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「その女はどこにいるんだ?」
「京王プラザだ」
おれはやっとのことで上半身を持ち上げた。
「おれの知り合いの女と一緒に隠れてる」
まだ眩暈《めまい》は去らなかったが、嘘は滑らかにおれの口をついた。秀賢の前で夏美という名を口にしたことはなかったはずだ。
「中国人か?」
「いや、日本人だ」
「北京語は?」
おれは首を振った。
「嘘は必ずばれるぞ」
「もう、殴られるのは勘弁だ。いまさら、嘘はつかない。おれの店にときどき遊びにくる女だ。夏美って名前しか知らないが、セックスとドラッグが大好きってタイプだ。その女に葉っぱをちらつかせてやって、部屋をとらせた」
「用心深いな」
「習性なんだよ。わかってるだろう?」
「その女にはどこまで話した?」
「なにも。理由とかそういうのはどうだっていいんだよ、その女は。葉っぱさえもらえればな」
「よし、電話をかけろ。一人で出てくるようにいうんだ。小細工は無しだぞ」
「わかってるって」
秀賢が番号案内で京王プラザの電話番号を調べ、おれの耳に受話器を押しあてながらプッシュホンのボタンを押した。例によって、電話はオンフック状態で、おれたちのやり取りがスピーカーから聞こえてくるようになっている。
本物の寒気がおれを襲っていた。小蓮がおれの芝居に乗ってこなけりゃ、一巻の終わりだ。他人に自分の運命を預けるってことが、これほど肝を冷やすとは思わなかった。
回線が繋がり、おれは部屋番号を相手に伝えた。それほど待つまでもなく、小蓮の声が聞こえてきた。
「健一? どうしたの? 大丈夫なの?」
「ああ、落ち着けよ、小蓮。おれは大丈夫だ」
「ぜんぜん連絡がないから……」
「ちょっとやらなきゃならないことがあってな。それで手間取った。夏美はどうしてる?」
「夏美? う、うん。寝てるけど」
やはり、小蓮は天性の女優だった。咄嗟のアドリブにも、間を開けることなくついてきた。震えだしそうな声を抑えながら、話を続けた。
「夏美に気づかれずに出てこれるか?」
「どうして?」
「これから富春を殺《や》りにいく。夏美を連れていくわけにはいかない」
「わかった。熟睡してるから、大丈夫だと思う。どこに行けばいい?」
「靖国通りをずっとくると、左手に厚生年金会館ってのがある。その斜め向かいの路地をちょっと入ったところに花園西公園っていう小さな公園がある。そこに、一時間後だ」
「厚生年金会館の向かいの路地。花園西公園ね」
「夏美には絶対気づかれるな。あいつには来て欲しくないんだ」
「わかってるって。じゃ、あとでね、健一」
電話が切れた。額に滲む汗を縛られた手首で拭いながら顔をあげた。孫淳の銃がおれの目を覗きこんだ。
「女の声が変だったな」
刺すような視線をおれに向けながら、孫淳がいった。
「変? どこが?」
「わからん。だが、なにかがおかしかった」
おれは二、三秒のあいだ、孫淳の目を見つめかえした。孫淳の目は犬の目だった。よく訓練された軍用犬の目だ。そして、その軍用犬の目に映るおれの目はハイエナのそれだった。自分より強大な力を有する相手の威嚇《いかく》に怯えながら、それでもなんとかして獲物をかすめとってやろうとするハイエナの目だ。
小さく息を漏らして、目をそらした。そして、いった。
「頭のいい女なんだよ、小蓮は。たぶん、おれの話に疑問を感じたんだ。おれも、あいつの様子がおかしいのには気づいた」
「どうなる? あの女はどうするつもりだ?」
「逃げるんじゃないか」
「自分の男を見殺しにしてか?」
「名古屋から出てきたばかりで、こっちには助けてくれる人間はいないんだ。荷物をまとめて新宿駅に向かってる」
「それにしては、平静だな」
「おれが小蓮でも同じことをするからな」
「愛しあっているんだろう?」
ちょっと考えるふりをしてから答えた。
「ああ、そうだと思う」
「信じられん。おまえたちは獣以下だ」
孫淳は首を振りながら銃をおろした。
「とにかく、一時間後に、その女が来るかどうか、待ってみようじゃないか。来なかったら、その時はその時だ」
「ああ、どっちにしろ、おれは死ぬんだ。そうだろう?」