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不夜城(57)
日期:2018-05-31 22:40  点击:370
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 中央線と丸ノ内線を乗り継ぎ、四谷三丁目で降りた。靖国通りを新宿に向かう途中で、なにか嫌な感じがした。昼前の靖国通りにはこれといって気になるものがあるわけじゃなかった。立ち止まったり、急に振り返ったりしてみたが、尾行の気配もない。それでも、嫌な感じは消えなかった。
 これまでのところ、おれはなんとかやってきた。時間に追われているせいでかなりいいかげんに動いていたが、運に恵まれていた。そろそろ、なにかが起こりはじめたとしてもちっとも不思議じゃない。おれの勘なんて滅多に当たったためしはないが、用心しすぎたって死ぬわけでもない。
 四丁目交差点のふたつ手前の路地を左に折れ、パチンコ屋に入った。客は四分の入りだった。モーニング設定のない台の並ぶ列には客は一人も居なかった。適当に玉を弾きながらぴったり一万円分を玉に替え、それを計量器でレシートに換えて景品交換所へ持っていった。安物のサングラスと黄色地の派手なプリントTシャツ、ヤクルト・スワローズのベイスボール・キャップ、なにかのテレビ番組のロゴが入ったぺらぺらのスタッフ・ジャンパーを手に入れ、トイレで着替えた。鏡でチェックしてみたが、生地の薄いジャンパーだと、腰に差した黒星の形が丸見えだった。それまで着ていたTシャツで銃を丹念に拭った。それから、Gジャンにシャツと銃をくるみ、ゴミ箱に捨てた。もう、物を惜しんでる暇はない。
 パチンコ屋を出、靖国通りを三丁目へ戻り、信号を渡ってもう一度四丁目へ向かった。交差点の信号待ちを利用して夏美が待っている喫茶店の周囲をざっと観察したが、不審な点はなにもなかった。信号が青になった。おれは人の波に紛れるように横断歩道を渡り、喫茶店の前を通りすぎた。
 ガラス張りの喫茶店は中まで見通すことができた。夏美はレジからそう遠くない窓際の四人掛けの席に座っていた。眠そうに目をしばたたかせながら、外の景色を漫然と眺めていた。おれには気づかなかった。夏美のほかに客は五組いた。営業中のサラリーマンらしいのが二組、水商売とその情夫らしきのが一組、学生風が二組。
 そのまま喫茶店を通りすぎた。新宿御苑の駅に降り、公衆電話で夏美を呼び出した。
「おれだ。店を出て新宿御苑の駅に向かえ。さっき、秀紅の弟の部屋へ向かったのと同じ方向だ」
「わかった。その後は?」
 夏美は如才なく応じた。秘書にしたらさぞかし優秀になるだろう。
「新宿でおりて黄色い中央線の中野か三鷹行きに乗り換えろ。後ろの方にだ。東中野まで行くんだ。改札を出たら左に進め。階段をおりたら、左手の方にうらぶれた飲み屋が並んだ路地がある。そこに入るんだ」
「黄色の中央線。東中野でおりる。改札を出たら左」
「後であおう」
 おれは電話を切った。販売機で切符を買い、改札を抜けた。階段の手前にあるゴミ箱を漁ってスポーツ新聞を拾い上げた。ホームの途中まで進み、キオスクの裏手の壁によりかかって新聞を広げた。ベンチや案内板が邪魔だが、階段をおりてくる人間をチェックするのに支障はなかった。競輪欄に目を向けながら、待った。
 夏美。五分ほどで現れた。自信に満ちた足取りで階段をおりてきた。確実に階段のステップをとらえる長い脚が夏美の存在感を引き立たせていた。夏美は左右にチラッと視線を走らせ、電車の進行方向を確認すると、おれの方へ大股で近づいてきた。すれ違うときにおれに視線を飛ばしてきたが、表情には毛ほどの変化もなかった。
 水商売とヒモが階段をおりてきた。女の方はローズピンクのタンクトップに白いサマーパンツ、足元はサンダル、手に小さなポーチを持っていた。ウェイヴのかかった長い髪の毛を後頭部の方で巻き上げ、ファウンデーションと口紅を塗っただけの細長い顔に薄く色のついたサングラスをかけていた。くちゃくちゃとガムを噛んでいる姿は、太陽の光が象徴するすべてのものに対する嫌悪感で溢れていた。
 ヒモの方は、薄汚れたスニーカーに色あせたジーンズ、青地に赤や黄色の花をプリントしたアロハ。どこといって特徴のない顔だが、鼻が左右に潰れていた。
 二人とも日本人とも中国人ともつかない顔立ちだった。それをいうなら、朝鮮の人間だっていうこともありえた。
 二人はホームの端の方で立ち止まった。ヒモがひょいと首を傾げるようにして夏美の位置を確認した。
 決まりだ。おれも腹を据えなきゃならない。煙草が無性に吸いたかった。
 蒸し暑い空気を攪拌《かくはん》するように荻窪行きの電車が入ってきた。半袖姿のサラリーマンやOLがドアから吐き出され、さらにホームの空気を濁らせた。
 夏美が電車に乗った。それを確認して女とヒモも最後尾の車両に乗りこんだ。おれは新聞を畳み、発車のベルが鳴り出すのを待って電車に飛び込んだ。閉じたドアに背をあずけ、再び新聞を開いた。車内は満員じゃなけりゃ、がらがらでもないといった程度の混雑だった。隣の車両の真ん中あたりでつり革につかまっている夏美の姿が確認できた。
 すぐに、女とヒモが乗客をかき分けながらこっちへ向かってくるのが見えた。ヒモの方はさり気なさを装うのをやめていた。首を前に突き出し、目を細めて夏美の姿を探していた。おれの前を通り過ぎ、隣の車両との連結部へと続くドアへ手をかけたところでヒモは夏美に気づいた。
 ヒモは後ろに手を突き出して女を止めた。もう一度夏美の姿を確認してから振り返り、女の耳に何事かを囁いた。騒音のせいで言葉は聞き取れなかったが、口の動きからして日本語じゃなさそうだった。女が唇を尖らせて頭を巡らせた。視線がきつい。
 おれは新聞に視線を戻した。恐らく、夏美が囮《おとり》じゃないかと疑っているのだ。そのとおりなのだが、二人には頭も経験も不足していた。土台、たった二人で一人の人間を尾行しょうとする方が無理なのだ。二人に夏美を追えと命令した人間も、かなり慌てていたに違いない。
 電車のスピードが落ちた。ヒモが前の車両を覗きこんだ。電車が完全にとまり、夏美になんの動きもないと知るとほっとしたように首を振った。そのヒモに、女はどこか馬鹿にしたような顔を向けていた。サングラスに隠された目は、もっときついなにかを物語っているのかもしれない。
 どう考えても二人の顔は記憶になかった。おれだって出入りの激しい新宿にいる中国人すべての顔を覚えてるわけじゃない。それでも、自分にかかわってきそうな人間は別だ。おれの脳味噌はほとんどの流氓の顔がインプットされているし、流氓にかかわりのある人間だって例外じゃない。情報はいつだって金になるのだ。だが、二人はおれの知らない顔だった——つまり、おれの知らない誰か、あるいはおれが予想もしていない誰かが動いてるってことだ。おれの身体は汗まみれだったが、それは冷房の効いていない車内の空気のせいだけじゃなかった。
 客がどっと降り、ちょぼちょぼと乗ってきた。女が空いた座席に腰を下ろした。ヒモは女の前のつり革にぶら下がり、落ち着きのない視線を何度も前の車両に向けた。
 電車は動きだしたと思った途端にスピードをゆるめた。おれは新聞を畳んでドアに向き直った。暗いトンネルの端の方に薄ぼやけた光が生じ一気に広がった。ドアが開くと同時にホームへ身体を滑らせた。さっと後ろを振り向き、まだ二人が電車から降りていないのを確認して、階段に向かって走った。人を突き飛ばしながら全力でJRの十四番ホームを目指した。階段を登りきったときには息が切れていたが、発車寸前の電車に飛び乗ることができた。少しずつスピードを上げる電車からホームを眺めたが、夏美も、尾けてくる二人の姿もまだ見えなかった。
 
 東中野駅の左斜め前には、小便横丁を思わせる、小さな飲み屋が集まった一画がある。おれはその中の一軒の鍵を開けて中へ入った。〈貞さん亭〉という一杯飲み屋で、山岡貞男という六十に手が届きそうな日本人が経営している店だ。
 山岡貞男は間違って〈カリビアン〉へ入ってきた。おれが買い取る前の店のママとかなり昔にいい仲だったらしい。喧嘩《けんか》別れをやらかして数十年、なんとなく懐かしくなって立ち寄ったという口だったのだが、山岡貞男はなぜか志郎を気に入って、月に一度は顔を出すようになった。志郎の受け売りを丸呑みにしてラテン・ミュージックを肴《さかな》に酒を飲む山岡は、店に出入りするおカマに妙に評判が良かった。そのせいじゃないが、おれはまっとうな日本人の山岡が店に出入りすることにとやかく口出しはしなかった。
 その山岡の父親が死んだ。山岡の田舎は熊本だった。山岡はおれに志郎を一週間ほど貸してくれないかといってきた。家族係累はすべて死に絶え、父ひとり子ひとりの親子だったらしい。せめて一週間は父親と一緒にいたいのだということだった。おれに否やはなかった。ちょうどおれも暇な時期だったのだ。志郎がいなくても〈カリビアン〉なんかおれひとりでも充分にやっていける。だが、志郎には食い物がつくれなかった。それで、おれが〈貞さん亭〉に行くことになった。おれは少なくとも簡単な中華料理ならつくることができた。慣れない仕事でずいぶん辛い思いをしたが、それなりの見返りはあった。山岡はおれから鍵を取り戻そうとはしなかったのだ。昼間なら好きに使ってくれ、と。
 もちろん、これまでおれは〈貞さん亭〉を使おうなんて思ったこともない。堅気を巻き込んだらろくでもないことになるのが落ちだからだ。だが、おれは鍵を返したりはしなかった。おれのような人間は、保険をたくさんかけておくものなのだ。
 店の中はおれが一週間働いていたころとほとんど変わっちゃいなかった。おれは明かりをつけ狭いカウンターの中へ入った。まな板の上に並べられた包丁類の中からプティナイフを拾いあげた。七センチほどのステンレスの刃がきらりと光った。これで充分だった。持っていた新聞の一ページを引き裂いて刃をくるみ、ジャンパーの袖に差し込んだ。それから手が触れたところをジャンパーの裾《すそ》で丁寧に拭いて店を出た。路地に積み上げられていた空のビールケースを持ち出して腰を下ろした。新聞を広げ、再び待った。
 路地に人影はなかった。焼けつくような日差しがアスファルトにこびりついた小便や反吐《へど》の匂いをじりじりと焙《あぶ》っているだけだ。小便横丁に似てはいるが、ここは新宿じゃない。ほんのちょっとしか距離は離れていないが、ここらには昼間から飲み屋に入り浸って酒をあおる人種は存在できない。
 駅を電車が通過する低い音が足元からわきおこってきた。息を深く吸い込んだ。新聞を持つ手が震えていた。煙草を取りだし、くわえた。火をつけようとしたときに、路地の向こうから影がのび、夏美が姿を現した。
 夏美は問いかけるような視線をおれに向けてきた。顎《あご》をかすかに動かし、後ろからだれかが来ていることを告げる。おれが新聞に目を向けたまま答えずにいると、夏美は大股でおれの前を通りすぎていった。
 夏美が四、五メートルほど進んだところで二人が現れた。ヒモが険しい視線を向けてきたが、おれはなにも気づかずに新聞を読みふけっている真似をしつづけた。
 夏美が路地の向こうに姿を消した。それだけで、ヒモの頭からはおれの存在が消えうせた。ヒモは女の手を引き、はやる足取りでおれの前を通り過ぎようとした。おれは足を突きだしてその足を引っ掛けた。
 ヒモは両手を前に突き出してアスファルトに転がった。おれはプティナイフを抜き出しながら立ち上がり、ヒモの脇腹を思いきり蹴った。それから口を開けて叫ぼうとする女の手を引いて抱きよせ、左手で口を覆ってナイフを喉元に突きつけた。
「駐ぐな。殺すぞ」
 北京語で女にいいながら、もう一度ヒモの脇腹を蹴った。ヒモは身体を丸めて逃げようとした。口からはくぐもった呻《うめ》きが漏れてくるだけだ。逃がさなかった。もう一度蹴った。
 路地の向こうに消えた夏美が戻ってきた。顔が引きつっていた。
「こっちへ」
 声を抑えて叫んだ。叫びながらヒモを蹴りつづけた。夏美が駆け寄ってきた。おれは女を突き飛ばし、夏美にナイフを渡した。
「見張ってろ。叫ぼうとしたり逃げようとしたらすぐに刺せ」
 夏美にも北京語でいった。女の顔が蒼ざめた。北京語を完璧《かんぺき》に理解しているのだ。夏美はうなずいた。眉間に深い皺ができていた。
 おれはヒモに向き直った。ヒモは脇腹を抱えてうずくまっていた。その襟をつかみ、強引に引きずり起こした。店の引き戸を開き、中に引きずり込んだ。
「夏美」
 外に声をかけながら、ヒモの腹に膝を叩きつけた。ヒモは胃液を吐きながらコンクリートの床をのたうちまわった。
 夏美が女にナイフをつきつけながら入ってきた。夏美はドアを閉めた。それだけで、店内は息苦しいほどになった。
「だれに頼まれた?」
 床に転がったヒモを立たせた。
「な、なんだってんだよ」
 ヒモは顔をしかめながらとぼけた。その顔に額を叩きつけた。ごつんと鈍い音がしてヒモが腰から崩れ落ちた。最初から潰れていた鼻がさらにひしゃげ真っ赤な血を噴き出していた。その血を見た瞬間、背中の肌がぞくりと粟立《あわだ》った。
「だれに頼まれた」
 おれの声は震えていた。はっきりそれとわかるほどに。
 ヒモは左手を地面につき、右手で鼻を押さえたまま首を振った。その顔を蹴った。ヒモの顔がかくんとのけぞり、血を撒き散らしながら真後ろに倒れた。
「だれに頼まれた。いえ」
 ヒモは動かなかった。おれは屈みこみ、ヒモの肩をゆさぶった。ヒモは気を失っていた。前歯が二、三本欠け、鼻が完全に陥没していた。やりすぎたのだ。ふだん、暴力に慣れていないとこういうことになる。
 夏美と女に顔を向けた。女は脅えきった目を夏美とおれに交互に向けた。おれの腹の中になにかが生じていた。飢えた猫が爪をたてて暴れまわってるようだった。
「だれに頼まれた?」
 おれはゆっくり足を踏み出した。女の目が大きく見開かれた。薄暗い照明に照らされた顔は、ホラー映画の中の化け物に出くわした女そのものだった。
「いえ」
 女は首を振った。
「わたし、なんにも知らない。あの人が……」
 女の頬を張った。乾いた音がして女の顔が弾けた。
「だれに、頼まれた?」
 女は頬を押さえてしゃくりあげていた。おれに顔を向けるとまた殴られると思っているようだった。女の髪を掴んだ。強引にこっちを向かせ、髪を掴んだまま頬を張った。
「やめて!!」
「だれに頼まれた」
「…………」
「いっちゃいなさいよ。あんた、殺されるわよ」
 夏美がおれと女の間に割って入った。ナイフをおれに押しつけ、女の両手首を掴んで顔を覗きこんだ。
「嘘じゃないんだから。あんたの男を殴るところ見たでしょ。この人、女だからって容赦しないのよ」
 女は惚《ほう》けたような顔で夏美を見つめた。それからおれの顔を見、諦めたようにうなだれた。
「葉暁丹《イェシァオダン》」
 震える声で女は答えた。おれの身体から一気に血の気が引いた。腹の中で暴れていた猫も、どこかへ消えてしまった。
 葉暁丹というのは、歌舞伎町の数店のパチンコ屋を経営している老いた台湾人だ。もう、九十近い年になっているはずだった。あまり表には出てこないし、税金をごまかしているほかにはあくどいことはしていない——だからといって堅気とはいいかねる——が、年に一度、必ず楊偉民と一緒に食事をする。楊偉民の父親の代から付き合いのあったという古狸で、しこたま金を溜めこんでいる。楊偉民が歌舞伎町に君臨できたのも、葉暁丹の金を自由に使うことができたからだ。
 おれも一度だけ楊偉民と葉暁丹の会食に相伴させてもらったことがある。それまで食ったこともないようなご馳走が出たはずだが、味わってる余裕なんかはなかった。食事の間中、葉暁丹は見透かすような視線をおれに向けつづけていた。そして、冷たい声でぽつりといったのだ。
「半々なんかをどうするのだ、偉民」
 と。楊偉民はそれに対してなにも答えなかったが、葉暁丹の冷たい声はおれの耳にこびりついた。
 その葉暁丹が動いている——楊偉民の肝いりだ。天文のせいで表立って動けなくなった楊偉民が、葉暁丹に話を持ち掛けたのだろう。なんにしろ、おれにとっちゃいい報せじゃない。楊偉民はかんかんに怒っているはずなのだ。天文を巻き込んだおれを、絶対に許したりはしないだろう。葉暁丹を動かしたことがそれを物語っていた。
「葉暁丹が直接おまえたちに命令したってのか」
 自分でもうんざりするほど小さな声だった。おれの変調に気づいて夏美が振り返り、不思議そうに小首をかしげた。
「うちの人、葉|先生《シェンション》に借金があるんです」
 それでわかるだろうというように女が答えた。それで日本に来てまだ日が浅いということがわかった。おれが顔を知らなくても無理はない。日本に腰を落ち着けた中国系の人間なら、だれだって葉暁丹に金を借りる愚かさを知っている。文字どおり尻の毛まで抜かれるのだ。
 葉暁丹は見てくれはくたばりかけたじじいだ。パチンコ屋以外にはほとんどなにもせず、荒事を厭わない手下がいるわけでもない。ただ、気が遠くなりそうな額の金を持ち、その使い方を熟知している。
 これは聞いた話だが、ある男が葉暁丹に金を借りたままパンクした。男は夜逃げを企んだが、葉暁丹の動きの方がはやかった。だれかがチクったのだ——おれは楊偉民だと踏んでるが。葉暁丹は台湾の流氓に命じて男と男の家族をかっさらった。流氓だって金で動いている。葉暁丹の頼みをきけば、楽に大金が転がり込んでくるのだ。相手が尊大で傲慢《ごうまん》なだけのじじいであったとしても、手足となってがむしゃらに働く。
 男が葉暁丹から借りたのは一千万ほどだ。おれたちにとっちゃ大金だが、葉暁丹には雀の涙にもならない。それでも、葉暁丹は男を許さなかった。男に自分の手で家族を殺させ、その肉を食らわせたのだ。
 おれにその話を聞かせてくれた流氓は心の底からブルっていた。葉暁丹には逆らっちゃいけない。それどころか、近づいたっていけない。葉暁丹は生ける災厄なのだ、と。
 年のせいか、葉暁丹はここ数年自宅に引き籠ったまま滅多に表には出てこない。もっとも、その前から葉暁丹は基本的には自分の金にしか興味がなかったから、よっぽどのことがない限り流氓同士の争いに口を挟むこともなかった。だが、金と、昔ながらの中国人の残忍さでもって、葉暁丹は新宿に相変わらず睨みをきかせてるというわけだ。
「どうしておれの女があの喫茶店にいるってわかった?」
 脳裏に浮かんだ葉暁丹の顔を振り払いながら訊いた。
「電話で、葉先生が教えてくれたわ」
 目を細めて女の顔を見つめた。嘘をいってる感じはなかった。それでおれは混乱した。今日は朝早くから動きまわっていた。尾行には注意していたが、そんな気配はまるで感じられなかった。立ち寄った先も普段のおれからは予想もできない場所ばかりだ。唯一可能性があるのは、黄秀賢のマンションだが、あそこを出るときには最大限の注意を払っていたのだ。夏美の居場所を知るには偶然を頼るしかなく、おれは偶然を信じない質だった。
「台湾から来たのか?」
 女は突然の質問に戸惑いを見せながらうなずいた。
「なんだっていまごろ?」
「あの人がちょっとしくじっちゃって、台北にいられなくなったのよ」
 よくある話だった。ジーンズのポケットから札を取りだし、五枚数えて女に渡した。
「悪かったな。こんなに痛めつけるつもりじゃなかった。足りないかもしれないが、あんたの男の治療費だ」
 女は感謝の言葉を吐くわけでもなく、受け取った金にじっと目を凝らして数を数えはじめた。
「なにか困ったことがあったら連絡をくれ。新宿の台湾人に劉健一と聞けば連絡先はすぐにわかる」
 おれはカウンターの向こうに身を乗りだした。グラスを取り、それに水を張ってぶっ倒れているヒモの顔にかけた。ヒモの顔が歪み、目が開いた。定まらない視線があちこちを動いた。おれに気づいて敵意をみせたが、すぐに鼻を押さえて顔をしかめた。
 そいつの肘を掴んで立ち上がらせた。
「行け」
 女に顎をしゃくった。女は金を仕舞いこむと、ヒモに肩を貸し、うかがうような視線をおれに向けた。
「葉先生には何ていえばいいかしら」
「失敗したとでもいっておけよ。怪我をしたから金を上乗せしてくれぐらいのことはいっても損はないかもしれないぜ」
 女はそれは気づかなかったとでもいうように顔を輝かせた。無知は哀れだ。葉暁丹が無駄な金を出すはずもない。
 

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