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富春がサブナードへ通じる階段の陰から顔を覗かせているのが見えた。おれが指示したとおり、天文の店の前の階段だった。
ゆっくりそっちへ近づき、親指を立てた手をさっと振って、なにも問題はないということを伝えてやった。富春は落ち着き払った素振りで軽く顎《あご》を引き、階段の下の方におりていった。右手には重そうな紙袋が握られていた。その中身が、おれと小蓮の命綱だ。
天文の店の角を右に折れ、アルタの裏をぐるっと回って、もう一度靖国通りに出た。信号を渡り、さくら通りの入り口にある雑居ビルの脇に立って、携帯電話を取り出した。
サングラスを少しずらし、靖国通りに目を凝らした。六時半をちょっとまわったところだ。遅い夕闇が歌舞伎町を覆いはじめていた。サラリーマン、OL、学生、ギターを抱えたミュージシャンもどきたちが、途切れることなく靖国通りを横切って歌舞伎町に吸い込まれていた。
靖国通りを挟んで、ちょうどおれの正面の松屋の角のあたりで、中国人らしいやつらが二人、立ち話をしていた。ときおり、ちらりちらりと四方に視線を走らせている。元成貴の斥候か、あるいは崔虎の手下だ。間違いはない。おれとしては、やつらが崔虎の手下であることを願うばかりだった。
サングラスを元に戻し、携帯電話で天文の店に電話をかけた。
「はい?」
「健一だが、天文はいるかい?」
「おれだよ」
「爺さんは来てるか?」
「ああ。お茶を飲んでる」
「わかった。助かったよ、小文」
「なあ……」
天文は一瞬、舌を噛んだかのように口ごもった。恐らく、おれに兄さんと呼び掛けようとして思いとどまったのだ。
「どうした?」
「店の前で殺人なんかが起こったんじゃ、今日一日商売にはならない。損額を、あんたに請求してもかまわないかな?」
天文は「あんた」と呼び掛けるときにもいいよどんだ。おれは軽く笑って天文の躊躇《ちゅうちょ》を打ち消してやった。
「ああ、しかたがない。払うよ」
「すまないな」
「ふん、小文よ、楊偉民に商売のコツを教わっておいてよかったな」
いい終えるのと同時に電話が切れた。だれにともなく肩をすくめた。
時計を見た。六時四十分。携帯電話を握る手が汗で濡れはじめていた。おれは煙草に手を伸ばした。口の中は粘ついて、煙草どころじゃなかった。だが、煙草をくわえずにいられなかった。
腕時計の秒針が二周半したとき、携帯電話が一度鳴って切れた。小蓮からだった。元成貴が〈咸享酒家〉を出たという合図だ。
靖国通りをよく見渡せるように身体の向きを変えた。〈咸享酒家〉から天文の店までは約五分というところだ。富春に渡した携帯電話にかけた。呼び出し音が一回鳴ったところで富春の荒い息遣いが耳に飛び込んできた。
「おれだ。元成貴は自分の店を出た。そろそろ支度をしろ」
「わかった」
その声と同時に、通りの向こう側で富春が階段の陰からひょいと顔を覗かせるのが見えた。
「馬鹿野郎。見つかりたいのか! 顔を引っ込めろ」
「ああ、すまねぇ」
「元成貴が近づいてきたら、おれがきちんと教えてやる。おまえはショットガンをぶっぱなすだけでいいんだ」
「わかってる。そんなにがなる[#「がなる」に傍点]なって」
富春の声は意外なほど落ち着いていた。まるでおれの緊張をたしなめるような声だった。
「とにかく、必ず仕留めろよ」
「わかってるって」
信号待ちの人垣ができて、おれからは富春の位置が死角になっていた。呼吸を整えて、大ガードの方向へ視線を向けた。
いた。小太りの身体をシルクのスーツで包んだ元成貴が、こっちに向かって歩いている。その斜め後ろ左右に、これまた高そうなスーツで決めた男が二人、ぴったりくっついていた。
「米たぞ」
おれは正体を悟られないように身体の向きを変えた。
「くっついている手下は二人だ」
受話器にそう囁《ささや》いたとき、目の前の信号が青に変わった。元成貴に視線を送った。元成貴も向こう側の信号を渡りはじめたところだった。
「やつらは手前の信号を渡った。サンパークの方から来るぞ」
「わかった。あとは任せておけよ、健一」
電話が切れた。
「富春!? なんだって切るんだ、馬鹿野郎!」
毒づいてみたが、もう手後れだった。何の反応もなかった。かけ直している暇はない。携帯電話をジャケットのポケットにおさめ、元成貴を視線で追った。元成貴は悠々とした足取りで、ゆっくり天文の店へ近づいている。ときおり、背後のボディガードに声をかけながら。
なにかがおかしかった。なにかがいつもと違う——孫淳《スンチュン》がいないのだ。いつも元成貴にべったりとくっついていたあの機械のようなボディガードが、今日に限って持ち場を離れている。
一瞬にして悟った。黄秀紅の男は、孫淳なのだ。秀紅から今日のことを聞いた孫淳は、おれの忠告どおり元成貴の側を離れた……。
そこまで考えて、急に悪寒に襲われた。
元成貴はサンパーク・ビルの正面を通りすぎていた。階段の陰から富春が飛び出してきた。おれはショットガンが元成貴を吹き飛ばすのを予測して身桃えた。
次の瞬間、乾いた銃撃音が靖国通りに谺《こだま》した。ショットガンの銃声なんかじゃなかった。何丁もの拳銃から発射された銃弾が発する音だ。それまで松屋のカウンターで牛丼をかっ喰らっていた男たちが一斉に外へ飛び出し、富春に銃撃を浴びせたのだ。
一瞬の静寂。そして、割れんばかりの怒号や悲鳴、車のクラクション。その合間を縫うように、乾いた銃声が断続的に響いてくる。歌舞伎町へと向かう人の波が砕けた。
拳を固く握って震えを抑えながら、富春の姿を追った。富春はゴールした直後のマラソンランナーのようにつんのめりながら、なんとか体勢を立て直そうとしていた。左の上腕部が濡れていた。右手に握ったショットガンが宙に浮いていた。
おれの鼓動はトップギアに入ったままだった。元成貴は松屋から飛び出てきた連中を驚いたように見ていた。知らないやつらだったのだ——つまり、やつらは、楊偉民の差し金だ。楊偉民は元成貴に恩を売るつもりなのだ。おれを裏切って。
汗に濡れる額を拭いながら四方に視線をさまよわせた。逃げなきゃならない。しくじったのだ。
野太い銃声が一瞬、拳銃のそれを打ち消した。富春がやっと引き金を引いた。松屋から飛び出て来たやつらの一人が真後ろに吹っ飛んだ。そいつは逃げようとしていた元成貴の背中にぶつかって、路上に転がった。元成貴も腰を抜かしたようだった。返り血で真っ赤に染まった手を宙に突き出しながら、ボディガードの二人に大声で助けを求めていた。だが、今日のボディガードは孫淳じゃなかった。二人ともセミ・プロだ。慌てていた。何度も元成貴を引き起こそうとして失敗した。背後から近づいてくる影に、二人は気づきもしなかった。
そいつらは、ついさっきまで、おれが目をつけていた中国人だった。松屋の角の歩道で立ち話をしていた二人連れ。二人はジャケットの裾を跳ねあげて腰に手をまわした。二人とも流れるような動作で黒星を元成貴に向け、無造作に引き金を引いた。二丁の黒星はリズミカルに弾丸を吐きだし、元成貴とボディガードたちの身体から血飛沫《ちしぶき》が舞った。
富春を銃撃していたやつらがやっと背後で起こっていることに気づいた。だが、遅すぎた。そいつらが振り向くより先に、これ以上元成貴に銃弾をぶち込む必要がないと判断した二人が銃口を向けていた。
銃声、悲鳴、断末魔の絶叫。そのすべてが絡まり合いながらおれの鼓膜をいたぶっていた。脳味噌を絞られるようなノイズのかたまりを、おれはしかし、他人事《ひとごと》のように聞いていた。
富春を襲ったやつらはあらかじめそう決められていたというように、次々と吹っ飛んでいった。黒星の銃弾をでたらめな方向に撒き散らしながら。悲鳴と怒号が一段とトーンを上げた。
ふいに、銃声が途切れた。弾丸を撃ち尽くした二人は、惜し気もなく銃をその場に捨て、くるりと身を翻して駅の方へと走りはじめた。その動きに刺激されて、おれはやっと我に返った。
こんなところでぐずぐずしている暇はない。いまこの瞬間にも、孫淳がおれを探して目を血走らせているはずだった。
考える前に足が動いていた。四谷の方向に向かって歩きはじめていた。目は富春の姿を——富春の死体を求めていた。富春はいなかった。路上に転がったショットガンが見えただけだった。