3 元気の素
朝から、少しめまいがしていた。
しかし、買物に出ないわけにはいかなかった。冷蔵庫は空っぽだ。
真田充江は、午後も三時ごろになって、やっと腰を上げた。
「──本当に、いやになっちゃう」
と、ショッピングカーをガラガラと引いて歩きながら呟く。
エレベーターのボタンを押したが、明りが点《 つ》かない。──故障かしら?
見上げると、〈定期点検中〉の札が下っていた。
よりによって、こんなときに!
よっぽど、買物を明日にしようかと思ったが、今夜は夫が出張から帰って来る。ちゃんと好物を用意しておかないと、とたんに不機嫌になるだろう、と分っていた。
ため息をついて、充江はショッピングカーを両手で少し持ち上げるようにしながら、階段を下りて行った。あまり丈夫とは言えない充江にとって、四階分の階段を上り下りするのは大仕事だ。
でも、帰りには──そう、たぶん帰りはもう、エレベーターも動いているだろう。
やっと一階へ下りたが、少し休んでいないと息が切れる。
本当に……。まだやっと三十四だというのに少《ヽ》し《ヽ》太り気味というのは事実である。自分でも、よく分っていた。
だけど、余計なものを食べてるわけじゃなし……。そう。何と言っても、食べることくらいしか楽しみなんてないじゃないの!
充江は、気を取り直して、団地の自分の棟を出て歩き出した。
よく晴れた、気持のいい日で、外出が面倒な充江も一《いつ》旦《たん》こうして外へ出れば、それなりに楽しい。
スーパーマーケットまでは団地の中の道で、車道とは分けられているからのんびり歩ける。
実際、スーパーで、あれこれ買っているときには充江も、出かけて来て良かったと思っていたのである。
「──あら真田さん」
と呼ばれて、充江は足を止めた。
「あ……。どうも」
倉田信子と、その後ろに、いつも影のように従っている相沢京子である。
二人とも、充江より少し年上で四十代の初め。倉田信子の方が確か少し上だし、実際、相沢京子を「子分」のように扱っている。
充江は子供がないので、近所付合いは少ない方だが、団地の自治会の役員をやらされていて、その会長をつとめる倉田信子とは、いやでも知り合いになってしまう。
「──ずいぶん沢山のお買物ね」
と、倉田信子は充江のカゴの中を覗《 のぞ》いて、 「重いでしょ。京子さん、持ってあげたら?」
「いえ、とんでもない!」
と、充江はあわてて辞退した。「自分でちゃんと持てますから」
「そう?──あ、お魚はね、このスーパー、やめといた方がいいわよ。私がおいしい所を教えてあげる」
と言うなり、倉田信子は勝手に充江のカゴからパックした魚の切身を取り出して、「京子さん、ケースへ戻して来て」
「はい」
相沢京子は言われて、さっさと魚の売場へ駆けて行く。充江はただ呆気《あつけ》に取られていた。
「──さあ、支払いを済ませたら、お魚屋さんへ行きましょ。大丈夫。ここのを食べていただけば、ご主人が大喜びすること、請け合いよ」
と、倉田信子はポンと充江の肩を叩《 たた》いた。
確かに──「請け合って」くれるのも当然という気が、充江にもした。何しろ、値段がスーパーの三倍もしているのだから!
しかし、
「高いからやめておきます」
とも言えず、充江は財布の中身を心配しながら、その魚を買った。
倉田信子も子供はないが、夫はコンピューター技師でかなりの高給取り。しかも、夫が単身で二年もニューヨークに行っているので、一人で何とも優雅に暮していた。
着ている物も、指環やネックレス一つからして高価に違いないと分る。自分一人なら、お魚の値段が三十倍していても気に留めまい。
しようがない。これもお付合いというものか……。
「──ありがとうございました」
と、礼を言って別れようとすると、
「あら、真田さん、急ぐの?」
と、倉田信子が言った。
「あ……。いえ、別に……」
「じゃ、私の買物にも付合ってよ。ね? 大勢の方がにぎやかでいいわ」
と言うと、相沢京子を促してさっさと歩き出してしまう。
充江は、どうしようもなく、ガラガラとショッピングカーを引いてついて行ったのである……。
「──ごめんなさいね」
と、倉田信子は冷たいお茶を出して、「あなた、疲れてたのね。それなら言ってくれれば良かったのに」
言えっこないじゃないの。──心の中でそう言って、しかし口では、
「とんでもない。太ってるもんですから、すぐ息が切れるんです。ご心配かけて、すみません」
と、充江は言った。
何しろ、自分の買物がすんでから、一時間もあちこち引張り回されたのだ。くたびれ切って、めまいを起こしたのである。
ここは倉田信子の家。──といっても団地内だから、もちろん似た造りだが、4LDKという広さに、調度類の豪華なことは、めまいを起こしてハアハア言っている充江にもよく分る。
「でも、いけないわね、私たちよりずっと若いのに、そんなに疲れやすいなんて」
と、相沢京子が言った。
充江は、この女がどうしても好きになれない。いつも倉田信子のそばにくっついて、ご機嫌をとっておいて、お店や出入りの業者などには、ひどく威張り散らす。はたで見ていても、気持のいいものではなかった。見たところも、派手にしているが四十という年齢よりずっと老けて見える。
「何かお薬はのんでる?」
と、倉田信子は訊《 き》いた。
「お薬って……。ビタミンとか、そういうのですか?」
「違うわよ。そんなんじゃなくて、今はとてもいい薬が沢山あるの。副作用もないし、のめば元気が出て、シャキッとするのがね」
と、相沢京子の方へ、「ねえ? この人ものんでるのよ」
「そう。とってもいいわよ。──真田さん、そうすぐ息切らしてるんじゃ、絶対にのんだ方がいいわ」
「でも……」
と、充江がためらっている内に、倉田信子はさっさと立って行って、薬のびんを持って来る。
「これ。──ね、効かなかったら、やめればいいのよ。試してごらんなさい」
充江は渋々そのびんを手に取って眺めた。
「──心配ないわよ」
と、相沢京子が笑って、「私たちものんでるんですもの、ずっと。見たところ、元気そのものでしょ?」
「ええ……。おいくらするんですか?」
「それで三千円。一度にのむ量は少しだから、そう高くないわよ」
三千円……。安い値段ではない。しかし、ここはどうしたって断れない成り行きになっている。
「じゃあ……。いただいてみます」
と、おずおずと言った。
「そう! ぜひそうなさい。私、余分にひとびん持ってるから、それを持って行って」
充江は支払いをして、
「じゃ、もう私、これで──」
と、立ちかける。
「あら、もうお帰り?」
「主人が戻りますから、夕食の用意を──」
「そうね。じゃ、今そのお薬をのんで行けば? 帰りに重い荷物を持って行くのが楽かもしれないわよ」
「え……。ええ」
仕方ない。充江はびんのふたをそっと開けると、
「粉薬ですね。どうやってのむんですか?」
と訊《 き》いた。
「──ただいま」
と、くたびれた声を出して、真田は玄関を入った。
どうせ充江はまた引っくり返って寝てるんだろう。──よく寝る奴《 やつ》だからな。
「おい──」
と、靴を脱いで上ると、
「お帰りなさい!」
真田がびっくりして飛び上りそうな、勢いのいい声を上げて、充江が飛び出して来たのである。
「何だ、おい。びっくりさせんなよ」
「お疲れさま! 鞄《 かばん》、持つわ。早く着がえて、夕ご飯、ちょうどできたところよ!」
真田は、すっかり面食らっていた。
何だ? やけに今日は元気だな。
食卓に、とても食べ切れないほどの料理がズラッと並んでいるのを見て、真田は仰天した。
「どうしたんだ、一体?」
「あら、気に入らない?」
「そうじゃないが……」
「さあさ、早くして! 冷めると味が落ちるわ」
せかされて、いつもならしばらくソファでのびている真田が、十分後には夕食をとっていた。
「──旨《 うま》い。しかし、何かあったのか、いいことでも?」
と、食べながら訊くと、
「後で教えてあげるわ」
と、いたずらっぽく答える。
真田は、ちょっと笑った。
確かに、充江も結婚したころから見ると大分太って、「可《かわ》愛《い》い」とも言いにくくなったが、上機嫌でいてくれるのは、夫としても嬉《 うれ》しいことだった。
──満腹になって、真田が夕刊を広げていると、
「あなた、お風《ふ》呂《ろ》」
「ああ……。しかし、まだ早いぞ」
「いいじゃない。ゆっくり休めるときに休んでおかないと」
「そりゃそうだが……」
真田は、充江の目が、見たこともないほどきらめくような光を放っているのを見て、びっくりした。
「充江……」
「今夜は……お風呂も一緒に入りましょ? ね?」
と、充江が重い体を真田の膝《 ひざ》の上にのせてくる。
どうしたんだ、こいつ? 呆気《あつけ》に取られながら、真田は充江にキスされて目を丸くした。──こんなこと、初めてだ!
しかし、それ以上は考える余裕もなかった。真田は充江に押し倒され、風呂へ入る前に、「一汗かく」ことになってしまったのである……。