4 同 志
「先生」
と、紀子は声をかけたが、相手は聞こえていない様子で、ぼんやりと座っている。
「大久保先生!」
少し大きな声で呼ぶと、大久保はハッとしたように、
「──間近か」
と、息をついた。「びっくりした」
「何をぼんやりしてたんですか? 二日酔?」
校庭の木かげ。──古びたベンチがある。
放課後、もう学校は静かだった。女子校のせいもあって、クラブ活動でも、遅くまで残っていることは許されていない。
「お前はいつも元気だな」
と、大久保は微《ほほ》笑《え》んだ。 「お前を見てると、世の中にゃ悩みなんてものはないような気がしてくる」
「失礼ね」
と、紀子は口を尖《 とが》らし、 「こう見えても、色々苦労してるんですから」
「そうか。──ま、人間、誰しもそうだ」
「先生は、栗田みゆきのことで?」
そう訊かれて、大久保は、
「どうしてそう思うんだ?」
と、ふしぎそうに言った。
「先生が一人で、彼女の退学処分に反対したって」
「おい、待て。どこでそんなことを──」
「そういう話って、どこからともなく伝わるもんですよ」
と、紀子は言った。
「まあ……そうかな」
と、大久保は遠くへ目をやって、「しかし、結局止めることはできなかったんだから、同じことだ」
「そんなことありませんよ。人間、信じてれば通じるってこともあります」
「だといいがな」
と、大久保は肯《 うなず》いて、 「──間近。お前どうして残ってるんだ?」
「待ってるんです」
「待ち合せか。誰と?」
「そういうんじゃなくて──」
と、紀子が言いかけたとき、タッタッと足音がして、
「大久保先生!」
と、事務室の先生が駆けて来た。
「どうした?」
「園長先生がお呼びです」
「僕を? 分った」
と、大久保は立ち上って、「何だろうな?」
と首をかしげながら急いで行ってしまった。
──紀子は、ベンチに一人でのんびりと寛《 くつろ》ぐと、空を見上げた。
そろそろ黄昏《 たそが》れてくる空。
哲郎のことを、ふと考える。──哲郎には、四角く区切られた空しか見えないだろう。
でも、しばらくの辛《しん》抱《ぼう》だから、哲郎。頑張ってね!
私も──そう、私だって、哲郎が戻って来るまで、元気でいなくちゃ。
危いことに首を突っ込みたいわけじゃないのだ。でも、人間、どうしてもやらなきゃいけないことというものがある……。
しばらく座っていると、足音がした。
「何でした、大久保先生?」
と、振り向こうとした紀子は、いきなりスポッと頭に何かをかぶせられた。
てっきり大久保だと思っていたので、油断していた。逆らう間もなく、頭にかぶせられた袋が、首の周りでギュッと引き絞られた。
息ができない!
同時に、紀子は後ろ手に右手をねじ上げられ、ベンチの上に押え付けられた。──腕が折れるかと思うほどの痛み。
必死に逃れようともがいたが、相手は力の入れ方を心得ていた。
苦しい……。哲郎! 死んじゃうよ、私!
哲郎……。
次第に気が遠くなる。体から力が抜けて、同時に痛みも薄らいでいくようだった。
ああ……。助かるんだろうか?
それとも──それとも、これが「死ぬ」ってことなの? 死ぬのって、こんなに気持のいいものなの?
哲郎……。
意識が、薄れかける中で、紀子は「いけない!」と自分に向って言った。死んじゃいけない! 哲郎が待ってる。私が会いに行くのを、待ってる。
そう思うと、今の自分の状況がつかめた。
空気。──何とかして空気を……。
頭にかぶせられた袋は、ビニールらしかった。紀子は、口を開けて思い切り息を吸った。
袋がペタッと口にはりつく。それを思い切り歯で噛《 か》んで、上下の歯をすり合せた。ビニールが裂ける。
空気が入って来た! 紀子は何度も息を吸っては吐いた。
すると、腕をねじ上げていた手がパッと離れた。
紀子はベンチから地面へ転げ落ちた。タタッと駆け出して行く足音だけが聞こえたが、体を起こすことさえできない。
そのとき、
「間近!」
という声がした。「どうした!」
大久保だった。紀子は、抱き上げられ、頭にスッポリかぶせられていたビニール袋を外された。
「──先生か」
と、紀子は喘《 あえ》ぐように言って、 「もうちょっと早く来てくれりゃ良かったのに……」
「お前……。一体何ごとなんだ?」
「どうってことじゃないんですけどね……」
と、紀子は少しむせて、「ただ──ちょっと殺されそうになった、っていうだけで」
大久保は唖《 あ》然《 ぜん》としていた。
「ああ、やれやれ」
紀子はラーメン一杯、軽く平らげてしまうと、
「殺されるって、お腹《 なか》の空《 す》くもんなんですね」
「おい、間近……」
大久保は呆《あき》れ顔で、 「ともかく説明してくれ」
「待って下さい。──お茶、下さい!」
ラーメン屋の店内は、結構こみ合っていた。
「大丈夫か?」
「ええ、何とか」
紀子は息をついて、「先生、園長先生のお話って、栗田さんの退学を取り消すってことだったんでしょ?」
「どうして知ってる!」
と、大久保が目を丸くした。
「私《ヽ》が《ヽ》そうさせたんですもの」
「お前が?」
「園長先生、彼《ヽ》女《ヽ》がいるんですよ、知ってました?」
「いや──知らん」
「他の学校の先生でね、二十八とか」
「二十八?」
「ええ。もし、そのことが知れ渡るのをいやだと思ったら、栗田さんの処分を取り消せって」
「おい、待て。それじゃ──」
「脅迫ですね、まあ」
と、涼しい顔で肯いて、「でも、間違いを正してもらったわけですから、本人のためでもありますし」
「しかし……」
「先生。私、手伝ってくれる人がいるんです。学校に麻薬を持ち込んだ人間を見付けてやろうと思ってます」
紀子の言葉に、大久保は唖然としているばかりだった。
「それであんな目にあったのか?」
「ええ。──でも、誰がやったんだろ? まだ知ってる人間なんて、ほとんどいないはずなのに」
「全く、お前って奴《 やつ》は分らん」
と、大久保が首を振って言った。「──何をニヤニヤしてるんだ」
「大久保先生って、少しふてくされると、すてき」
「何だと?──だめだ! 俺《 おれ》は生徒に手は出さんぞ」
「当り前でしょ。私だって、彼氏がいるんですから」
「何だ、そうなのか?」
「今、刑務所に入ってますけど」
大久保は、ますますふてくされてしまったのだった……。
野田は、もうベッドに入って、眠りかけていた。
傍《 そば》ではアケミが眠っている。──野田は、もうずいぶん長いことアケミを抱いていないが、こうして並んで寝ているだけでも何となく安心する。
妙なものだった。──もう年齢《とし》かな、俺も。
直通の電話が鳴った。
「──はい」
と、出てみると、
「 〈M〉から〈N〉へ。今日、殺されかけた。どうぞ」
「お前か。──殺されかけた? どういうことだ」
「分ってりゃ、殺されかけやしません」
「おい、待て。詳しく話してくれ」
野田は、たちまち目が覚めてしまった。
紀子の話を聞くと、
「そりゃ、プロの手口だな」
と言った。「良く助かったな。悪運が強いってのは、このことだ」
「あのね……。今度、押しかけてって、『女房にしろ』って騒いであげましょうか。あなたに手ごめにされたって泣きじゃくって、責任とってくれって……」
「人を脅かすな。ちゃんと、そっちの偉い先生のことは手を打ったぜ」
「分ってます。でも、こっちも深刻。何しろこの若さで死にたくないですから」
「妙だな。お前が、探りを入れてるってことを知ってる人間は限られてるんじゃないか?」
「だから、こうして連絡したんです。心当りはありませんか?」
「待てよ。そう言われても、すぐには──」
「ともかく、私が殺される前に、犯人を見付けましょ。化けて出ますよ、私」
「さぞ怖いだろ、お前が化けたら」
と、野田は言ってやった。「ともかく、用心しろ。哲郎の奴に恨まれるからな、何かあったら」
「でも、殺されるくらいだったら、私、一度野田さんに抱かれとくんだった」
と言って、紀子はちょっと笑った。「じゃあ──。あ、そうだ。明日、うちの担任の先生を連れて行きたいんです。いいですよね?」
「先生を? 何するんだ。俺は勉強なんか嫌いだぞ」
「先生も手伝ってくれるんです。じゃ、明日そっちへ寄ります」
「ああ……」
野田は首をかしげた。
誰が一体、野田と紀子のことを知っているだろうか?
「──どうしたの?」
と、アケミが寝返りを打って言った。
「起きちまったか。あのはねっ返りからだ」
「紀子さん? 可《かわ》愛《い》いわよね。──どうしてあの子を抱かないの?」
「アケミ──」
「あの子なら、大丈夫なんじゃない? いいのよ、私」
「よせ」
野田は、アケミの額にキスして、「──もう寝ろ」
「ええ……。でも、気を付けてって伝えてね、紀子さんに。麻薬って怖いわ」
「分ってる」
と言って、野田は、「──おい、どうしてその話を知ってる?」
と訊《 き》いた。
「話? 話って」
「だから──俺と間近紀子の話したことさ」
「ああ。だって、聞こえてたわよ、インタホンから」
「インタホン?」
「あなた、スイッチ、入れっ放しにしといたでしょ、机の上のインタホン」
「おい、待て。じゃ、あの話を、他にも聞いた奴《 やつ》がいるのか?」
「たぶんね。私は途中でいなくなったけど」
「──参った!」
野田は頭を抱えた。「どうしてそう言わなかったんだ!」
「だって、あなた、いつか言ったでしょ。『俺のやることは、意味がないように見えても、ちゃんとあるんだ』って。わざとああしてたのかな、と思ったのよ」
野田も、これには何とも言いようがなかった。
──俺のせいで、紀子が殺される? それだけは何としても防がなくちゃ。
野田はベッドを出ると、アケミへ、
「先に寝てろ」
と声をかけて寝室を出たのだった。