6 奇妙な組合せ
「おかしい」
と、泉は首をひねった。「おかしいですよ、どうも」
「そう言ったって、現に死体が消えてなくなってるんだから」
と、古畑良介は言った。
「まあね」
と、泉は渋い顔で、「あんなもの、持っていく物好きはいないと思いますがね」
泉と古畑は、あの非常階段の下に立っていた。──そろそろ夕方という時間だったが、もともと人の通る場所ではない。
子供たちが、ワーワーと声をたてながら駆け抜けて行った。
「──はっきり言ってください」
と、古畑は言った。「あいつが生《ヽ》き《ヽ》て《ヽ》た《ヽ》って可能性は?」
泉はぐっと詰った。
「そんな……。生きてるわけがない! あの高さから落ちたんですよ」
「しかし、こうして死体がなくなってるじゃありませんか」
泉としても、そう言われると反論できない。
確かに、あのとき下へ落ちた男の脈でもとってみれば良かったのだろうが、あれだけ殴りつけ、しかもあの高さから下へ落ちているのだ。常識では、とても生きているとは考えられない。
「まあ、心配する必要はありませんよ」
と、泉は笑顔を作って、「万一、何かあったとしても、みんな知らん顔をしてます。何の証拠もないし」
「そんなことじゃ困るんだ!」
と、古畑は怒鳴った。「いい加減なことを言うな! あんたが大丈夫だと言ったから、私はあいつを──」
「しっ!」
と、泉はあわてて、「人に聞かれたらどうするんです」
と、たしなめた。
「落ちついて下さいよ。私のことを責められてもね。私はあなたが喜ばれるだろうと思って──」
泉は、カタッという物音を聞いて、ハッと振り向いた。「誰かいるな!──誰だ! 出て来い」
非常階段の向う側に人の気配がある。泉は、ゆっくりと近付いて、
「誰だ? そんな所で何してる」
と、声をかけた。「おとなしく出て来ないと──」
スッと──背の高い若者が、片手にバッグをさげ、もう一方の手で少女の肩を抱いて現われた。
「隠れてたわけじゃないですよ」
と、その若者は言った。「この子と二人で話をしてただけでね。こっちの方が先にいたんだ」
古畑が、目をみはっている。
「──和男か!」
泉がびっくりして振り向き、
「あの──」
「古畑和男です」
と、若者が言った。「今、着いたところです」
「そう……。そうでしたか」
と、泉は息をついて、「確か──アメリカへ行っておられた?」
「そうです。圭子のことを聞いて、帰って来ました」
「ああ……。全くお気の毒なことでした。いや、本当に……。じゃ、古畑さん、私はこれで」
「ああ」
と、古畑が肯《 うなず》く。
泉が行ってしまうと、父と息子はしばらく黙って向き合っていた。
「和男……。でかくなったな」
と、古畑は言った。
「まあね」
「その子は?」
「和男君の友人です」
と、少女が言った。「紀子といいます」
「フン、ガールフレンドか。さぞ圭子が喜ぶだろう」
古畑は肩を揺すって、「母さんが待ってるぞ」
「すぐ行くよ」
「ああ……。線香の一本でもあげてやれ」
古畑は素気《そつけ》なく言って、立ち去った。
少女はホッと息をついて、
「どうもありがとう」
と言った。
「いや、どうってことじゃない。あの泉って人は、元警官なんだが、やめてからも他人のことを監視して面白がってるようなところがあってね。嫌いだったな、昔から」
と、和男は言った。「君は──」
「間近紀子といいます」
と、少女は言った。「殺された圭子さんのお兄さんなんですね」
「うん。君はここで何をしてたんだ?」
「ええ……。ちょっとわけがあって」
と、紀子が口ごもる。
「無理に言わなくていいよ。さ、僕も家へ帰る」
二人は一緒に歩き出した。もちろん、和男はすぐに建物へ入ることになるので、
「じゃ、ここで」
と、足を止めた。
「どうもありがとう」
建物の入口で、二人は別れた。
紀子は、和男がバッグを手に歩いて行くのを見送って──。パラパラと何かが落ちて来た。
上を見ると、何か黒いものが真直ぐに──。
「危い!」
紀子は、和男の背中へと突っ込んで行った。
二人が重なるようにしてコンクリートの上に倒れると同時に、甲高く弾けるような音がして、土や小石が飛び散った。
「──何だ?」
と、和男が起き上る。
「何か上から……」
と、紀子は言った。
「植木鉢だ」
鉢が粉々に砕け、中の土が何メートルも周りに飛び散っている。
「──危いところだ」
和男は、立ち上って、「君──けがしなかったかい?」
「はい……。大丈夫」
和男がのばした手を、紀子はつかんで、立ち上った。
「お礼を言わなきゃ」
と、和男はそっと上へ目をやって、「頭に食らったら、命がないところだ」
「でも──どうしてこんな物が?」
「よく、手すりに植木を置いてる人がいるんだ。危いから、やめるように、っていつも言ってたんだがね」
「そうかしら」
紀子の言葉に、
「どういう意味?」
と、和男が紀子を見る。
「もし誰かが──」
「僕は、そんなVIPじゃないぜ」
和男は笑って、「君……紀子君か。圭子と似たところがあるな」
「同じ学校の後輩でした」
和男がびっくりしている内に、
「失礼します」
と、一礼して、紀子は駆け出して行った。
エレベーターの扉が開いて、
「和男!」
と、伸子が出て来た。
「お母さん。──ただいま」
和男は、母の手を握った。──伸子は、言う言葉がうまく見付からない様子で、
「よくまあ……。元気そうね。でも……こんなことでね……」
「母さん。しっかりして」
和男が肩を抱く。「父さんとはそこで会ったよ」
「少しおかしくなってるの。気を悪くしないで。お願いよ喧《 けん》嘩《 か》しないでね」
「分ってるよ」
和男は、やさしく母の肩を叩《 たた》いて、 「さ、家へ行こう」
と促したのだった……。
死体。──死体が消えた。
あの二人は確かにそう話していた。あれは何だったんだろう?
紀子は、歩きながら考え込んでいた。
あれが古畑圭子の父親だったとは。──紀子は、あの父親と息子の間に微妙な緊張感があることに気付いていた。
車が来たので、やり過ごそうと足を止めると、その大型の外車はスッと停《 とま》り、窓から見知った顔が覗《 のぞ》いた。
「やあ」
と、野田が言った。「乗らないか」
紀子は、ちょっとためらったが、
「同じ犯人を捜してる仲間だろ?」
と言われて、車に乗り込むことにしたのだった。
「今日は制服じゃないのか」
と、野田が言った。
「制服マニアですか? そういうのって好きじゃないなあ」
と、紀子は言った。「今日は学校が早く終って、一度家へ帰ってから出て来たんです。友だちと映画を見てくると言って」
「すると夕飯は?」
「どこかで食べてくる、って言って出て来ました」
「それはいい」
と、野田は肯いて、「じゃ友《ヽ》だ《ヽ》ち《ヽ》と食べようじゃないか」
と言った……。
「──こんな所。服装が合いません」
紀子は、やや気がひけて、ホテルの最上階にあるフランス料理のレストランに入って来る。
「裸でなきゃ大丈夫」
と野田は言って、紀子がポッと赤くなったのを見ると、「や、失礼。そんな意味で言ったんじゃないよ」
「──どうしてあんなこと、できたのかなって。ふしぎでした」
窓ぎわのテーブルについて、紀子は言った。
「俺だってびっくりしたさ。君のような子供の言うことを聞いちまったんだからな」
「子供?」
紀子はメニューを広げて、「子供を抱くんですか?」
「少しは俺も若返るかと思ってね」
と、野田は言った。「さあ、食事をしよう。栄養をつけて、真犯人を見付けてやらなくちゃな」
紀子が、ちょっと辛そうに、
「哲郎が──お腹《 なか》 空《 す》かしてるかもしれないと思うと……」
と言ったが、「でも、私が食べなくても、哲郎のお腹にその分入るわけじゃないんだし!」
野田はちょっと笑って、
「全く愉快な奴だ。さあ、今は食ベることだけ考えよう」
と、メニューを眺めた……。
「──死体だって?」
と、野田は言った。
「小さな声で」
と、紀子があわてて言った。「そんなことには慣れてるのかと思ってた」
「おい」
と、野田は顔をしかめ、「〈アンタッチャブル〉時代じゃない。そうそう人が死んでたまるか」
──食事はおいしかった。
食事の間は、どちらもあえて事件のことは話さなかったのである。やっと、デザートになって、初めて紀子が今日の出来事を話したのだったが……。
「死体のことを話してたんだな、そいつは?」
と、野田が低い声で訊《 き》く。
「ええ。殺された古畑圭子さんのお父さんと、泉っていう年寄りです」
「泉……。元警官の?」
「知ってるんですか」
「ああ。──ちょっとな」
野田は、それまで黙ってデザートのババロアを食べていたが、「──なあ。何と呼べばいい? 紀子、じゃ気を悪くするか?」
「どうぞ」
と、肩をすくめて、「できたら『君《 くん》』でも付けてほしいけど、ぜいたくは言いません」
「言うことがはっきりしてて、気持がいい。──な、紀子。心配させたいわけじゃないが……。その『死体』は、ケンジの奴だ」
紀子の手が止った。
「──一緒に逃げた人?」
「うん。死んだ。──殺された、と言った方が良さそうだ」
野田が事情を説明すると、紀子は目をつぶった。
「──どうした?」
「想像してるんです。思い浮かべてるんです。ケンジって人の痛さと苦しさを」
紀子は目を開けた。「あの人たちがやったんだわ」
「泉の奴め!」
と、野田はナプキンをギュッと握りしめた。「二人でやったことじゃないな」
「ええ、『みんな』とか言ってましたから」
「リンチか……。まるで昔の暗黒時代だな」
と、野田は首を振って言った。
「哲郎も、もしかして……」
「いや、あいつは大丈夫だろう。頭のいい男だ。ケンジはすこし抜けてた」
と、野田はため息をついて、「しかし、それがいいところだったんだ」
「分ります。哲郎も、よくブツブツ言ってたけど、憎めない子だとか」
「そうなんだ。気のいい奴で……」
野田は咳《 せき》払いして、 「よく知らせてくれたな。捜す手間が省けた」
「待って下さい」
と、紀子は言った。
「何だ?」
「まさか──殺したりしませんよね」
「その二人をか?──さあ。できるもんなら、やってやりたいね」
と、野田は言った。「しかし、今はそんな時代じゃない。分ってるとも。ただ、きちんと落し前はつけてもらわないとね」
「それなら……」
と、紀子は何か思い付いた様子で、テーブル越しに身をのり出した。
「──何だ。キスでもするのかと思ったぞ」
と、話を聞いた野田が笑った。「うん、それがいい。なかなか面白いことを考える奴だな」
「賞《 ほ》めてるんですか? でも、哲郎、どこにいるんだろう」
コーヒーが来て、紀子は、ため息をついた。
「あいつは何とかするさ」
「それで……女の子を殺した犯人の方は、どうやって捜すんですか?」
「俺たちは、ワルの動向に関しちゃ情報網があってね。古畑圭子の前に一人の女の子が殺されてる。憶えてるか?」
「ええ。同じ犯人かもしれないって」
「そうだ。もし哲郎が捕まったら、あれも奴のやったことにされちまうだろう」
と、野田は肯いた。「前の事件のとき、哲郎は俺の用で大阪へ行っていた。しかし、もちろん、俺の証言じゃ、警察は信じちゃくれまい」
「じゃ、何か具体的に──」
「そういう奴は、たいがい前にそれらしいことを起こしてるもんさ。だから、その類《 たぐい》の男を捜してみる。みんなに声をかけてある。何か引っかかって来るだろう」
「ありがとう」
「礼にゃ及ばねえ。──これがケンジの弔《 とむら》いにもなるってもんだ」
他のテーブルの笑い声が聞こえて来た。野田は、ふと、
「──あの声は」
と振り向く。「やっぱりか!」
二人から少し離れたテーブルで、若い女と食事している男。
紀子の目から見ても、こういう場所にふさわしいタイプの男ではない。
「知ってる人?」
と、紀子が訊く。
「ああ。どっちもな」
と、野田は肯いた。「なあ、紀子。間近っていったか、姓は?」
「うん」
「すると……頭文字が〈M〉。俺が野田で〈N〉。〈MとN探偵事務所〉でも開くか」
「冗談言ってる場合ですか」
と、紀子がにらむ。
「そうおっかない顔、するなよ」
と、野田は苦笑して、「──あそこにいる男の顔、憶えとけ」
「ええ。──どうして?」
「小堀って刑事だ」
と、野田は言った。