73
葉暁丹《イェシァオダン》の家の門には、葉村と彫られた表札が掲げられていた。門の脇のインタフォンを鳴らすと、しばらく待たされてから、和服を着た初老の女がおれたちを迎えた。女はおれと小蓮に値踏みするような視線を一瞬だけ当てた。それだけだった。あとは無言だった。
門から玄関にたどり着くのに、ゆうに五分はかかった。道が曲がりくねっているのだ。日本庭園のことはおれにはよくわからない。それをつくる台湾人の気持ちもおれにはわからなかった。葉暁丹は、戦前、台湾で日本式の教育を受けたらしい。そのころ、なにかコンプレックスを植えつけられたのかもしれない。戦争を生き延びた台湾人の中には、今でも日本に対する憧憬を胸に秘めているやつらがいるらしい。日本が去った後にやってきた国民党への憎悪に対する裏返しの感情だ。もっとも、葉暁丹は戦時中に日本にやってきたくちだ。そんな感情とは無縁だろう。
おれと小蓮は、黙って女の後に従った。何度か、腰に差した黒星に手が伸びそうになった。黒星をつかむ代わりに、おれは小蓮の手を握った。小蓮の手は冷たかった。骨の芯まで凍えてるようだった。
薄暗い廊下を歩き、女に指示されたドアを開けた。二十畳以上もある居間だった。その真ん中に置かれた応接セットに、楊偉民と葉暁丹、それに銭波《チェンポー》が腰かけていた。銭波は上海のナンバー二だ。ゴリ押しが得意で、元成貴には疎まれていた。それでも、ナンバー二の地位を維持できたのは、暴力という重しで他人を押さえつける方法を熟知していたからだ。上海のやつらはたいてい、銭波を嫌っていた。だが、逆らうこともできなかった。せいぜいが、銭波と音が似てることにひっかけて、陰で日本語でちんぽ野郎と蔑むのがせいぜいだ。
「遅かったな」
楊偉民がいった。銭波は刺すような視線を送ってきた。葉暁丹はおれたちを無視した。胸の前で腕を組んで、宙の一点をじっと凝視していた。
「話はどこまで進んだんだ?」
おれはいった。だれも座れといってくれなかったので、立ったままだった。
銭波が舌を鳴らした。
「偉そうにしゃべりやがって。だれのせいでこんなことになったと思ってるんだ?」
「富春のせいだ。違うか?」
「半々野郎が、なめた口きくじゃねえか」
銭波が立ち上がった。だが、銭波の興奮は、葉暁丹が発した咳払いひとつでしぼんでしまった。
「座るといい」
銭波をちらっと睨んでから、葉暁丹はおれに顔を向けた。おれは小蓮の手を引いて、楊偉民と銭波に挟まれたソファに腰を下ろした。
「だいたいの話はまとまった」
おれたちが腰を下ろすのを待っていたかのように、楊偉民が話しはじめた。
「今回のゴタゴタは、孫淳と呉富春にすべての責任を取ってもらう」
「ふたりともくたばったぜ」
口を挟んでみた。楊偉民は小さくうなずいただけだった。
「都合がいいってもんだ。死人に口なしだからな」
銭波がいった。おれは無視した。楊偉民も葉暁丹も同じだった。
「つまり、ボスの座を狙った孫淳が、富春とつるんで元成貴を殺したってことだな?」
「そうだ。その後、仲間割れを起こして互いに撃ちあった」
「それで上海の方は納得するのか?」
銭波にきいた。
「ああ、おれとしても、これ以上のゴタゴタはごめんだからな。今日は六合彩だったんだぜ。その収入も半減だ。いつまでもくたばった人間のことにかかわっていられるか」
銭波は、得意げな笑みを葉暁丹に向けた。
「ま、おれに任せておきな。元成貴を捨てて孫淳とくっついた女も捕まえてあるし、なんの問題もねえ」
おれはちらっと楊偉民に視線を飛ばした。楊偉民は応じなかった。黄秀紅は賭けに負けた。それも、尻の毛まで抜かれたようなものだ。銭波にさんざん嬲《なぶ》られて殺される。それが賭けの代償だ。
「問題は、ある」
楊偉民がいった。銭波が口を尖らせた。楊偉民は相手にしなかった。
「おまえが崔虎を引きずり込んだせいで人が死にすぎた。孫淳は死んだが、手下は生き残っている。そいつらは、今度の件におまえが首までどっぷり浸かってることを知っている」
小蓮がおれの手をきつく握ってきた。その手を握りかえした。楊偉民の目を真っ直ぐ見つめ、いってやった。
「あんたが変な小細工をしなけりゃ、くたばるのは元成貴とボディガードだけだったはずだ」
「この件に関してはわしはいっさい関知していない」
「ふざけるなよ」
「そう決まったんだ」
三人の顔をじゅんぐりに見渡した。楊偉民は相変わらず涼しい顔でおれの視線をやり過ごした。銭波は睨みかえしてきた。葉はおれを無視した。目をあわせる必要もないという態度だった。
「諦めろ、健一。死んだ人間の大半は、台湾の人間だ」
「あんたが呼んだんだ。おれはあんなやつらがいるなんて、知らなかった」
「知らんでは通らん。それぐらいのことはわかっているだろう」
「おれにどうしろっていうんだ?」
おれは肩から力を抜いた。どう抗っても無駄なのだ。
「問題はもうひとつある」
楊偉民はおれの質問を無視した。
「つい二、三日前、名古屋から人が来た。名古屋の連中は呉富春を探していた」
小蓮を顧みた。小蓮の頬は心なし蒼ざめていた。目だけが爛々と輝いていた。
「富春は名古屋でなにをしたんだ?」
顔を前に向けた。言葉が自分で意識していたより低かった。話そうと思えば、楊偉民はその話をおれにすることもできたのだ。
「賭場を襲ったんだ。盗まれた金は二千万。麻雀をうっていた客がふたり死んだ。名古屋に古くから根を張ってる連中が仕切っていた賭場だ。彼らは潰された面子を元に戻したがっている」
「賭場を襲って二千万しか盗らなかったのか?」
「あいつは正真正銘の愚か者だ。客のバッグを持っていった。賭場にはその十倍以上の金があったそうだ」
「その連中は元成貴にもあいに来たぜ」
銭波が口を挟んできた。
「元成貴は、富春をぶっ殺して金を取り戻してやると請け負った。つまり、おれたち上海の組織が、名古屋の連中に約束したってことになってるんだ。わかるか、健一?」
うなずいた。元成貴の後釜に座るために、銭波は名古屋の連中との約束を守らなきゃならない。そういうことだ。
「金はどこにあるんだね、小姐《シャオジェ》?」
楊偉民が小蓮に顔を向けた。楊偉民はずっと小蓮を無視していた。タイミングをはかっていたのだ。
小蓮は身体を強張らせた。だが、それも一瞬のことだ。すぐに、いつもの調子で楊偉民に答えた。
「ないわ」
にべもない答えだ。銭波のこめかみの血管がそれを聞いて膨張した。
「もともと呉富春から受け取ってないのかね? それとも、もう使ってしまったということかね?」
身を乗りだそうとする銭波を手で制しながら、子供に道を訊ねるような口調で楊偉民はいった。
「あのお金はわたしが富春から盗んだの。わたしのものよ。賭場のことなんか、わたし知らないもの」
「小姐、そういう理屈はこの世界では通じないんだ。ここだけじゃない。どの世界でも通じない」
「わたしと健一が生きてる世界では立派に通じるわ。盗まれる方が悪いのよ。そうでしょう、健一?」
楊偉民と銭波がおれを見た。葉暁丹までがおれを見つめていた。おれは首を振った。
「小蓮、おまえは間違ってる。うまく逃げおおせることができたら、金はおまえのものだ。だが……わかるだろう?」
「健一……」
「わかったかね、小姐。これは子供の遊びじゃないんだ。金はどこにある?」
「ないわ」
楊偉民は辛抱強かった。好々爺《こうこうや》のように穏やかな笑みを浮かべて、小蓮の強情さに付き合っていた。
「なんに使ったんだね?」
小蓮は、うかがいをたてるようにおれの顔を見た。うなずいてやった。
「マンションの頭金よ」
「賢い小姐なのか、それとも馬鹿なのか……」
楊偉民はつぶやいた。ひとりごとのようだったが、おれに対する質問だった。
「小蓮はずっとひとりで生きてきたんだ。ルールを教えてくれる人間がいなかった」
「わしらの知ったことではない」
沈黙。だれも口を開こうとはしなかった。おれは小蓮を引き寄せた。沈黙が破れるのが恐かった。その先に待っているのは、お馴染《なじ》みの結論なのだ。おれと楊偉民が、最初からそこにあるのを知っていながら、出すのを引き延ばしにしていた結論が。
「どうする、健一?」
沈黙を破ったのは、やはり楊偉民だった。
「いま、二千万の手持ちはないが、金はおれが必ず作る。ちょっと待ってくれれば、マンションも売れるはずだ」
「待てない。わかってるはずだぜ、おい」
答えたのは銭波だった。元成貴の後釜に座るためには、だれよりも先に、元成貴が名古屋の連中とかわした約束を果たさなきゃならない。銭波の目はぎらついていた。
おれは楊偉民に救いを求めた。
「だめだ」
楊偉民は首を振った。
「葉先生なら、二千万ぐらい、すぐに出せるはずだ」
喉がかわいていた。鳩尾《みぞおち》のあたりに腫瘍《しゅよう》のような異物があって、そこから絶え間ない鈍痛が押し寄せてきた。
「日本人に貸す金などない」
葉暁丹がいった。吐きだすような口調だった。
「金は金だ。相手がだれだろうと儲けが出れば関係ないはずだ」
「だからいったのだ、偉民」
葉暁丹はおれを無視して、鶏のように皺《しわ》だらけの顔を楊偉民に向けた。しゃべるたびに、白濁した唾液が飛び散っていた。
「半々なんぞを甘やかすものじゃない。こいつらはつけあがるだけだ」
「葉先生、たしかに健一はろくでなしの半々です。ですが、一度は孫同然だったのです」
楊偉民はおれの顔を見ながらいった。言葉とは裏腹に、厚い瞼《まぶた》に埋もれた目はじっとおれの顔色をうかがっていた。
「健一、あきらめろ。金がないのなら、死体を渡すしかない。呉富春の死体だけでは足りんのだ。おまえの失策はなんとかしてやることができる。だが、そちらの小姐は無理だ」
小蓮に視線を向けた。小蓮はハイエナの群れに出くわした小鹿のようだった。すっかり怯え、焦点のあわない視線をあちこちにさまよわせていた。おれが見つめていることにも気づいちゃいなかった。
小蓮を見た瞬間、おれのなかでなにかが弾けた。どろどろとした粘液みたいなものがおれの腹の中で渦巻いていた。小蓮を楊偉民に渡すべきだった。だが、おれにはそうすることができなかった。小蓮は、やっと見つけた宝物だ。おれと同じようにものを見て、おれと同じように考える。小蓮を切り捨てる。頭じゃわかっていた。だが、できなかった。小蓮はおれのものなのだ。やっと見つけたおれの女なのだ。この先ずっと、小蓮と一緒にいられるなんて馬鹿げた夢を見てるわけじゃない。いつか、どっちかがどっちかを裏切る。わかりきってる。それでも、いまこの瞬間、小蓮はおれのものなのだ。
「健一」
楊偉民がいった。おれを促していた。
「おれは半々だ。あんたたち、中国人の面子なんか知ったことじゃない」
さっと立ち上がった。同時に黒星を抜いた。自分でも驚くほど滑らかな動作だった。おれと一緒に立ち上がりかけていた銭波が、銃を見て動きをとめた。
「気でも狂ったのか、健一」
楊偉民は平然としていた。悲しげに目を細めただけだった。
「小蓮はおれの女だ。たったひとりのおれの身内だ。だれにも渡さない」
「わしらに銃を向けてどうなる。死んだも同然だぞ」
「あんたたちにはおれを追い回してる余裕はない。元成貴がくたばったんだ、崔虎が動き出す。あんたたちは、崔虎に対する善後策を練るために集まったんだ。おれはたまたまひっかかった魚だ」
三人に銃口を向けたまま後退った。小蓮はおれにぴったり寄り添っていた。おれがハイエナたちに牙《きば》を剥いたことで、小蓮は自分を取り戻していた。小蓮は怒りと憎悪に燃えていた。衣服を通してさえ、小蓮の体温がおれに伝わってきた。
「健一、殺して。こいつらを殺して」
小蓮はおれの耳元で囁《ささや》いた。蕩《とろ》けるほど甘い蜂蜜のような声だった。おれはその声が発する強力な誘惑に耐えた。
「ついさっき報せがあったんだが」
楊偉民がいった。飲茶《ヤムチャ》の最中のような場違いな声だった。
「戸山の崔虎のマンションが何者かに襲われたらしい」
胃の鈍痛が、きりきりと痛みだした。程恒生は今夜は手を出さないといった。だが、それを信じるのは間抜けのすることだ。
「もちろん、上海の連中やわしら台湾人の仕事ではない。だれかが、香港の連中に密告したんだ」
「崔虎はどうなった?」
「無事だ。ただ、かなりの人数が死んだらしい。崔虎にも動く余裕はなくなった、ということだ」
「相変わらず、耳がいいな」
「どうする、健一。これでもわしらに銃を向けるのか? わしはともかく、ここにいる銭波と葉先生は地獄の果てまでおまえを追いかけるぞ」
「おい、健一。おれの手下どもが飛んでくるぞ。葉先生の家に上げるのは無粋だと思って、外で待たせてるんだ」
銭波がいった。顔が真っ赤に染まり、目にはプライドを傷つけられた怒りの色が浮かんでいた。
「だれもいなかった」
おれはいった。いいながら、頭の中じゃ楊偉民の言葉を繰り返していた。だれも気づいちゃいないが、楊偉民の言葉には裏がある。
「あほ。見るからに下品なやつらだぞ。車で近くを流させてるんだ」
「小蓮、銭波は銃を持ってるはずだ」
小蓮はすぐに動いた。おれは銃口を銭波に向けた。銭波は不服そうに両手を挙げた。小蓮が銭波を睨みながら、スーツの中を探った。すぐに、小蓮は銃を見つけてこっちへ戻ってきた。小蓮の手に握られているのは銃身の短いリヴォルヴァーだった。
「健一、おまえはずっとわしのやり方を見てきた。わしからなにも学ばなかったのか?」
おれが小蓮から銃を受け取ると、楊偉民がいった。
「なんといわれようと、おれはもう決めたんだ。小蓮はおれといっしょにいく」
楊偉民は小さく首を振った。
「偉民、もうよい。この半々は死にたがっておるのだ。好きにさせてやれ」
葉暁丹がいった。いまじゃ、まともにおれを睨んでいた。おれは銃を持ちかえた。右手にリヴォルヴァー、左手に黒星。リヴォルヴァーの銃把は、黒星のそれよりおれの掌にはしっくりきた。リヴォルヴァーを葉暁丹に向けた。手が震えることはなかった。フィルターかなにかをかけられたように、おれの感情の一部は麻痺していた。
「楊偉民、おれはあんたからいろんなことを学んだ。それは本当だ」
おれには楊偉民の考えがわかっていた。おれに葉暁丹と銭波を殺させたいのだ。葉暁丹が死ねば、楊偉民の頭を抑えこめる人間がいなくなる。銭波が死ねば、上海のやつらはトップ争いに目の色をかえて、他のことにかまけてる余裕がなくなる。ほんのしばらくの間だろうが、歌舞伎町は昔のように楊偉民がすべてを支配する街に戻るのだ。たぶん、葉暁丹の金をかすめる方法も考えてあるのだろう。だからこそ、おれにだけわかる言い方で伝えてきたのだ。
葉暁丹と銭波を殺せ、あとはうまくやってやる——と。
「爺さん、この家には一丁ぐらい銃があるんだろう?」
葉暁丹と銭波はおれの言葉が理解できないという表情を浮かべていた。楊偉民だけが、満足そうにうなずいた。
「おれが最初に学んだのは、あんたの言葉を全部信じちゃ駄目だってことだ。銭波はあんたが始末をつけるんだな」
リヴォルヴァーの撃鉄を起こし、引き金を引いた。予想外に大きな銃声だった。弾丸は葉暁丹をそれ、後ろの壁に穴を開けた。もう一度撃った。今度は葉暁丹が吹き飛んだ。
それで充分だった。葉暁丹はまだ生きてるかもしれないが、とどめは楊偉民がさすだろう。おれは右手のリヴォルヴァーを楊偉民に放り投げた。
「行くぞ、小蓮」
小蓮の手を引いて、玄関に向かって走った。