56
おれたちは秀賢の部屋を出た。
「健一、あの女とやったの?」
「馬鹿いうな」
おれは夏美のたわごとは取り合わなかった。
「おまえはさっきの喫茶店に戻れ」
「健一は?」
「おれは富春にあってくる」
夏美に飯田橋のマンションの電話番号を教えた。
「きっかり一時間後にここに電話してくれ。富春をひっかけなきゃならない。どうすればいいか、わかるか?」
夏美は当たり前だというようにうなずいた。
「任せてよ。富春を騙すのなんて、簡単なんだから」
「秀紅といっしょに行動してるように思わせるんだ。元成貴に追われて逃げ回ってるが、とりあえず無事だって感じで。元成貴を殺っちまえばすぐにでもおまえにあえると思わせてやれ」
夏美はさっきより大きくうなずいた。
「後で迎えにくる。退屈だろうが、それまで喫茶店を動かないでくれ」
おれはちょうど通りかかったタクシーに手をあげた。
「じゃ、後でな」
タクシーに乗り込んだときには、夏美はもう喫茶店に向かって歩きだしていた。
タクシーをまず曙橋に向かわせた。フジテレビ通りの路上で、屋台で点心を売っている男がいる。屋台はまだやっていた。タクシーをおり、屋台へ近づいた。
「もう、おしまいよ」
屋台を片付けていた男がイントネーションがおかしい日本語でいった。男は中国系のマレーシア人だ。おれは阿明《アミン》という呼び名しか知らない。元は六本木の有名な香港レストランで点心を作っていた。そこを追いだされて屋台を引きはじめた。阿明のつくる点心は抜群にうまいが、それ以外にも使いみちがある男なのだ。
「別の商売だ」
北京語でいってやると、阿明は顔を上げた。
「健一さん」
「まっさらな排帯電話がいる。今すぐ」
「はいよ」
阿明は大きな笑顔を浮かべて、腰を屈めた。なにやらごそごそとやっていたが、立ち上がった時には、両手に五種類ほどの携帯電話が握られていた。
「ドコモ、イドー、PHSなんでもあるよ。どれがいい?」
一瞬考えてから、ドコモの携帯を手に取った。肝心な時に電波が届かないんじゃ話にならない。
「ドコモね、二十万だよ」
「ふざけるな」
「健一さん、いま、マズイことになってるんだろう? ふっかけられるときには高く売る。商売のコツだよ」
「ふっかけすぎだ」
「嫌なら買わなきゃいいじゃないか」
しばらく阿明の顔を睨みつけた。阿明はこれっぽっちも怯まなかった。勝ち目はありそうにない。中国人の商売感覚を呪いながら、二十万を渡してやった。
「使い終わったら買い取るからね、健一さん」
携帯の電話番号が書かれた紙をおれに渡しながら、阿明がいった。にやついた笑いが顔にへばりついていた。その目には、おれは死人として映っているのだ。
もう一度タクシーを掴まえ、今度こそ飯田橋に向かった。時間が早いせいか、道路はそれほど混んじゃいなかった。タクシーは外堀通りを通ってあっという間に飯田橋駅へ辿《たど》りついた。駅前でタクシーを降り、周りに注意しながらマンションへ急いだ。おれに目をとめるやつは誰もいなかった。
富春は眠りこけていた。ベッドは使わず床の上に死体のように転がっていた。頭の上の方に二丁の黒星が無造作に投げ出されているのと、足元に散らばったコンビニの弁当の箱が死体としてのリアリティを強調していた。
「起きろ」
北京語でいって、富春の肩を蹴飛ばした。富春はバネ仕掛けの人形みたいに飛び起きた。手で黒星を探し、焦点の定まらない目でおれを見あげた。すぐに闖入者《ちんにゅうしゃ》がおれだと気づき、照れたような笑みをざらついた顔に張りつけた。
「おどかすなよ。あぶなく撃つところだったぜ」
「起きたばかりのおまえじゃ、目の前に鯨がいたって当たらないさ」
だいいち、富春はまだ銃を握ってさえいなかった。おかしなものだ。おれの知ってる富春は腕っ節にものをいわせることしかできなかった。考える前に拳が飛んでいる——そんな男だったのだ。それがいったん銃を手にした途端、殴りかかるより前に銃を探すようになった。そのうち、銃を探す前におれになんとかしてくれと泣きついてくるようになるだろう。生きていればの話だが。
床に腰を下ろして煙草に火をつけた。富春の手が伸びてきた。おれは煙草をパッケージごと放り投げてやった。
「それで、どうなってる?」
富春は煙草の煙を目で追いながらいった。
「計画がうまくいってれば、いまごろおまえの女は無事逃げ出してるはずだ」
「ほんとうか?」
富春は身を乗りだしてきた。こめかみの血管が浮き出し、血走った眼球がせり出してきていた。荒くなった息が煙草の灰をそこら中にまき散らしていた。
「もうすぐ連絡があるはずだ。安心しろよ」
「ありがてぇ。やっぱり、おまえに頼ったのは正解だった」
「問題は元成貴だ。女が逃げ出したと知ったら、あいつは目の色を変えて追いかけるだろう」
「ぶっ殺してやるよ。どっちにしろ名古屋にはうんざりしてたんだ。あいつをバラして、昔みたいに歌舞伎町で商売をしてやる」
「ああ、昔みたいにな」
相槌を打った。代々木公園で富春はおれに名古屋へ行こうと誘った。そんなことはもうすっかり忘れ去ってる。こういうところはちっとも変わっていなかった。
おれたちは無言で煙草を吸った。富春の顔が妙に和んでいるのが目障りだった。
電話が鳴った。煙草の吸いさしをキッチンの流しに放り込んで受話器を取った。
「はい?」
北京語でいった。
「わたし」
夏美だった。おれはちらりと富春を振り返り、小さくうなずいてみせた。
「うまくいったんだな? 怪我は?……そうか、で、元成貴は?」
おれのすぐ後ろで富春がじっと息を殺しているのがわかった。
「よし、いま富春に代わる。彼女の声を聞かせてやってくれ」
受話器を差し出すと、富春は飢えた犬が骨にかぶりつくようにひったくった。
「小蓮! 小蓮か!? 無事なのか!?」
受話器を握る富春の関節が白くなっていた。
「ああ、ああ。わかってる。おれが仇《かたき》を取ってやる。心配するな。あの豚野郎は必ず殺してやる」
夏美はうまくやっているようだった。おれは静かに富春の背後にまわった。腰に差した黒星の銃把を握り、セイフティを解除していつでも抜けるようにしておいた。夏美がしくじって富春が疑念を抱いたら、即座に撃ち殺すつもりだった。心臓が皮膚を突き破って飛び出してきそうなぐらいに躍っていた。突如として湧き出てきた汗のせいで、シャツが肌にへばりついていた。
「ああ、わかった。健一に伝えりゃいいんだな。……大丈夫だ。おれを信じろって。必ずおまえを幸せにしてやる。……ああ、後でな。元成貴をぶっ殺したら、死ぬほど可愛がってやる」
富春が受話器を置いた。黒星のセイフティを素速くロックし、銃把から汗まみれの手を離した。
「健一、元成貴はどこにいる!?」
「慌てるなよ」
富春の脇に転がっている煙草のパッケージを拾い上げた。ことさらゆっくりした動作で一本抜き出し、火をつけた。
「おまえの女が監禁されてる場所を探すだけで昨日は手一杯だったんだ。黄秀紅が手を貸してくれなかったら、なにもわからなかっただろうよ。元成貴はその辺は抜かりがない」
「そんなことはわかってるって。おまえと黄秀紅って女にはいくら感謝しても足りねえ。だがな、健一、小蓮は元成貴の野郎に追われてるらしいんだ。あの跳ねっ返りの小蓮がすっかり脅えてた。元成貴を早くぶっ殺さねえとならねえんだよ」
肩をすくめた。富春から顔を背け、煙草を吸った。
「なんだよ。なにか気に食わねえのか?」
「おまえ、おれを信じるか?」
「当たり前じゃねえか」
おれはここでやっと富春を見た。
「よし、だったら段取りを教えてやる。おれは元成貴に電話して、おまえを引き渡すって話をつける」
富春の眉が跳ねあがった。だが、富春はなにもいわず、黙っておれの続きを待った。
「もちろん、元成貴におまえを渡してやる気はさらさらない。裏があるんだ。楊偉民と周天文を覚えてるだろう?」
「ああ」
「あいつらと話をつけた。元成貴を追っ払おうってことになったんだ。おれがおまえを引き渡すといっても、元成貴は簡単に信じたりはしないだろう。裏があるって勘繰る。実際、裏はあるんだ。だから、おれは楊偉民と周天文を立会人に指定する。天文の店でおまえを引き渡すってな。いくら元成貴でも、楊偉民と堅気の天文がいる場所にぞろぞろとボディガードを連れてくるわけにはいかない。それに、だ。楊偉民は食えない爺さんだが、昔気質の人間だから自分の面子をなによりも大切にする。その楊偉民が面子を潰してまで自分をはめるはずがないと元成貴は考えるだろう。そこが狙い目だ」
言葉を切った。富春は餌を目の前にしておあずけをくわされている小犬のようにじっとおれの口元を見つめていた。
「それに、おれたちはついている。今日は六合彩《リウホーツァイ》の抽選日だ。ほとんどの流氓が集金に駆けずり回ってる。元成貴が連れてこれるのはせいぜい、二、三人ってとこだな。おまえは待ち伏せして、やつらにショットガンをぶっ放すんだ。天文の店は覚えてるか?」
「ああ」
「あのビルの前に、サブナードへはいる階段がある。おまえはそこにいるんだ」
おれは阿明から買った携帯電話を取りだし、富春に手渡した。
「階段の出口のすぐ先が横断歩道だ。歩きにしろ車にしろ、元成貴たちはそこらへんに現れる。おれが見張るよ。元成貴が見えたらその携帯電話で状況を知らせてやる。どうだ?」
「よくわかんねえけどよ、元成貴は本当に来るのか? あいつは蛇みたいに狡賢《ずるがしこ》いぜ」
「来るさ。あいつが蛇みたいだったのは昔のことだ。今じゃ、力を持ちすぎて不死身だと思ってるんだろう。自分を狙うやつはおまえみたいな馬鹿だけだと思い込んでる」
富春の目がぎろりと動いた。
「おまえもおれのことを馬鹿だと思ってるのか?」
「おまえはおれが知ってる中でも一、二を争う馬鹿野郎さ」
富春のねっとりした視線を受けとめたまま答えた。富春を御すには絶対に弱みを見せちゃいけない。いつだって自信満々だってふうを装うのだ。
富春がふと視線を外した。鼻から口にかけての線が強張ってはいたが、その姿はまるで若いやつに居場所を奪われた年老いた犬だ。富春のそんな表情を、おれは初めて見た。
「まあ、おまえにかかっちゃ、だれだって馬鹿野郎だよな」
富春はそうつぶやき、煙草を口にくわえた。ライターで煙草に火をつけ、おれの方を見たときには、もう弱気な表情は消えていた。
「どっちにしろよ、考えるのはおまえの役目だ。おれはおまえのいうとおりにするさ。それで、ショットガンてのはどこにあるんだ?」
「サンパーク・ビルってのがあるだろう?」
「ディスカウント屋の入ってるビルだな」
「そこの前にでかい浮浪者がいるはずだ。そいつが持ってる。健一の使いだっていえば、渡してくれる手はずになっている」
「でかいって、おれよりでかいのか?」
富春は煙草を噛み締めた。フィルターにきつく歯の痕《あと》がついていた。
「ちょっとばかし向こうの方がでかいな」
次郎の体格を思い出しながらいった。富春は面白くもなさそうな顔で舌打ちをし、煙草の灰を床に落とした。
「なんでそんなやつが乞食をしてるんだよ」
「乞食じゃない。浮浪者だ」
「同じだぜ……それで、健一の使いだってのは、日本語でいわなきゃだめなのか?」
「いや、ゆっくり喋れば北京語でも通じる」
「時間は?」
「そいつは六時からいることになってる。六時半までには受け取っておけ」
「わかった」
「ショットガンは二連発だ。二発ともぶっ放せ。手下もろとも吹き飛ばすんだ」
「わかってるって」
「おまえがしくじったら、おれたちは終わりだ」
「うるせえな。おれが今までドジを踏んだことがあるかよ」
踏みっぱなしだといってやりたかったが、こらえた。富春がしくじれば、恐らく崔虎の手のやつらが元成貴に引導を渡してくれるに決まっている。
「よし。全部終わったら、おとめ山公園で落ち合おう。おれはおまえの女を拾って連れていく」
「おとめ山公園って、高田馬場から目白に行く間にあるあの公園か?」
「そうだ。何度か仕事で使ったことがあるだろう」
わざとらしく腕時計を覗きこんで立ち上がった。
「おれはまだいろいろと動かなきゃならない。連絡を入れるにしてもあと一回ぐらいのもんだろう。段取りを忘れるなよ。その黒星じゃなく、必ずショットガンを使うんだ」
「わかってるって。小蓮を取り戻せるかどうかの瀬戸際なんだ。慎重にやるよ、健一」
富春は笑った。頭の中に薔薇色《ばらいろ》の未来ってやつが広がっているのだろう。どこか子供じみて憎めない笑顔だった。間抜けなカモってのは、みんな同じだ。一歩先が底無しの泥沼だってことに気づかずに、笑みを浮かべたまま沈んでいく。
「じゃあな」
踵を返して玄関に向かった。富春の笑顔が背中に張り付いてるような気がして、思わず振り返った。富春は難しい顔をして黒星を弄んでいた。おれの存在なんてきれいさっぱり忘れてしまったとでもいうような表情だった。おれはドアを開け、部屋を出た。