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不夜城(72)
日期:2018-05-31 22:47  点击:394
 72
 
 
 おれたちは御苑前から池袋行きの丸ノ内線に乗った。秀賢のマンションから駅まではたった二、三分の距離だが、三組のおまわりたちとすれ違った。酔っぱらいのふりをして小蓮の肩に顔をうずめておまわりたちをやり過ごした。血まみれの服は、秀賢の部屋にあったものに着替えてあったが、おれの腰には黒星がささっている——弾丸が一発しか残っていないベレッタは小蓮のルイ・ヴィトンの中だ。職務質問をされたら一巻の終わりだった。もっとも、おまわりたちは先を急ぎすぎていて、おれたちに注意を払ったりはしなかった。
 まだ終電に時間があるせいか、地下鉄はそこそこの混雑だった。騒音に混じって、酔客たちの興奮した会話が車内には満ちていた。こうしたやつらには、今日の銃撃戦も余興のひとつにすぎないらしい。
 おれはサングラスをかけていた。左の瞼がすっかり腫れて目が潰れかけている。他の部分はまだ大丈夫だが、目だけは隠しておきたかった。
「金はもう残ってないのか?」
 正面の車窓に映る自分を見ながら、横にいる小蓮に訊いた。北京語だ。
「全部、マンションに注ぎこんだわ。富春が来るの、わかってたから。その前に使っちゃいたかったの」
「なにをやったんだ?」
「知らない。ある晩、仕事が終わって帰ってきたら、部屋にボストンバッグがあったの。中にはお金がぎっしり。富春は酔っ払って眠りこけてたわ。お金を数えたら、二千万あった。わたし、旅行ケースに服をつめて、部屋を出た。名古屋駅前のビジネスホテルに部屋を取って、次の日の朝一の新幹線に乗ったの。あとは前に話したのとおんなじ。富春の執念深さは知ってたから、あなたを利用して殺してもらおうと思った」
「妊娠の話も嘘か?」
「それは本当」
「おまえは自分で殺した。そんなに金のことをおれに知られたくなかったのか? おれがおまえから巻き上げるとでも思ったか」
「だって、健一、いま文無しじゃない」
 小蓮は当然のようにいった。
「お金のない人は、自分の自由にできる人間から絞り取ろうとするのよ。わたし、知ってるの」
「おまえはおれが自由にできる女なのか。知らなかったな」
 小蓮は驚いたようにおれを見た。頬のあたりがかすかに紅潮していた。おれと目があうと、すぐにうつむいた。
 
 茗荷谷《みょうがだに》の駅が近づくと、おれは小蓮を促した。地下鉄を降りて、駅前の公衆電話を使った。
「もしもし?」
 流暢《りゅうちょう》な日本語だった。
「葉暁丹先生のお宅でしょうか?」
 おれも丁重な日本語で、大金持ちの台湾人の名前を口にした。
「失礼ですが?」
「劉健一と申します。葉先生がいらっしゃらなければ、楊偉民をお願いしたいのですが」
「少々お待ちください」
 あっさりしたものだった。かまをかける必要もなかった。
 受話器からオルゴールを真似た電子音が聞こえてきた。おれは驚いた。耳に飛び込んできたのは聞きなれたメロディじゃなかった。『何日君再来《ホーリージュンツァイライ》』。身体に中国の血が流れているなら、いてもたってもいられなくなる——もっとも、おれは驚いただけだったが——メロディが流れてきたのだ。葉暁丹は特別注文の電話機を使っているらしい。
『何日君再来』のメロディが二回線り返されて、やっと相手が出た。楊偉民だった。
「いま、どこにいる?」
 楊偉民の声はいつもと変わりなかった。
「茗荷谷の駅前」
「なぜ直接訪ねてこない」
「葉先生は半々がお嫌いらしいからね」
「すぐに来い」
 電話が切れた。
 
「どこに行くの?」
 小蓮が「教育の森」というふざけた名のついた公園に目を向けながらいった。おれたちは葉暁丹の屋敷に向かっていた。
「大金持ちの家だ」
「だれに会いに?」
「大金持ち、楊偉民、それから上海のだれかだ」
 小蓮はゆっくり顔を向けた。
「そこにわたしたちが入るとどうなるの?」
「話がつく」
「わかるように説明して」
「もう、だれもこれ以上のゴタゴタは望んでないってことだ。今、大金持ちの家じゃ、楊偉民と上海のやつらの間で和平工作が進められてるはずだ。その和平工作に、おれたちも混ぜてもらう」
「混ぜてくれるの?」
「混ぜてもらえなきゃ、おれたち、死ぬしかない」
 小蓮はおれの腕に自分の腕を巻きつけてきた。
「もう、孫淳と富春がくたばったことは連中の耳に入ってるだろう。連中、スケープゴートができたって喜んでるはずさ。死人に口なしだ。すべてをふたりにおっ被せればいい。元成貴の地位を狙っていた孫淳が、富春と手を結んだ。結局は仲間割れをしてお互いにくたばった。ディテイルがおかしくてもだれも文句はいわない。面子さえ立っちまえば、あとは自分の稼ぎの方が大切だからな」
「わたしたちになんの関係があるの?」
「その和平工作に混ざらなきゃ、おれたちにもどんな罪が被せられるか、わかったもんじゃない。楊偉民と上海のやつらの口から、おれたちのことは不問にするっていう言質《げんち》を取りたいんだ」
「不問にしてくれるの?」
「成り行きしだいだな」
 小蓮はそれ以上質問してこなかった。おれの腕にきつく抱きついて歩いていた。
「逃げたいか? おまえだけなら、今からでも間に合うぞ」
「それだったら最初から逃げてるよ。健一と一緒に行く。決めたんだから」
「小蓮……」
「なにもいわないで。いいたいことはわかってる。でも、いいの」
 小蓮は叫んだわけじゃなかった。だが、おれは小蓮のプレッシャーに負けて口を閉じた。
「死ぬ時は一緒がいいな」
 やがて、小蓮がぽつりといった。
 おれは小さくうなずいた。

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