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秀賢のマンションと花園西公園は目と鼻の先だった。約束の十分前、おれたちはマンションを出た。
手首の戒めは解かれていた。だが、孫淳がおれの背中にぴったり張り付いて、戒め以上の束縛感をおれに与えていた。
公園にいるのは、そこをねぐらにしている浮浪者たちだけだ。やつらは闖入者《ちんにゅうしゃ》を見る目つきをおれたちに向けたが、やがて、そもそものはじめからおれたちなど存在しなかったのだというように、いつもの日常——睡眠の世界に埋没していった。この国じゃ、滑らかな日本語を話さない東洋人はすべてを捨てたはずの浮浪者にすら差別される。
孫淳は軍用犬の目で、さほど広くない公園を丹念に検査していった。検査という言葉がぴったりだった。
「なにもない」
しばらくして、拍子抜けしたようにそういった。
「あたりまえだ。小蓮は来ないよ」
おれはベンチに腰を下ろした。秀賢が勝手なことをするなといいたげにおれの襟首を掴んだ。孫淳がいいんだというように首を振った。秀賢は面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「煙草を吸ってもいいか?」
孫淳が答える前に、煙草を口にくわえた。ライターは秀賢に取り上げられていた。おれは煙草の先端を秀賢につきだした。秀賢は精一杯おれを睨みつけた。孫淳の目が軍用犬の目なら、秀賢のは甘やかされた座敷犬の目だった。敵を相手にするとうるさく吠えたてるが、目の奥に怯えが居座っている。孫淳というご主人様がいなけりゃ、とっくに尻尾を巻いて逃げ出しているのだ。
結局、秀賢はライターをポケットから取り出した。礼もいわずに火をつけると、煙を湿った夜気の中にゆっくり吐きだした。
背筋には相変わらず冷気が居座っていた。気を抜くと、すぐに身体が震えてしまいそうだった。ニコチンもその冷気を追い払ってはくれそうになかった。おれのすぐ横に、死が実体を伴って立っているのだ。
煙草をふかしながら、黄秀紅を抱き込めるなどと考えていた自分の愚かさを呪った。そして、もし生き残ったら、黄秀紅に必ず落とし前をつけさせてやると誓った。そのことを考えている一時、おれは間近に迫っている死を忘れることができた。
約束の時間がすぎた。
孫淳と秀賢はおれから離れたベンチに座っていた。このまま逃げ出してしまえという考えが、強迫観念みたいにおれの頭蓋骨の内側に張り付いていた。だが、おれがちょっとでも妙な動きをした瞬間に、孫淳の銃が火を噴くのはわかりきっていた。
公開の脇の道を、ときおりアヴェックが通りすぎた。男と女、男と男、女と女。みんな、身体の一部が溶けてくっついちまったように互いにもたれあって歩いている。そんなアヴェックの一組の片割れが小蓮だった。
小蓮の連れは、線の細い若い男だった。もたれかかってくる小蓮を持て余しているようにみえた。おそらく、二丁目をぶらついているホモだろう。小蓮に小遣いをもらって風変わりなデートに付き合うことを承諾したのだ。
若いホモに腰を抱かれながら、小蓮は公園の中にちらりと視線を飛ばしてきた。おれはなにもしなかった。黙ってベンチに座っていた。小蓮はおれを見つけたはずだ。孫淳と秀賢にも気づいただろう。後は、小蓮の機転に任せるしかない。
ほんの数秒で、小蓮とホモの姿は見えなくなった。おれは秀賢から取り返したライターで煙草に火をつけた。
どこかの草むらで虫が鳴いていた。今にもくたばりそうな鳴き方だった。