7 影
面白くない……。
──工藤良子にとって、人生は面白くないことの連続であった。
といっても、大した経験をしてきたわけでもない。何しろ良子はまだ十七歳なのだから。
もちろん、十七歳は十七歳なりに「世界」や「生活」を持っているわけで、それが一向に面白いことに結びつかない、ということなのである。
みんな凄《 すご》く面白いことに出会ったり、面白いものを買ったりしてるのに、どうして私は……。
「いつも口を尖《 とが》らしてると、そんな口になっちゃうよ」
といつも母に言われていても、つい口を尖らして歩いてしまう良子だった。
その、口を尖らした顔を、「可《かわ》愛《い》い」と思う男もいた。だが、それは良子のボーイフレンドになるべくもない男だったのである。
──夜、十時を少し回って、良子は駅への道を歩いていた。
いつもこう遅いわけではないが、十時というのは良子の感覚では「早い」し、母親の感覚では「遅い」。この辺が難しいところである。
何人かの友人とカラオケをやっていたので、それが尾をひいて、夜道を歩きながら小さな声で、好きなグループの新曲を歌っていた。
でも──良子は自分でも分っていた。歌が下手なので、いやになってしまう。みんな上手なのに……。
そう。家にカラオケセットを持ってる子が大勢いるんだから。上手になるはずよね!
でも、良子の家では、父も母もカラオケとかが大嫌いで、決して人前では歌わない。
だから、カラオケやってて遅くなった、というときは、ご機嫌が悪いのである。
今日も、こんな時間になってしまった。帰ったら、さぞかし文句を言われるだろう。
といって、帰らずにどこかで夜を過ごすだけの度胸は、良子にはなかった。
セーラー服姿のままだから、そうフラフラしていられない。駅の近くは結構先生たちが見回っているので、用心しなきゃいけないのである。
もし、先生に見付かって叱《 しか》られでもしたら──いや、叱られるのは平気だが、家に連絡が行ったら、毎月のこづかいをストップされてしまう。
「うるさいんだから、全く!」
と、良子は呟《 つぶや》いた。
ゴーッと音がして……道を曲ると、ガードをくぐる。電車が上を駆け抜けて行ったのである。
もう駅は近い。あの次の電車には乗れるだろう。
車が一台、後ろからやって来て、良子は少し脇《 わき》へ寄った。
ライトが良子の影をガード下の壁に投げかけていく。──良子は、もう一つ、人影が壁に映るのを見た。
誰だろう? 振り向くと、もう車は行ってしまったので暗くなっていたが、ガード下へ入る辺りに、男の姿がシルエットで浮んでいた。
男は立ち止っていた。良子を見ている。はっきりとそれは分った。
良子は、気味が悪くなって歩き出した。コツコツ──。男の靴音もついて来る。
もう一度足を止めて振り返ると、男も足を止める。
「──誰?」
と、良子は声をかけた。「何か用?」
男は黙っていた。コートをはおっているようだが、それ以上は何も分らない。
「ついて来ないでよ!」
と言ってやって、良子は歩き出した。
ガードをくぐって、その道を少し先で曲れば、駅前へ出る。まだ充分明るいはずだし、人通りもあるはずだ。
足を速めて──良子は、大して心配していなかった。
しかし、突然、タタッと足音が追って来た。振り向くと、男が駆けて来る。
良子自身も、どうしてそんなことができたのかよく分らないのだが、とっさに鞄《 かばん》を男の方へ投げつけていた。
鞄は、男の前に落ちた。ちょうど、男はその鞄につまずく格好になった。よろけた。
良子は駆け出した。ガード下を抜け、そのまま必死に走る。男の足音が追いかけて来た。
助けて!──そう叫ぼうとしたが、全力で走っていて叫び声を上げるというのは容易でないと良子には分った。
セーラー服のダブッとしたスカートが、こんなときは足に絡みつくようで、走りにくいことも分った。しかし、今さらどうすることもできない。
あと少し人《 ひと》 気《 け》のない道が続いていたら、良子は追いつかれていただろう。
しかし──たぶん、良子の一生の内で、これほど必死に走ったのは、生れて初めてか、小学一年生のときの運動会以来だったろう──男がすぐ背後に迫ったとき、良子は駅前を見渡せる場所へ出ていた。
そして、
「ワッ!」
目の前にいた男にぶつかって、一緒に引っくり返ってしまったのだ。
「何しやがる!」
と、その男は怒鳴った。
「ご、ごめんなさい……。でも──追っかけられて」
と、良子が急いで振り向くと──。
追って来た男がハッと足を止め、右手につかんでいた物をコートの下へ隠すところだった。
「キラッと光ったぜ」
と言ったのは、良子とぶつかった男の仲間らしかった。「兄貴、大丈夫かよ?」
「俺はいい!」
と、「兄貴」と呼ばれた男は立って、「逃げたぞ。今の奴《 やつ》を追いかけろ!」
「へい!」
と、もう一人が、あのコートの男を追って駆けて行く。
良子はポカンとしていた。──ぶつかった相手はどう見ても怖そうなヤクザで……。
「もしもし」
と、そのヤクザが携帯電話で話している。「──浜田です。今、K駅前ですが、ナイフを持った男が、女学生を追いかけてました。──ええ、無事です。男は逃げました。ガードをくぐって、市場の方へ。今、三郎が追いかけてます。──ええ。顔は見えませんでした。コートを着てます。──分りました」
浜田というそのヤクザは、ペタッと座り込んでいた良子を、
「しっかりしな」
と立たせた。
「──すみません」
と、良子はまだ呆《ぼう》然《ぜん》としている。
「危いとこだったぞ。もう何秒か遅かったら、殺されてるとこだ」
「はい……」
「もういいから帰んな」
「ええ」
良子は、ボーッとしている。
「──どうかしたのか?」
「いえ……。鞄が──」
「鞄?」
「男にぶつけて来ちゃったんです」
「何だ、そうか。どこだ?」
「あそこのガード下」
と、浜田という男は笑って言った。「怖がることないぞ。もうあいつは逃げてる」
「ええ……」
「ま、俺の方も怖いかな」
と、浜田が笑った。
「いえ、そんな──」
良子は、ガード下へ戻ると、「あった! すみません」
「よし。じゃ、早く家へ帰りな」
「どうも──ありがとう」
良子は、こんな風に人に礼を言ったのは初めてだという気がした。
「礼を言われると照れるぜ。慣れてないからな」
と、浜田が苦笑する。
「あの人──」
と、良子が浜田の肩越しに見たのは、さっきコートの男を追いかけて行った若い男だった。
「何だ。──三郎! 見失ったのか?」
と、浜田が声をかけると、
「兄貴……。ごめんよ」
三郎という若者が、そう言うと、崩れるように倒れた。
良子は、その体の下から血が広がっていくのを、呆然として眺めていた。
「──三郎!」
浜田が駆け寄って、「しっかりしろ! 畜生!」
良子は、浜田が携帯電話で連絡を入れ、救急車を寄こしてくれと頼むのを聞いていた。
「──出血がひどい」
浜田が三郎の体を抱き起こして、「頑張れ!」
「血を止めないと」
と、良子は駆け寄った。「このスカート、厚手だから」
「おい──」
良子はスカートをスパッと脱ぐと、
「これで巻いて!」
「分った」
浜田は、スカートを受け取ると、絞るようにねじって、三郎の脇腹の刺し傷を押えるように巻きつけた。三郎が小さく呻《 うめ》く。
「しっかりしろよ!」
浜田はそう呼びかけてから、「──ありがとう」
と、良子に向って言った。
やさしい口調だった。
「──間近さん。間近紀子さん」
と呼ばれて、
「はあい」
と紀子は、席を立った。
お昼休みで、紀子は伊東みどりとお弁当を食べているところだった。
「──お電話よ。お宅からですって」
と、事務室の女性が言った。
「はい。すみません」
急ぎ足で事務室へ。──何だろう。学校に電話してくることなんか、まずないのに。
「──どうも」
と、事務室へ入って、外線の電話を取った。「もしもし。──もしもし」
少し間があって、
「紀子か」
と、かすれた声がした。
紀子は息をのんで、チラッと周囲を見回したが、昼休みのことで、誰も紀子の方に注意してはいない。
「もしもし。──私よ」
と、何気ない口調で、「どうしたの?」
「すまないな」
と、哲郎が息をつく。「聞いててくれ。迷惑かけたくなかったんだが……。けがしちまって」
「──具合は?」
「足をやられて動けないんだ。──もし大丈夫なようなら、もう一度だけ、食いものとか……持って来てくれるか。これで最後だから」
「いいよ」
と、いかにも家族と話しているような調子で、「どこへ行けばいいの?」
言われた場所を頭に入れて、
「OK。じゃ、帰りに寄るよ。大丈夫?」
「ああ……。何とか生きてる」
と、哲郎が言った。
「私もよ」
紀子はしっかりと言って、「じゃあ」
と、電話を切った。
教室へ戻ろうとして、
「──間近」
と呼び止められた。
「矢川先生」
「ちょっと来い」
「何ですか?」
「いいから来い」
矢川が、いつになく難しい顔をしている。何だろう?
ついて行くと、職員室の奥のソファに、男が二人、座っていた。
「お待たせしました」
と、矢川が言った。「これが間近紀子です」
紀子は、一方の男に見憶えがあって、話の見当をつけられた。でなければ、やはり動揺しただろう。
「小堀というんだ」
と、その刑事は言った。「間近紀子君だね?」
「はい」
と、きちんと膝《 ひざ》を合せて座り、 「何かご用でしょうか」
「中野哲郎を知ってるね」
どうせ、ちゃんと証人を見付けているのだろう。否定してもむだだ。
「知っています」
と、真直ぐに小堀を見て答えた。
「どういう関係?」
「友だちです」
「ふむ。──今、中野がどうなってるか、知ってるね。何をしたかも」
「彼は犯人じゃありません」
と、紀子は言った。「そう信じています」
「間近……。お前、どうしてそんな男と──」
と、矢川が言った。「分ってるのか! 古畑が殺されたんだぞ」
「まあ、落ちついて」
と、小堀は言った。「君は会ったかい、中野に? 逃げている中野に」
「あの後《 あと》は会っていません」
「そうか。──本当だね。もし奴《 やつ》の逃亡を助けたりすれば、罪になる。分るね」
「はい」
「中野のような奴と、どこで知り合ったんだ?」
紀子は、感情を出さないようにして、
「踏み切りで、子供が転んでけがしてるのを、彼が助けたんです。私がその子の傷の手当てをしてやって──」
「おいおい、TVドラマじゃないよ」
と、小堀が笑って言った。「大方、どこかのディスコででも知り合ったんだろ。──どこまで行ってるんだ、奴とは?」
紀子は頬《 ほお》を紅潮させて、
「どういう意味ですか」
と言った。
「──まあいい。優等生の仮面をかぶってる、この手の子が、一番とんでもないことをやるんですよ」
「よく注意します」
と、矢川が頭を下げる。
「処分はそちらへお任せします。まあ、お宅へもよく話しておきましたから、連絡をとり合って下さい」
紀子の顔から血の気がひいた。──家へも話しに行ったのだ!
「では」
と、行きかけて、「いいね。もし、奴から何か言って来たら、すぐ届けるんだ。そうなりゃ、学校の方でも考えてくれるかもしれない」
紀子は何も言わなかった。
「──ご苦労様でした」
矢川が刑事たちを送り出す。
「先生」
と、紀子は言った。「私、退学ですか」
「さあな。──それはこれからだ」
「私が誰と付合っても、自由だと思いますけど。私が何かしたわけじゃ──」
「間近。お前も分ってるだろう。そんな言い方が通るかどうか」
「分ってます。──通らないことがどうかしてる、ってこと」
矢川は渋い顔で、
「ご両親がじきに見える。一緒に帰って、当分は自宅で謹慎だ」
「──はい」
言ってもむだだ。──紀子は心を決めた。
両親が来たら、もう逃げられない。
「教室から鞄《 かばん》を取って来ていいですか」
「うん。ここへ戻って来て、待ってろ」
紀子は、廊下へ出ると足早に教室へ戻った。
「──何だったの?」
と、みどりが訊《 き》く。 「青い顔してる」
「みどり」
紀子は、財布だけブレザーのポケットに入れると、「もう会えないかも」
「え?」
「電話するね」
紀子は教室を出ると、急いで図書館へと向った。正門や裏門は、さっきの刑事が見張っているかもしれない、という気がしたのだ。
図書館の裏側に、塀の壊れた所があって、こっそりと出入りできるのだ。
たぶん、二度とこの学校へ来ることはないだろう、と紀子は思った……。