1 学院の姫君
やっと一日の授業が終った。
私は、ホッと息をついて、目を閉じた。
周囲では、ガタガタと椅《い》子《す》を机の中へ入れて、帰り仕度をする音が聞こえている。にぎやかなおしゃべり、はやくもタタタ、と駆け出す足音。
でも、すぐに帰り仕度にかかる元気は、私にはなかった。——といって、特別に私が疲れやすいとか、このM女子学院での授業が厳しいというわけじゃない。
何しろ、前の学校では「ミス・元気」に選ばれたくらい元気一杯だったのだ。
でも、いくら元気な私でも、まだM女子学院に来て一週間目では、「のんびりやろう」って気にはなれなかったのだ。
「芝《しば》さん、帰らないの?」
呼びかける声で、私は目を開いた。山《やま》中《なか》久《ひさ》枝《え》が、屈託のない笑顔で見下ろしている。
「帰るわよ、もちろん」
と、私は言った。
「じゃ、駅まで一緒に。——目つぶってるから、眠ってたのかと思った」
「まさか。それほど図々しくないもの」
「真面目にやりすぎるんじゃない、芝さんは?」
と、山中久枝は笑って言った。
そう。——この「芝さん」っていうのにも、ちょっと疲れてしまうのだ。
ここへ編入するまでは男女共学の高校にいて、女の子からは、
「奈《な》々《な》子《こ》!」
と呼ばれ、男の子はもちろん、
「おい、芝!」
と、呼び捨てだった。
こっちも、もちろん男の子は呼び捨てにしてやっていたし、それで別に注意もされなかったのだ。それが、このM女子学院では、
「必ず姓を『さん』づけで呼ぶこと」
という規則があり、これに慣れるには、大分かかりそうだった。
「前の高校じゃ、結構要注意だったのにね」
と、机の上を片付けながら言った。
「へえ。人は見かけによらない」
「そう? いつも見かけ通り、って言われたわよ」
私は鞄《かばん》を手に立ち上った。「行こうか」
教室を出るのは、もう最後に近かった。わずかに残っているのは、クラブ関係で、役員をやっている子ぐらいだ。
このM女子学院は、いわゆる「良家の子女」が多い、ということで、放課後のクラブ活動というものは原則として認められない。クラブ活動は授業時間の中に組み込まれているのだ。これも、学校を移ってみて、びっくりしたことの一つである。
前の高校では、もう二年生ともなると、クラブで夜の八時九時まで残るのは年中だったし、文化祭の前など、深夜までみんなでワイワイやりながら、準備をしたものだ。
このM女子学院は、やや周囲が寂しい場所にあり、かつ女子校ということで、「帰宅は暗くならない内」を厳守しているのである。
「お先に失礼します」
「さようなら」
——至ってお行儀のいい挨拶が、あちこちから聞こえて来る。
前の学校では、相手が先生だって、
「先生、さよなら!」
が普通だったし、友だち同士なら、バイ、でも、また明日、でも——何でも良かった。
それが、この学校では、生徒同士が別れる時でも、
「さようなら」
と、きっちり発音しなくちゃならないのである。
細かいことではあるけれども、こういった一つ一つ、慣れるのには大分時間がかかりそうだ……。
「まだ暑いね」
つ《ヽ》た《ヽ》の絡まる校門を出ると、山中久枝が言った。
「そうね。——この制服じゃ、余計に」
「前の学校は?」
「私服だったの」
「それじゃあ辛《つら》いわね」
二年生の二学期からの編入。おかげで、ボテッとしたセーラー服を九月の残暑の中で、着ていなくてはならない。もちろん夏服ではあるけれど、涼しいとはとても言えない。
「——お宅の方はもう片付いた?」
と、山中久枝が訊《き》く。
「やっと、っていうところね。——母一人でやってるから、なかなか……。今度の日曜日に、せっせと片付けるわ」
「手伝いに行きましょうか。私、そういうことするの、大好きなの」
「まさか、そんなわけにいかないわ」
と、私は言った。
「どうして?」
そう訊かれると困ってしまうのだけれど……。
「一応形がついたらね。後、整理の時にでも手伝ってちょうだい」
「そう? じゃ、いつでも呼んで。——といっても、お休みの日でないとね」
一週間たって、やっと気楽に口をきくことのできる相手が見付かった。それが山中久枝だ。
見るからに人なつっこい、少し大柄な女の子で、私はやや小柄なせいか、並んで歩くと二回りも違うように見えそうだ。
「山中さん」
と、後ろから声をかけて来たのは、私の知らない少女だった。
「あら、矢《や》神《がみ》さん」
と、久枝は、何だか緊張した様子で、「珍しいのね、一人?」
「ええ」
と、その少女は、私の方へ鋭い目を向けた。「転校してきた芝さんね」
「ええ」
「私、矢神貴《たか》子《こ》。よろしく」
「芝奈々子です」
つい、「です」などと言ってしまったのは、その矢神貴子という娘、背も高く、持っている雰囲気がいやに大人びているせいだった。
「ご近所ね」
と、矢神貴子は微《ほほ》笑《え》んだ。
「え?」
「あなた、〈Sフラット〉に住んでるんでしょ?」
「ええ」
「うちはすぐ裏手なの。引越して来るのを見かけたわ」
「あら。——偶然ね」
「そうね。お母様とお二人なんですって? 一度、うちにも遊びに来て」
「ええ、ぜひ。うちがまだ片付かないので、落ちついてから——」
「待ってるわ」
矢神貴子は、私の言葉を遮るように、言った。
「じゃ、私、ここから寄る所があるからこれで」
と、手を差し出す。
私は戸惑いつつ、右手を出した。矢神貴子の、長い指をした白い手が、私の手を軽く握った。
「さようなら」
「さようなら」
矢神貴子は、山中久枝には声もかけず、道をそれて歩いて行った。
なんとなく、ホッとして、息をつく。
「あの人、二年生?」
と、私は訊《き》いた。
「そう。A組にいるわ。アメリカに一年行ってたから、年齢は一つ上なのよ」
でも、あの大人びた雰囲気は、そのせいばかりではあるまい、と思った。
私と久枝は、駅へ向って、再び歩き出した。
「——母と二人、なんてことまで、よく知ってるわ」
「そりゃ、あの人、情報網を持ってるもの」
「情報網?」
「そう。学校の中でもね」
と、久枝は肯《うなず》く。「あの人には気を付けてね」
「何かあるの?」
質問しながら、私も矢神貴子には、ある種の警戒心を抱いているのを感じていた。
「うーん、何て言ったらいいのかなあ」
と、久枝は考え込んだ。「ま、簡単に言えば、二年生の中では、ボスというか——」
「ボス?」
「あ、でもね、いわゆる番長とか、そんなのじゃないの。暴力振ったり、子分を顎《あご》で使ったりとかするわけじゃないし。でも、精神的にね、何となくみんなの上に立ってるって感じなのよ」
「へえ。——人気がある、っていうのとは、また違うのね」
「あなたも分るでしょ? どことなく、人を近付けないってムードがあるの」
私は肯《うなず》いた。
「ちょっと気になったもの。同じ駅だとしたら、一緒に電車に乗って行くのはしんどいな、って」
「大丈夫。矢神さんはね、帰りにたいてい寄り道して行くの」
「どこへ? 寄り道は禁じられてるじゃないの」
「建《たて》前《まえ》よ。特例っていうのは、常にあるものだわ」
と、久枝は言った。
「どこへ寄ってるの? 毎日だなんて……」
「さあ、どこかしらね」
と、久枝は肩をすくめて、「知りたいとも思わない。知っているのは、いつも彼女にくっついて歩いてる、五、六人の取り巻きだけよ」
「そんなのがいるの」
「うん。——お姫様とお付きの人、って感じでね」
お姫様か。私にも、矢神貴子が持つ、そのニュアンスは、分るような気がした。
「ま、あの人には近付かず、遠去からず、ってのが賢明ね」
と、久枝は言った。「あ、もう駅だ。——じゃ、私、ここで」
「バイバイ。——あ、いけない。さようなら!」
と、私が言い直すと、久枝は楽しげに笑って、
「いいじゃない。私たちの間では、『バイ』にしよう」
「そうね。それじゃ」
「バイ!」
久枝は、駅前からバスに乗って行く。
私は、久枝が、ちょうどバス停に停っているバスへと駆けて行くのを見送った。乗る前に、ちょっと振り向いて、久枝が手を上げて見せるのが分った。
「バイ」
と、私も手を上げて、口の中で呟《つぶや》いたのだ……。