3 横顔
いつまでも若いつもりではいられない。
——町田も、そのことはよく分っている。
六十という年齢から考えれば、ゆうべの料理を、デザートの一皿まできれいに平らげて、今朝胸やけもせず、もたれてもいないというのは自慢してもいいことだろう。
しかし、かなり遅くまで町の有力者(といっても、大したことはない)に付合って飲んでいたのに、まだやっと夜が明けたかどうかという時間には眼が覚めてしまう。これは年齢をとった証拠と言うしかあるまい。
町田は、そっとベッドを抜け出した。——隣のベッドでは、妻の恵美がまだ深い眠りに浸っていた。
ゆうべ、「男たちの酒盛り」には付合い切れないと早々に眠っていて、今も眼を覚ましていないのだから、まだまだ若い。
五十五とはいえ、見た目は四十代。そして活動的なことでは若い世代もついて来られないほどである。
しかし——町田にとっては、「忙しく働く」こと、そのものに価値を見出す時期は過ぎていた。これだけのホテルやレストランをオープンさせ、ごくわずかの例外を除いて成功させていながら、それを、あと十年か二十年か後に訪れる自分自身の「死」の後、どうすればいいのか。
恵美との間に子供はなかった。たった一人、五十歳近くになってから産まれた子は数週間の命だった。恵美も四十を過ぎての出産で、かなり参っていたものだ。
しかし、回復してから恵美は自ら猛烈な忙しさの中に身を置いて、そのこと自体を目的にしているかのようだった。
——町田は、ガウンをはおって、冷たい廊下へ出た。
寒さは老いの身に良くあるまいが、むしろ体も頭もすっきりと澄んで快い。
ゆっくりと人気のない廊下を歩きながら、本当に、どうして俺はこんな所にホテルを建てたのだろう、と思った。
もう両親も亡く、身寄りと呼べる人間はここにはいない。それに、「増田邦治」だったころ、彼はこの町が嫌いで、住む人間も町並みもすべてがいやでいやで、逃げ出したかったのだ。
だからあれほどのことをして……。
しかし、今は帰って来ている。誰も、この「ホテル王」が、かつてこの町から逃げ出した——しかも、工場の給料を盗んで——不良青年だとは、思いもしないだろう。
懐しいわけではない。年齢をとって、故郷を見たくなったのでもない。
それでも、町田はこの土地を買い、ホテルを建ててしまったのだ。
さびれ、若い人々が流出していく一方だったこの町にとっては、確かにこのホテルのオープンは「一大事」だろう。
町田は、計画から設計、施工の一切、東京から指示を出して、一度も現地へ足を運ばなかった……。
「——おはようございます」
と、声が冷たい空気を通り抜けて届いて来た。
「ああ、ずいぶん早いんだな」
と、男の声は聞き覚えがある、あの若い料理長である。
「せめて、『おはよう』ぐらいは返してくれるものよ」
——町田は、廊下の突き当りの窓を少し開けた。
見下ろす中庭に、料理長の宮田と、谷口良子の姿があった。
「おはよう」
と、馬鹿正直に宮田が言ったので、谷口良子は笑ってしまっている。
「昨日は疲れたでしょうに」
と、良子は吐く息の白さを眺めながら、「あなた、緊張していたわね、ゆうべ」
「まあ、第一日は誰でもね」
宮田は深呼吸して、「朝の支度にかからんとね」
「そうか。大変ね。何もかも一人でやるって」
「いっそ、他人に口出しされるよりはやりやすい」
と、伸びをして、「しかし、あの社長も妙な人だな」
「どうして?」
「こんな、何もない田舎町に、ホテルを建てて……。どういうつもりなんだろう?」
と言ってから、あわてて、「いや、別に文句を言ってるんじゃないよ」
「それなら……。あなたが、どうしてそんな腕を持ってるのに、こんな所に来たのかの方がふしぎだわ」
「それは——」
宮田が少しためらって、「分ってるじゃないか」
と言った。
町田は、窓辺に立って、中庭の二人を見下ろしていた。二人とも、誰かが見ているとは思いもしないのだろう。
宮田が後ろから良子を抱く。
「——やめて」
「良子……」
「私は子供がいて——あなたより年上よ」
「そんなことが何だ。君がこの町へ帰ったから、僕はここへ来たんだ。君だって分ってる。そうだろ?」
良子は、少し力をこめて宮田の手をほどくと、二、三歩前へ出て、
「ひとみは難しい年ごろだわ」
と言った。「逃げてるんじゃないの。でも、あの子が私とあなたのことを許さなかったら、私たち、うまくいくはずがないわ」
「しかし、ひとみちゃんも子供じゃなし」
「子供よ」
「もう十八だ。君が思ってる以上に、大人のことを分ってるよ」
「でも……」
良子が振り向いて、何か言いかけたとき、
「宮田さん! ここにいたの!」
と、他の女の声がした。「キッチンが困ってるわ」
「今行く」
と、宮田は振り向いて言った。
「——あなた、行って」
と、良子は肩にかけたショールを固く前で合せた。
「あらあら、『あなた』ですって! 妬《や》けるわね」
「そんなんじゃないのよ」
と、良子が赤くなる。
「お邪魔様。——宮田さん、早くね」
宮田はちょっと笑って良子の方へ、
「君が『あなた』って呼ぶからだ」
「だって……」
と、少し不服顔で、「おかしい? 夫婦でもないのに『あなた』って変かしら」
「そうじゃないけど……。ま、普通名前で呼ぶかな」
「そうね……。考えたことなかった」
と、良子は小さく首を振って、「母が——亡くなった母が、私のことを『あなた』って呼んでたの。決して『良子』とか『あんた』とか呼ばなかった。私もそれでつい、『あなた』になっちゃうんだわ」
「僕は別に構わないがね」
宮田は笑って、「じゃ、行くよ」
と、足早に視界から消える。
谷口良子は、底冷えのする朝というのに、ゆっくりと中庭を散歩でもしている様子。
寒さを気にさせないほど、今の良子には気になることがあったのだろう……。
「——あなた」
あなた。——あなた、か。
「あなた、何してるの?」
恵美が後ろに立っていた。
「起きたのか」
「この寒いのに、窓を開けて! 風邪をひきますよ」
と、顔をしかめる。
「『あなた』か」
「え?」
「いや、何でもない」
と、町田は首を振った。「お前、いつホテルを出るんだ?」
「昼ごろにしようかと思ってるけど、どうして?」
「いや、訊いただけさ」
——嘘ではなかったが、一人になったら、町をゆっくり歩こう、という気もあった。
可能かどうかは別として、誰にも見られず、誰にもついて歩かれずに、自分の生れ育った町を、歩いてみたかったのである。
「お出かけでございますか」
支配人の声が飛んで来て、町田は思わず首をすぼめた。
「いや……。ちょっとその辺をね」
と、ホテルの玄関を出ようとしていた町田はごまかそうとした。
「外はお寒うございますから」
と、支配人の畑は急いでやってくると、「私、お供いたしましょう。町の中、どこへでもご案内いたします」
「いや、いいんだ。別に——」
と、町田が多少苛《いら》々《いら》して言いかけると、
「社長さん、お電話でございます。秘書の方から」
と、フロントの係が飛んでくる。
「分った。ありがとう」
このときばかりは、河野の電話を歓迎したかった。
ロビーの電話へつないでもらって、出てみると、
「社長、何とか間に合いました」
と、河野のホッとした声が伝わってくる。
恵美の支度に手間どって、乗るつもりだった列車に遅れてしまい、河野が車で先の駅まで送って行ったのだ。
「そうか。ご苦労さん。あわてて帰って来なくてもいいぞ。俺は一人でのんびり風《ふ》呂《ろ》にでもつかってる」
「いえ、急いで戻れば三十分で着きます」
町田はため息をついたが、少なくとも三十分は戻って来ないのだ、と思い直す。
仕事熱心な秘書を持つのも考えものである。
電話を切って見回すと、支配人の畑は、何か用ができたのか、姿が見えない。
今の内だ。——町田はまるで無銭飲食でもして逃げ出す客のように、ホテルを出たのだった。
夕方になって出かけたのは、一つには薄暗い中なら、町の人も彼のことを誰だか見分けられないだろうと思ったから。
しかし、本当の理由は、暗くなった方が町並みに昔の面影を見出せると期待したからでもあった。
——ああ、あの看板。まだそのままだ。
とっくに会社が潰《つぶ》れてしまっている胃腸薬の広告。少し傾いていて、
「今度地震が来たら潰れる」
と、みんなが言っていたボロ家。
まだ、ちゃんと建っている。人の悪口を見返してでもいるかのようだ。
八百屋、酒屋……。酒屋は今風のコンビニである。こんな町で夜ふかししてどうするのだろう? 〈24時間営業〉とは笑ってしまう。
——だが、町の唯一の大通りを歩いていくと、閉めてしまった店、廃屋となった人家も目につく。
あそこは何だったろう?——なくなってしまうと、その空地に以前は何があったか、思い出せないものだ。
暗さが増して来た。並んだ家々の窓に明りが灯る。
その灯は、都会の家の明りがどこか冷え冷えとしているのと違って、暖かく、家庭のぬくもりを感じさせた……。
町田は足を速めた。
町はすぐに尽きて、山間の道を辿《たど》っていく。——こんなに遠かっただろうか?
こんなに歩いたかしら。
町田は、一瞬、道か方向を間違えたかと思った。しかし、そう思ったとき、その吊《つり》橋《ばし》が黄《たそ》昏《がれ》の中に現われたのだ。
町田は、感動した。
たかが橋でも、昔の通りにそこで頑張っている。四十年近い歳月を、生き抜いている。
それはもう、今では大して必要でないかもしれない。しかし、確かにそれはそこにあった。
——町田は、いつからそれを見ていたのだろう?
夢か? それとも黄昏どきの薄《うす》闇《やみ》に、影がいたずらしているだけなのか。
いや——確かだ!
吊橋の手すりに両腕をのせて、小栗貞子が立っていたのである。
——その娘が、もちろん小栗貞子であるわけはない。しかし、全身から流れるもの、空気の中へ溶け込んでいくようなその姿は、記憶の中の貞子と重なった。
横顔が見えた。
どこか愁いを含んだその横顔が、あの小栗貞子を思い出させたのである。
町田が橋へ足を運ぶのは、自分の出発点をもう一度見たかったからである。
そして、その娘は、こんな時刻に吊橋を渡る人間がいることに当惑しつつ振り返った……。
「あなた、どなた?」
と、彼女は訊いた。
「君は?」
と、町田は、足を止めて訊いた。
娘はそれには答えず、
「どこへ行くんですか? この先、もう山の中よ」
「ああ、知ってる」
「町の方《かた》じゃ……ないわね?」
ふしぎに思っても当然だろう。
「この吊橋を見に来たんだ」
と、町田は言った。
すると娘は笑った。——その笑いは町田の奥深いところまで届いた。
「何かおかしいかな」
「だって——よその人がわざわざ見に来るなんて。この吊橋がそんなに有名だったなんて知らなかったんですもの」
「なるほど」
町田も笑顔になって、「しかし、いい橋じゃないか。僕は好きだね」
「橋に『いい』とか『悪い』とか、あるんですか?」
「——あるとも。これはいい橋だよ」
急に強い風が吹いて来て、吊橋はゆっくりと揺れた。
「寒いね。——帰るかい? じゃ、町まで一緒に歩こう」
娘が足下から鞄《かばん》を取り上げた。
「学校の帰り?」
「高校生です」
一緒に歩き出しながら、「帰りのバス、一つ手前で降りて、歩いてくるの。この橋で足を止めて一人でいたいから」
「変ってるね」
「でも、あなたほどじゃないわ。『いい橋』、『悪い橋』だなんて、初めて聞いた」
「そうか」
屈託のない娘の口調は、町田にとって驚きだった。
こういう町の人間は、見知らぬ「よそ者」を警戒するものだ。しかし、この娘は町田をからかって平気でいる。
「町に泊ってるの?」
と、娘は訊いた。
「ああ」
「あの新しいホテル? 趣味の悪い」
町田は意外な気がして、
「趣味が悪いかね。こういう環境に気をつかって、和風に造られていると思うが」
「それがいやなの。この町に媚《こ》びてるわ。それでいて、稼ぎは全部東京へ吸い上げられて、町には何も残らない。町の人たちは、ボーイかウエイトレスか、窓拭きがせいぜい。それを、町長さんなんか『町の救い主』なんて感激して。何も分ってない」
娘は一気にまくし立てるように言った。
町田は返す言葉がなかった。確かに、自分が「商売」として当然のようにやっていたことが、見方を変えるとこうなってしまうのか、とびっくりした。
町へ向う道を、足早にやってくる人影があった。
「——お母さんだ」
と、娘が言った。
「ひとみ! どこにいたの?」
と、怒気を含んだ声が、その人影から飛んで来る。
聞き憶《おぼ》えのある声だった。
「帰って来たでしょ?」
と、娘は言った。「吊橋の所で少し時間を潰《つぶ》してただけよ」
「そんなこと……。学校を早退したって、心配して先生からお電話があったわよ!」
そうか。今朝、あの料理長の宮田と話していた女だ。
「——まあ」
と、女の方が近付いて町田の顔を見分けた。「社長さん……」
娘がゆっくりと町田を見た。
「散歩していて、この娘さんと一緒になってね」
と、町田は言った。「あんたの娘さんか」
「はい。ひとみ! こちら、あのホテルを建てられた、町田さんよ」
娘が何と言うだろう、と町田は興味を持った。
ひとみは、気後れするでもなく町田を見て、
「これで誤解されることはないですね、少なくとも」
と言って、事情を知らない良子はただ面食らっているばかりだった。