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しばらく歩くと、見覚えのある街並みが視界に入ってきた。孫淳はおれを促して、真っ白な外壁のワンルーム・マンションに足を向けた。黄秀賢《ホヮンシウシェン》——黄秀紅の弟のマンションだ。
「ここを使ったのが他のやつらにばれるとまずいんじゃないのか?」
おれは唾を飲み込みながらいった。部屋の中に連れ込まれたら、逃げようがない。
「おまえに心配してもらう必要はない」
おれたちはドアの前で足を止めた。振り返ると、孫淳がうなずいた。おれはため息をつきながら、ドアをノックした。
あらかじめ話はついていたのだろう。ドアはすぐに開いた。秀賢は舌なめずりしそうな顔でおれたちを迎え入れた。今朝、おれが殴った頬がどす黒く腫れ上がっていた。
玄関に足を踏みいれるのと同時に、孫淳がおれの腰からベレッタを抜き取った。反射的に振り向こうとしたが背中を思い切りど突かれて、おれは部屋の中に転がった。どこをどう殴られたのか、激しい痛みが背中一面を駆け巡って息ができなくなった。咳き込みながら埃《ほこり》の浮いたフローリングの上を転げまわった。
「縛るんだ」
孫淳が秀賢に命じる声が、遠くに聞こえた。おれは腹這いになって肺に空気を送り込んだ。目が涙で滲んでいた。
「いつまで寝てるんだよ」
秀賢に脇腹を蹴られた。それでも、起きあがることができなかった。腕を逆に取られ、強引に立たされた。両手を、ビニール紐のようなもので縛られた。逆らおうなんて気はこれっぽっちも起きなかった。まだ背中に残っている痛みが、孫淳に対する恐怖を増幅させていた。
孫淳は銃を両手に、パイプ椅子に腰掛けて、おれを縛り上げる秀賢の手順を見守っていた。きれいにオールバックに撫でつけた頭から垂れた一房の毛が、のっぺりとした顔にアクセントをつけている。その髪と剃刀《かみそり》のように細い目が、回路のどこかがいかれた殺人マシンのような印象を与えているのだ。右手に持っている銃は表面がプラスティックのように見えるほかは、特徴のないのが特徴というようなやつだ。こんな銃を、最近のアメリカのおまわりたちがよく使っているという話を聞いたことがある。シンプルで頑丈な銃。孫淳にぴったりだ。
「座れよ、おら」
秀賢に腰を蹴られて、膝が崩れた。
「普段はかっこつけてるくせに、ザマぁないよな」
秀賢は毒づきながら、髪を掴んでおれを引き起こした。そのまま壁際まで引きずられ、パイプ椅子の一つに座らされた。秀賢にいい返す気にはならなかった。おれの相手はこの馬鹿じゃない。
「呉富春はどこにいる?」
孫淳がいった。細い目で射竦《いすく》めるようにおれを見ていた。
「知らない」
おれは孫淳から目をそらした。孫淳がかすかにうなずくのが見えた。次の瞬間、耳のすぐ下を殴られた。ぱっと顔が熱くなった。視界の中で、孫淳の顔が歪《ゆが》んだ。
「呉富春はどこにいる?」
「知らない。本当だ」
今度は反対側を殴られた。さっきよりは数倍強烈だった。殴った秀賢が、手を押さえていた。
「聞いてくれ、孫淳。本当に知らないんだ。うまくいったら、下落合《しもおちあい》のおとめ山公園で落ち合うことになってた。だが、こうなった後で、あいつがのこのこやってくるはずがない。そうだろう? おれは知らないんだよ」
「信じてもいいが、健一、忘れるな。おまえの命がかかっているんだぞ」
孫淳は嘘をつくときも顔色を変えなかった。いや、そもそも、最初からおれがその嘘を信じるとは思っていなかったのだろう。ただ、口にしただけなのだ。
おれの態度になにかを見つけたのだろう。孫淳が唇の端を持ち上げた。おそらく、笑ったのだ。
「いい直そう。おまえの命の長さがかかっているんだ。よく考えろ。呉富春はどこにいる?」
「電話だ」
おれはいった。さっきからずっと考えていたのだ。富春をつかまえる方法を。
「あいつは携帯電話を持ってる。番号はおれしか知らない」
孫淳はなにもいわなかった。ときおり、重さを量るように手の中の銃を弄《もてあそ》びながら、ただ、じっとおれの目を見つめていた。
「小細工はしてない。そこまで考えてる余裕はなかった」
おれは言葉で孫淳の背中を押してやった。孫淳はゆっくりうなずいた。
「あいつをおびき出せるか?」
「当たり前だ」
「電話を渡してやれ」
孫淳が秀賢に命じた。秀賢はまだ殴り足りないという恨めしそうな目をおれに向けていたが、渋々といった感じでテーブルの上の電話をおれの前に置いた。受話器をおれの耳に押し当て、番号をいえと目でうながした。
「08——」
「待て。電話をする前に聞きたいことがある」
口を開きかけたおれを、孫淳が鋭く制した。
「なんだよ?」
「おまえはおれに殺される。なにをしようとだ。それなのになぜ、あっさり口を割る?」
「死ぬのは嫌だが、殴られるのも嫌だ。どうせ死ぬんなら、殴られない方がいい」
「呉富春は友達なんだろう?」
「おれにはダチなんかいない」
「わかった。電話をしろ」
孫淳はいった。声にかすかな侮蔑の響きが混じっていた。この瞬間、おれも孫淳を侮蔑していると知ったら、やつはどんな顔をするのだろう。
秀賢に携帯の番号を伝えた。呼び出し音が鳴り、回線が繋がった。
「健一か!?」
富春はいきなり吠えた。秀賢が電話のオンフックボタンを押していたので、その声はスピーカーを通して部屋中に広がった。
「てめえ、おれをはめやがったな!!」
「落ち着け、富春。おまえだけじゃない。おれもはめられたんだ」
「ふざけるな——」
「楊偉民だ。あのじじいがおれを裏切ったんだ」
富春の荒々しい息遣いが聞こえてきた。必死になって頭を働かせているのだ。
「そいつはマジか?」
「ああ、おれも逃げている最中だ」
「豚野郎め!!」
「怪我は?」
「心配ない。弾丸は抜けてる。まだ、血はとまらないが、大丈夫だ。これぐらい、屁でもねえ」
「いま、どこにいるんだ?」
「よくわからねえ。学校みたいだ」
「学校?」
「ああ、石灰の袋がいっぱい積んである。倉庫みたいなとこに隠れてるんだ。ここなら、朝までは大丈夫だろうと思ってな」
「よし。これから落ち合う場所を決めよう」
「待てよ、健一。こっちはなにがなんだかさっぱりわからねえ。元成貴はどうなったんだ?」
「くたばったよ」
「本当か?」
「ああ、この目で見た。間違いない」
「ざまあみろってんだ。おれたち半々をなめやがって。そうだろう、健一?」
「ああ」
「それから、小蓮はどうした? 無事か?」
おれは思わず孫淳に視線を走らせた。失敗だった。孫淳はしっかりおれの動揺を捉えていた。
「健一、どうした? 小蓮になにかあったのか?」
「いや。彼女は安全なところにいる。安心しろ」
「そうか。よかった。あいつになにかあったら、おれは——」
「富春、それはわかってる。今は、おれたちが生き延びることを考えるんだ。楊偉民のせいで上海のやつらはおれたちを探してるはずだ」
「そうだな。どうする?」
「東京医大の裏の方に墓地がある。わかるか?」
「そばに中学校があるやつか?」
「それだ。病院じゃなく、学校の方のやつだ。どれぐらい時間があればこれる?」
「おれはいつでもいいぜ、健一」
壁の時計に目をやった。もうすぐ八時になろうとしていた。
「十時にそこで」
「わかった。……健一、おれたちと逃《ふ》けようぜ。おれと小蓮、それにおまえの三人なら、どこに行ったってうまくやっていける」
「そうだな。そいつは楽しそうだ。富春、遅れるなよ」
秀賢を見てうなずいた。秀賢がオンフックボタンを押して電話を切った。
おれは重い息を吐きだした。身体中汗まみれだった。
「小蓮というのは、秀紅があったという女のことか?」
孫淳がいった。囁くような声だった。聞こえなかったふりをした。無駄なあがきだった。
「秀紅はおまえの新しい女だといっていた。だが、今の話を聞くと、裏がありそうだな。話せ。小蓮というのは、どういう女なんだ?」
孫淳は立ち上がった。勿体《もったい》をつけるような足取りでおれに近づいてきた。右手に持った銃はおれに向けられて、ぴくりとも動かなかった。銃口の奥にあるのは地獄へ通じる深い闇だ。おれの目はその闇に吸い寄せられていた。
「呉富蓮。富春の妹だよ。それで、おれの女でもある」
銃口を見つめながらいった。
「女の兄を、おまえは売るのか?」
「だからなんだ? あんたはボスを見殺しにしたじゃないか」
孫淳は立ち止まった。不思議なものに出くわしたような顔をしていた。
「軍をやめて七年。新宿に来て五年になる。おれの魂も腐ってしまった。おまえたちのせいだ」
孫淳の左手が鞭《むち》のようにしなった。頬に真っ赤な衝撃があって、おれは椅子ごと床にぶっ倒れた。痛みはすぐに消えた。だが、頭がくらくらして、視点が定まらなかった。呼吸が犬のように荒かった。背骨を抜き取られて、代わりに氷の柱を埋めこまれたような気がした。おれの心と身体はすっかり冷えていた。おれは震えていた。
「小蓮とかいう女にも電話しろ。呼び出すんだ。おれたちみんなで、呉富春を迎えに行こうじやないか」
孫淳の言葉を、おれはぼんやりとした意識の中で聞いていた。