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夏美は布団もかぶらずに熟睡していた。冷房のきいた室内はほどよい温度に保たれていた。ざっとシャワーを浴び、素っ裸のままでベッドに潜りこんだ。頭の芯に粘土の塊を押し込まれたような疲労感。睡魔が訪れる気配はなかった。
よく、枕が替わると眠れないというが、おれもそのくちだ。こんな商売を続けていながら、おれは〈カリビアン〉の上階の部屋以外では熟睡できたためしがない。
昔、流氓たちも恐れる殺し屋とチームを組まされたことがある。陳錦の差し金だった。台北で組の幹部を殺した馬鹿野郎が日本に逃げて潜伏していたのだ。その馬鹿野郎は恵比寿《えびす》の高級住宅街で息をひそめていた。貿易で成功した親戚を頼っていた。陳錦はすぐにおれを使うことを思いついた。台湾人が周りをうろつけば、すぐに馬鹿野郎が気づいて逃げ出してしまう。それに、取り澄ました住宅街に顔色の悪い台湾人はあまりにも場違いだった。おれだってそれほど変わりはなかったが、日本人ならどうってことはないのだ。おれは陳錦から預かった金で、馬鹿野郎の隠れているマンションの向かいの部屋を借り、そこでじっと見張る役についた。
殺し屋がやってきたのは、おれがそのマンションに張り付いて二日目のことだ。満面に笑みを湛えた小太りの中年男。前もって聞かされていたってそいつが殺し屋だとは信じられなかった。どこからどう見ても気のいい屋台の親父という感じだった。殺し屋は白天《パイティエン》と名乗った。
白天は昼間は無口だった。糸のように細い目をさらに細めておれの動作を見守るだけで一言も口を開かなかった。あまりに無口なので、口がきけないんじゃないかと思ったほどだ。
だが、夜になると白天は一変した。陽が落ち、夜の闇が忍び寄ってくると、糸のような目から眼球がぱっと迫《せ》り出してきて、いきなり別人のような顔つきになるのだ。そして、昼間の分を取り戻そうとでもするようにのべつまくなしにしゃべりつづけた。話の内容は殺しだ。白天は自分の殺しを細部にいたるまですべて覚えていた。それを、狂ったような顔でおれに話しつづける。最初のうちはおれも興味津々だった。表情と手振りが無気味だとはいえ、陳錦でさえ一目を置く殺し屋の手腕がどんなものかを知りたいという好奇心がおれの身体に漲《みなぎ》っていた。しかし、それは一晩ももたなかった。
白天は殺し屋なんかじゃなかった。ただの変態だった。殺し屋なら、いくら腕が立とうが修羅場を潜りぬけてきた流氓たちがそれほど恐れるわけがないのだ。白天が、自分たちには理解できない変態だからこそ、彼らは恐れた。おれはすぐそのことに気づいた。
白天はナイフ使いだった。身体には常に五本のナイフが隠されていた。そして、白天はナイフで他人の皮膚を切り裂くのがなによりも好きだった。眼窩《がんか》から飛び出した目を輝かせて白天は語った。ナイフの切っ先が自分にもたらしてくれる至福の境地を。ナイフの刃が他人の体内に潜りこんだ瞬間に得られる至高の快感を。その熱心さは、布教活動を続ける宗教屋でさえ足元にも及ばないようなものだった。おれは辟易《へきえき》し、そして白天を恐れた。白天がおれを切り刻みたがっているように思えた。おれは夜の間はなるべく白天の視線を避け、窓にへばりついて馬鹿野郎が隠れているマンションを見張ることに専念した。
四日目の夜。さすがのおれも三日三晩の徹夜がこたえ、白天に見張りを代わってもらってソファに倒れこんだ——仕事が終わったらすぐに出るつもりだったので布団やベッドなんてものはなかった。それこそあっという間もなくおれは眠りに引きずり込まれた。
目が覚めたのは首に圧迫感があったからだ。白天がおれの上に屈みこんでいた。荒い息をなんども繰り返していた。右手に握った細いシース・ナイフを刃を立てないようにしておれの首筋に押しあて、左手は自分の股間をまさぐっていた。手の中で赤黒く怒張した性器が視界の片隅にうつっていた。
おれが声をあげようとすると、白天はにたっと笑った。笑いながら、すぐに終わるから動くな、といった。こういうことはお手の物なんだ、と。おれはいわれたとおりにした。目にうつる光景は地獄を思い起こさせたが、実際に死ぬよりはましだった。なによりも恐怖で身体が麻痺《まひ》していた。指一本動かせそうになかった。
白天は少なくとも嘘つきじゃなかった。すぐにうっという声が漏れ、おれの腹の上に生暖かいものが落ちてきた。白天は身を起こすともう一度、にたりと笑った。そそくさと身支度を整え、バスルームを指差した。
おれは人形のような動作で立ち上がり、バスルームへ入った。濡れたシャツを脱ぎ捨てた。鏡にうつった首筋に赤い線が引かれていた。いった瞬間、白天の手元が狂ったのだ。だが、その血を見てもおれの心にはなにも浮かばなかった。白天に魂を抜き取られちまったようなものだ。おれは水で腹を洗った。パッケージごと放り出してあったヘインズのTシャツを着て居間に戻った。
白天は見張りの位置に戻っていた。窓の外に目を向けたまま、もうなにもしないから眠れといった。信じられるわけがなかった。ソファに身体を横たえたが、決して眠らなかった。三日後に、白天が馬鹿野郎をナイフの餌食《えじき》にして台湾へ帰るまで、一睡もしなかった。
白天が台湾へ帰った後も悪夢は続いた。なにを血迷ったのか、白天はおれに手紙を送ってくるようになったのだ。殺しの詳細をつづった手紙を。おれは北京語の読み書きの勉強を兼ねながらその手紙を読んだ。直接話で聞くと怖気《おぞけ》をふるうだけのものも、文章になると違った側面があった。そこにはある種の真実が描かれていた。おれは手紙の内容を忌避しながらも、行間に漂う官能の微かなうねりに身を委ねる楽しみを知った。妄想の中で、おれは白天の代わりに人間たちを切り刻んでいた。おれと白天にはほとんど違いはなかった。白天とおれがいる世界を隔てるものなんて、薄皮一枚ほどのものでしかなかった。白天は選ばれ、おれは選ばれなかった。
あるときを境に、白天からの手紙はぱたっとやんだ。白天は台北でドジを踏み、刑務所に送られたのだ。そこで白天の変態さかげんを知っていた囚人連中に集団リンチを受けて死んだ。あっけない死に様だったらしい。それを聞いたとき、死ぬ瞬間白天はなにを見たのか知りたいと痛切に思った。かなわぬ願いだったが。
白天とであって以来、おれは自分のねぐら以外で熟睡できたためしがない。酒を飲んで女とホテルにしけこんでも頭の片隅が常に目覚めている。その片隅さえ寝込んでしまったときには夢を見る。白天の夢だ。白天がおれを切り刻む。おれはわくわくしながらそれを待っている。悪夢は決しておれを解放しようとはしなかった。おれは死に魅入られつつあった。それに気づいて無理に眠るのをやめた。最近じゃ、眠れなくて辛いと思うこともなくなった。何度も途切れる浅い眠りで充分なのだ。
だから、おれはベッドの上で目を開いていた。ぴくりとも動かずに眠りつづける夏美を見ていた。夏美をナイフで切り刻んだら、いったいどんな気持ちがするのだろうと考えながら。あるいは、夏美に切り刻まれたら、いったいどんな気持ちがするだろうと考えながら。