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不夜城(59)
日期:2018-05-31 22:41  点击:294
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 手が触れた場所をくまなく拭って〈貞さん亭〉を出たときには二時を回っていた。無駄な時間をずいぶんと過ごしてしまったというわけだ。酷《ひど》い話だ。おれはすっかりいかれてしまっていた。女とヒモがおれたちの居場所を知っている。楊偉民が何を企んでいるかはわからないが、へたをすれば襲撃されていたかもしれない。一刻も早くこの場所を離れるべきだったのだ。
 おれを狂わせているのはもちろん夏美だ。おれが知っている中でも最悪の嘘つき女だ。だがおれは夏美を振り切ることができない。夏美の口から出るでまかせよりも、夏美が身体を張って示すはったりにがんじがらめにされている。そして、あの目……。たぶん、夏美の中にある狂気が、おれ自身が裡に秘めている狂気とシンクロしてしまうのだ。
 おれは他人を愛したことがない。自分自身すら愛したことがないんじゃないかと思えるぐらいだ。だから、おれのこの気持ちが愛なのかどうか、よくわからない。愛するということに関して、おれはまったくの無知だ。おれ自身の言葉で語るなら、これはやっぱり狂気なのだ。おれは夏美を手放したくなかった。あの台湾の殺し屋、白天のようにナイフを手に夏美の身体を切り刻んで、すべての肉をおれの胃の腑に納めたかった。あるいは、逆に夏美にそうされたかった。夏美の手でおれのちんけな人生に終止符が打たれるのなら、それほど悪態をつかずに地獄へ行けそうな気がする。
 そして、これがなによりも厄介なのだが、おれは夏美にとって必要な人間でありたかった。これが愛だというのなら、人間てのはどこまで愚かにできあがっているんだろう。
「どこへ行くの?」
 夏美がいった。おれたちは東中野駅のホームに立っていた。
「銃を買いに行く」
「持ってたやつは?」
 夏美はおれの新しいファッションにいまさら気づいたというように後ろへ下がっておれの上半身を見た。
「捨てた。この上着じゃ目立つんだ。……そうだな、銃を買う前に上着を手に入れなきゃならない」
「わたしに選ばせてよ」
 夏美は嬉しそうにいって、おれの肘に腕を絡めてきた。
 風が舞って電車がホームに滑り込んできた。おれたちはその電車で新宿まで行き、マイシティ・ビルで上着を買った。夏美が選んだのはポール・ステュワートのネイヴィ・ブレザーだった。おれにはトラッドが似合うらしい。文句もいわずにヘインズのTシャツとそれを他人名義のクレディットカードを使って買った。目白の金《キム》がときおりこしらえてくれる一回こっきりの使い捨てのカードだ。店員はにこやかな笑顔でおれたちを送り出しただけだった。エレベータ脇のトイレで着替え——サングラス以外のパチンコの景品はゴミ箱に捨てた——また電車に乗った。
 迷ったのだが、結局、華聖宮《ファションゴン》には夏美も連れていくことにした。馬曼玉《マーマンユイ》はとんでもないおしゃべりだが、どっちにしろ今夜ケリがつかなきゃおれはおしまいなのだ。いまさら慌てたってしかたがない。
 華聖宮は相変わらず香の煙と匂いでむせ返っていた。馬曼玉はチャイムを鳴らしたのがおれだとわかると、肉に埋もれた目を大きく見開いた。馬曼玉の目がそれほど広がるとは驚きだったが、夏美に視線を移したその目はさらに大きく見開かれた。
「おやおや、健一が続けてここに来るほど信心深くなったとは信じられないけど、こんな奇麗な小姐《シャオジェ》を連れてるって方はもっと信じられないね」
 馬曼玉は嬉しそうに笑って、おれより先に夏美を中に招きいれた。ここの祭壇に際限なく金をばらまくのは決まって女だ。馬曼玉の目には女は金にうつるのだろう。
 中には三人の先客がいた。タイ人らしいのが二人、大陸が一人。三人とも歌舞伎町で顔を見る淫売だ。三人はキッチンのテーブルに座っていた。張國柱《チャングォチュー》がつくったらしい麺《めん》の入った器がテーブルには置かれていた。
 馬曼玉とは違って、淫売たちは険しい視線を夏美に向けた。だが、夏美はそれを相手にせず、珍しそうに部屋のあちこちに視線をさまよわせていた。奥の祭壇に目を止めると、かしこまった仕種で近づき、線香をあげはじめた。
「信心深い小姐だね。あんたにしてはいい娘を見つけたよ」
 馬曼玉は夏美の動作を見守っていたが、ふいにおれに顔を向けた。
「それにしたってどうしたってんだい。あんたが立て続けにここに来るなんて。いっとくけど、こないだ話した以上の情報はないよ」
「今日は買い物にきたんだよ、婆さん」
「あんたが買い物だって!? まったく、世の中どうなってるのかね。商売替えでもする気かい。余計なお世話だろうけど、やめといた方が無難だよ。あんたはどう見たって銃が似合うって柄じゃないんだから」
「わかってる。護身用に欲しいだけなんだ」
 顎《あご》をしゃくって夏美を示した。
「あの女のためにな」
 馬曼玉は納得がいったというように深くうなずいた。
「そういうことならうるさくはいわないよ。近ごろは物騒だからね」
 おれの手を引きながら、馬曼玉は祭壇の隣の部屋へ入った。
「で、どんなのがいい?」
「小さいやつだ。だが、小さすぎても困る」
「だったらあれがいいよ」
 馬曼玉はおれに背を向けて、押入を開いた。中に潜り込み、なにやらごそごそと動いていたが、やがて右手に黒光りする鉄の塊を持って這い出てきた。
「どうだい。なかなかお目にかかれるものじゃないよ」
 馬曼玉が手にしていたのは、黒星より一回り小さいオートマティックだった。グリップの中央にベレッタのマークが刻まれていた。コピーじゃない、本物のベレッタだ。口径は、恐らく三十二だろう。
 おれは馬曼玉からベレッタを受け取って、ざっと点検してみた。作動状態は悪くなかった。
「弾丸はあるのか?」
 聞いてみた。日本じゃ、銃より弾丸を手に入れる方が難しい。昔はリヴォルヴァー用の三十八口径が主流だったが、大陸から黒星が大量に出まわるようになってからオートマティック用の九ミリが市場を席捲《せっけん》している。なんにしろ、三十二口径の弾丸は滅多に手に入るものじゃない。
「当たり前さね」
 馬曼玉はそういって、キッチンの方へ顔を向けた。
「國柱、あれを持ってきておくれ」
 台湾語だったが、それぐらいの単純な言葉ならおれにも理解できた。
 すぐに、張國柱がやってきた。張國柱は、手に持っていた平べったいクッキーの缶をおれに差し出し、なにもいわずに蓋を開いた。缶の中身はおびただしい銃弾だった。二十二口径からはじまって、三十八、四十五、四十四マグナムまでが揃っていた。もちろん、大小の銃弾の中には三十二口径のものもあった。
「銃は二十、弾丸は一発につき二万だよ」
 三十二口径の弾丸を選り分けているおれに、馬曼玉がいった。
「馬鹿いうなよ。銃が十五で、弾丸は一万がいいところだ」
「なんだって!? 健一、あんた自分が何をいってるのかわかってるのかい? その銃は滅多にない掘り出し物なんだよ」
「婆さん、今時こんな銃を買おうなんてやつはいないんだ。需要と供給の関係で行けはおれの言い値がせいぜいだろう」
 ベレッタのグリップからマガジンを外して弾丸をこめはじめた。八発。マガジンがいっぱいになった。
「呉富春といい、あんたといい、年寄りを飢えさせる気かい。まったく罰当たりめ。まからないよ。ビタ一文まけるもんか」
「売り時ってもんを考えろよ。こんなもの、後生大事に抱えてたって腐らせるだけだ」
「國柱、なんとかいっておくれよ」
 馬曼玉は黙ってつっ立っていた張國柱に泣きついた。張國柱は細い目をしばたたかせ、唇を舌で湿らせて、躊躇《ためら》いがちにおれに声をかけてきた。
「健一君、曼玉の無礼な物言いは許してくれ。しかし、曼玉もこれが商売でな……わかってくれんか」
 おれは弾丸を装填《そうてん》したベレッタを腰に差した。それから、首を傾けて張國柱の哀しげな顔に視線を合わせた。張國柱の目はしきりになにかを訴えていた。
「老張《ラオチャン》、できることなら曼玉婆さんの言い値を払ってやりたいんだ。だが、ここんとこのゴタゴタのせいで、金がない。銃に十五、弾丸が一万。それ以上は払えないんだよ」
 張國柱はため息をついて、馬曼玉に向き直った。
「ない者からはもらえん。諦めるんだな。それで充分じゃないか」
「あんた、気でも狂ったのかい。あたしは……」
「曼玉!」
 張國柱はいきなりドスの効いた声で馬曼玉の言葉を遮った。はらわたが痺れるような、性根の据わった声だ。張國柱の枯れ枝のような身体のどこから、こんな声が出るというのだろう。
「な、なんだよ……」
「わたしらは世間様に胸を張れるような商売をしているわけではない。分をわきまえんと、そのうち天罰が下るぞ」
 張國柱の剣幕に、さすがの馬曼玉も度肝を抜かれたようだった。柄にもなくしおらしい態度でうなだれていた。
「よかろう、健一君、困ったときは相身互いだ。十五万でその銃を譲ろう。弾丸はサーヴィスだ」
「あ、あんた」
「これでいいんだよ、曼玉。健一君は今日のことを忘れたりはしない。そのうち、必ずなにかでわしらに報いてくれるはずだ」
「助かるよ、老張。今はなにもお返しできないが、そのうち、必ず……」
 ポケットから札を取りだし、十五枚数えて不満そうに唇を突きだしている馬曼玉に差し出した。
「謝謝《シェシェ》」
 張國柱は悟りを得た聖者のように微笑んだ。
 隣の部屋にいた夏美に声をかけ玄関に向かった。馬曼玉はすっかり不貞腐れているのだろう、部屋から出てこようともしなかった。代わりに、張國柱がおれたちをドア先まで送ってくれた。
「助かったよ、老張」
 馬曼玉に声が届かないことを確認して、おれはいった。
「あの婆さんから値切るのは骨が折れるからな」
「なに。お安い御用だ。それより、健一君、頼みがあるのだが」
「わかってるよ。いくらだ?」
「値引きした弾丸の分、八万でどうかな?」
 おれは苦笑しながら八万を手渡した。
「最近、華聖宮の老張がタイの女に首ったけだって噂が流れてるぜ。気をつけないと、曼玉婆さんの耳に入る」
 張國柱は照れたように耳の後ろを掻いた。年をとってからの女遊びは見境がつかないというが、この真面目を絵にかいたような痩せた老人も、その轍《てつ》を踏んでしまったのだ。おおかた、祭壇を拝みにくるホステスとなるようになってしまったのだろう。年をとれば欲望も減っていくというのは嘘八百だ。人間は幾つになったって、心の奥のどろどろした欲望の沼の中で淀んだまま生きているのだ。
 

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