
 子どもに愛想を振りまきながら崔虎がいった。おれはなにも答えなかった。もう、一年も前のことになる。崔虎を裏切ったやつがいた。崔虎はそいつとそいつの家族をとっつかまえた。裏切り者にはガキがいた。生まれたばかり。崔虎は裏切り者の目の前でその赤ん坊を殺した。有名な話だ。
「部下たちにもやめてくれっていわれてるんだが、どうにも子どもを見ると我慢できなくてな。可愛いもんだ」
 信号が青に変わった。おれたちのベンツは右折の車にひっかかってとまったままだったが、子どもを乗せたホンダは流れにスムーズに乗っていった。崔虎はホンダのテールランプを名残り惜しそうに見つめていたが、やがてくたびれたようにシートに身体を埋め、気怠《けだる》そうな声で話をつづけた。
「ちょうどいい、おれんとこに銃身をぶった切ったショットガンが一丁あるはずだ。持っていけ」
「弾丸は?」
「なんていうんだっけ? 九粒の、あのとんでもない代物だよ。アメリカで暴れてたやつがお近づきの印にってくれたやつだ」
 うなずいた。崔虎が話したのは鹿撃ち用のダブルオー・バック弾のことだろう。ショットガンに詳しいわけじゃないが、とんでもない殺傷能力を持った弾丸だってことは聞いていた。ボディガードといっしょに元成貴を吹き飛ばしてしまえるはずだ。銃身を詰めたショットガンにその弾丸なら、富春がいくら馬鹿でもしくじることはないだろう。
 話し合いはそれで終わりだった。崔虎はむすっとしたまま口を開く素振りも見せなかった。夏美は、いつのまにか眠っていた。
 
 ベンツは戸山にあるマンションの前で止まった。運転手が崔虎から鍵を受け取って、マンションの中に消えた。五分ほど待つと、運転手は紙袋を手に提げて戻ってきた。
「おれたちは明日……おっと、もう今日だったな。今日は手出しをしない。しっかりやれや。しくじったら、おれじゃなくて元成貴の野郎がおまえを許さねえぜ」
 助手席に座っていたボディガードが車を降り、崔虎の側のドアを開けた。
「わかってる」
「適当なところまで送らせてやる。あとは、自分の足でしっかり歩くんだな。まあ、そんないい女がいるんだ。無様なことはできねえだろうが」
 夏美はまだ眠っていた。ここまでタフだと、なにもいえなかった。
「ほんとにいい女だ。横取りしたくなっちまうぜ」
 崔虎の顔は笑っていたが、おれは気を抜いたりはしなかった。目はちっとも笑ってなかったからだ。
「そのうちな。おれがなにかをしなくても、おまえじゃその女は扱えねえよ。気がつくと肝を食われてるってやつだ。その後で、おれがゆっくりいただいてやるからよ」
 崔虎はそういってベンツから降りた。ドアがしまり、音もなくベンツが動き出すと、夏美がぱっと目を開けた。昔映画で見た復活した吸血鬼のように。
 夏美はおれの首に腕を巻きつけ、おれを抱きよせた。耳たぶに軽い痛みが走り——夏美が噛んだのだ——次の瞬間、生暖かい息が鼓膜を震わせた。
「あいつを殺して」
 夏美は囁《ささや》くような小声で、しかしはっきりとそういった。

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