3 手 配
血が……。血が滴《したた》り落ちて来る。
ポタッ、ポタッ。
まるで時計の秒針のように正確に、それは規則正しく落ちて来る。
ポタッ、ポタッ。
女の子は、腹を裂かれていた。──やめてくれ! あんなもの、見たくないんだ!
忘れたい。忘れてしまいたいのだ。それなのに……。
女の子はそ《ヽ》こ《ヽ》に横たわっている。体を切り裂かれても、まだびっくりしている余裕があったのか? その顔は、苦しげに歪《ゆが》んでいるのでなく、びっくりしてポカンと口を開けている。
ほんの一瞬、しかも暗い中で見ただけなのに、どうして憶えているんだろう? どうして忘れてしまわないんだ?
ポタッ。──ポタッ。
冷たい一滴が、顔の上で弾けた。
「ワーッ!」
ケンジは叫んだ。飛び上って、悲鳴を上げた。
やめろ! もういやだ!
両手で頭を抱え込んで……。しばらくじっとしていたケンジは、自分が一人だけなのを知って、ゆっくりと周囲を見回した。
どこだ? ここは何だろう?
コンクリートの冷たい部屋。床も、壁も、天井も、むき出しのコンクリートである。
窓が高い所に一つだけ空いて、光が射し込んでいる。
ポタッ。──ポタッ。
天井に、太いパイプが通っていて、その水滴はパイプの結露のようだった。
ケンジは、体中で息をついた。今、自分がもたれかかっているのは、スチールの扉で、中ではゴトゴト音がする。
どうやら、ここはボイラーか何かの納めてある部屋らしい。たぶん地下なのだろう。
窓が高くて、平たい長方形をしているのも、あそこがたぶん地面の高さだからに違いない。
ケンジは、何度も息をついて、やがて自分がどうしてこんな所にいるのか、思い出して来た。
ゆうべ……。哲郎の兄貴と「車荒し」をやっていて、パトカーに追われたのだ。
そして、警官が一人、ケンジを追って来た。
逃げられたのは、偶然と言う他ない。
警官が、何かにつまずいて転んだのだ。相当ひどく膝を打ったようで、起き上れずにいた。
ケンジはもちろんその間に逃げて……。でも、じきにパトカーが何台もやって来た。
どっちへ行っても警官だらけで、ケンジはくたびれ切ってここへ入った。
ドアが開いたのだ。──そして、この床でうずくまって寝た。
本当なら、こんな所、えらく寒いだろうが、ボイラーの熱のおかげか、結構暖かい。
もう警官はいないだろう。──外へ出よう。
ケンジは伸びをした。
「畜生! 顔でも洗いてえや」
と呟《つぶや》いて──。
自分の両手を見て、ギョッとする。
血。──少女。
あ《ヽ》れ《ヽ》は幻でも夢でもなかったんだ!
誰かが女の子を切り裂いて、あの植込みへ押し込んで行った。──ひどいことをする奴《やつ》がいるものだ。
もちろん、死体を見付けはしたものの、別に俺が殺したわけじゃない。何も心配することなんかないんだ。そうだとも!
ケンジは、ドアの方へ近付いて、足を止めた。
カチャリと音がしてノブが回り、ドアがキーッと金属音をたてて開いたのである。
ドアが開く音を聞いて、野田は、
「黙って入るな!」
と顔を上げながら怒鳴った。「──何だ、旦那か」
コートをはおった五十がらみのその男は、〈社長室〉へ入って来ると、
「どこだ」
と言った。
「小堀さん。何がどこだ、って訊いて下さいよ」
と、野田はボールペンを置いた。
「分ってるだろ」
小堀は椅《い》子《す》を引張って来てかけると、 「中野哲郎、久保健二。──二人はどこにいる?」
コートぐらい脱いじゃどうです、と言いかけてやめた。刑事に余計なことは言わないに限る。
「さあ……」
と、肩をすくめて、「あいにく、あの二人の子守りはやってないもんでね」
「隠せば罪だ。分ってるな」
「──小堀さん。あの二人が何をやったって言うんです?」
「殺しだ」
野田は、ちょっと笑って、
「──まさか」
と言った。
「こんなことが冗談で言えるか」
小堀は真剣だ。野田にも分った。
「あの二人が?──誰をやったんです?」
小堀刑事は、手帳を開けて、
「古畑圭子、十六歳」
「十六? 十六ですか」
「それも、刃物で胸から腹へ、一気に切り裂かれてな」
野田は顔をしかめた。
「ひどいですな」
「哲郎とケンジは?」
「──私は知りません。いや、確かにあの二人は私の所の『若いもん』です。いや、『でした』ってところですな。そんな真似《まね》をする奴は、うちへは来てもらいません」
「都合のいい話だな」
小堀刑事は苦笑して、「しかし、二人には頼るところがない。ここへ連絡して来る。お前がそれを助けようとしたら、すぐ引張ってやる」
「しませんよ、そんなこと」
と、不服な様子で、「うちはね、これでも暴力沙《ざ》汰《た》は嫌いですから」
「しかし、あいつらはや《ヽ》っ《ヽ》た《ヽ》。──お前を罪に問うことはできなくても、必ずけりはつけさせてやる」
と、小堀は言った。
ドアが開いて、
「──あ、ごめんなさい」
「やあ、アケミか」
小堀も、アケミのことは昔から知っている。「元気そうだな。少し太ったか?」
「女の子に、その言葉は禁物よ」
と、アケミは笑って言うと、「後でまた来るわ」
「いや、もう帰るところだ」
小堀は立ち上って、「野田に、くれぐれも馬鹿な真似はしないように言っといてくれ」
「この人、私の言うことなんて、聞いちゃくれないわ」
「そうか。──じゃ、野田。連絡が入ったら、必ず知らせろよ」
「よく分ってますよ」
と、野田が肯く。
小堀が帰って行くと、アケミは野田のそばへやって来て、
「何の話?」
と訊《 き》いた。
「──ゆうべ、哲郎から電話があったのを憶えてるか」
「ええ。でも、何の話かは知らないわ」
「忘れるんだ、電話があったことも。──いいな」
野田の口調に、アケミは戸惑った様子で、
「何をしたの、あの子? いい子じゃない、やさしいし」
「そいつが、とんでもないことをしてくれたのさ」
と、野田は苦々しげに言うと、「──何か用事なのか?」
「うん……。ちょっと出かけたいんだけど。車を使ってもいい?」
「自分で運転するのはよせ。誰かに任せるのなら使っていい」
「でも──悪いわ」
「事故を起こされるよりいい。誰かと会うのか?」
「母さんと。──誕生日なの」
「お袋さんの? じゃ、どこかへ連れてって旨《うま》いもんでも食べて来い」
野田は穏やかな表情になって、「金がいるんだろ?──持ってけ」
札入れを丸ごと渡す。
「ありがとう」
アケミは、野田の額にチュッと音をたててキスした。
「よせ、口紅がつくだろ!」
「拭《ふ》いといてあげる」
と、アケミは笑ってティッシュペーパーでこすると、「──じゃ、夕方には戻るわ」
「お袋さんと晩飯を食べて来い。俺はパーティがある」
「そう? ありがとう」
アケミは浮き浮きした足どりで〈社長室〉を出て行った。野田は念のため、もう一度ティッシュペーパーで額を拭いた……。
「やれやれ」
小堀刑事の話はショックだった。すぐにインタホンで、事件のニュースをやっているか調べろと命じて、
「哲郎が?──まさか」
と考え込む。
十六歳の女の子を殺したって?
確かに、哲郎もケンジも若くて、血の気は多い年ごろだ。頭に血が上って、女の子を襲うことも──いや、哲郎は少なくとも、そんなタイプではないが。
問題は、警察が二人を犯人だと思《ヽ》っ《ヽ》て《ヽ》い《ヽ》る《ヽ》ことで、そうなったら「本当はどうなのか」なんてことは関係ないのだ。
いずれにしても、野田にとって大切なのは、自分の身を守ることで、それは同時に自分がここまで作って来た「組織」を守ることである。
そう。──あの小堀という刑事は馬鹿ではない。きっと哲郎とケンジの二人を捕まえるだろう。
だが、そのときには二人とも野田と何の関係もない人間になっていなくてはならないのだ。たとえ二人のどっちかが助けを求めて来ても、野田にはどうしてやることもできない。
野田は引出しをあけると、タバコを取って火をつけた。──アケミが見たら、文句を言うだろう。このところ、野田は禁煙していたからである。
アケミ……。あいつは可《かわ》愛《い》い奴《やつ》だ。
そう。アケミのためにも、今は何もかも失うわけにはいかない。若いチンピラ二人のために、危い真似はできない……。
二口、三口喫って、野田は顔をしかめた。ちっとも旨くない。
野田は、灰皿にタバコを押し潰《つぶ》そうとして──灰皿がなかったことに気が付いたのだった。
「見た?」
と、一人の生徒が教室へ駆け込んで来た。
昼休み。──教室の中は、いつもの通り騒がしかったが、それでも雰囲気はどこか違っていた。
重苦しいとか、悲しみに沈んでいるというのとは違って、必死にいつもの調子を取り戻そうとして手探りしている、といった状態であった。
「TVに出てた! 二十歳の男、二人だって!」
紀子は、顔を上げた。──他のみんながワッと席を立つ。
「ねえねえ、捕まったの?」
「殺しちゃえばいいよ、そんなの!」
と声が飛ぶ。
すると、
「──静かにしろ」
と、男の声がして、「席につけ」
みんながザワザワと席へ戻ると、担任の矢川が入って来て、教壇に上る。
「今朝の校長の話で聞いた通り、一年生の古畑圭子が可哀《かわい》そうなことになった」
と、ずんぐりして、よく日に焼けた英語の教師は、淡々とした口調で言った。「今、TVでも放送されていたが、犯人は二十歳の男二人組で、駐車場の車から物を盗んでいるところを、遅く帰った古畑に見られ、襲ったということらしい。──運が悪かったと言う他はない」
教室の中は静かだった。──昼休みに、こんなに教室が静かだったことは、たぶん一度もなかっただろう。
「犯人は指名手配されたから、遠からず捕まると思う」
と、矢川は続けた。「みんな、充分に気を付けるように。夜遅くなるときは、必ず自宅から誰かに迎えに来てもらうとか、友だちと一緒に帰るとかして、一人で寂しい道を歩かないようにしろ」
矢川は、軽くため息をついた。
「──古畑は俺も教えてた。いやなもんだな」
「先生」
と、一人の生徒が言った。「犯人は何ていう男ですか?」
「ああ。──メモがあったな。警察から知らせて来てくれたんだ。みんなも、もし見かけたら、通報しろ。写真が貼《は》り出されるはずだ」
矢川は、手もとの紙を広げて、「一人は……久保健二。もう一人は中野哲郎。──どっちもチンピラのヤクザだ。いいか、ディスコとかでフラフラ遊んでると、こういう手合と付合いができたりする。気を付けるんだぞ」
紀子は、伊東みどりの目がこっちを見ているのを感じていた。紀子の表情は全く変っていないはずである。
「──それだけだ。古畑の葬儀などに関しては、詳しく分り次第、連絡する」
矢川は、ちょっと肯《うなず》いて見せ、教室を出て行った。
再び教室の中がざわつく。けれども、それはどこか押し殺したようなざわめきだった。
「──紀子」
伊東みどりが、紀子の席のそばへ来る。
「しっ」
と、紀子は小さく首を振って、席を立った。
二人はベランダへ出た。二階から、校庭が見渡せる。──女子校の校庭なので、大して広くはない。
「爽《さわ》やかな日だね」
と、紀子は言った。
「うん……」
と、みどりが曖《あい》昧《まい》に肯く。
「黙っててね。──私の付合ってた相手のこと」
「じゃ……。やっぱり、あの人?」
「うん。でも、彼がやったんじゃない」
「だけど警察が──」
「間違えることだってあるわよ、警察も」
「それはそうだけど──」
と言いかけて、「紀子。話したの? あの人と」
紀子はみどりを見た。──みどりは大柄だが気の弱い子で、しっかり者の紀子を頼りにしている。
「うん」
と、紀子は肯いた。「でも──もう会うことないだろうな。そう言って、行っちゃったから」
「そう……」
「みどり。──黙っててね。お願いよ。私だって、彼がどこに行ったか知らないんだし」
紀子がみどりの腕に手をかける。みどりは大きなクリッとした目を見開いて、肯いた。
「紀子……。どうするの」
「どうする、って?」
「だって──おとなしく見てる紀子じゃないでしょ」
みどりの言葉に、紀子の方がびっくりして目を丸くした。