2 入れ違った電話
「ただいま」
母の返事を期待したわけではないけれど、一応、家の中に入ったら、そう言うものだろう。
マンションの暮しには、もう慣れている。私は大体、物心ついたころから、マンション住いなのだ。
この〈Sフラット〉は、一応高級マンションの内に数えられている。
ロビーも広くて、受付にはちゃんといつも管理人がいる。もっとも、朝の九時から夕方五時までという通いの管理人だから、防犯の役にはあまり立たない。
インターロックシステムで、受付の奥にもう一つ扉がある。
ルームキーか、でなければ、住人の部屋でボタンを押さなくては、この扉は開かないのだ。
そこを入ってエレベーターで四階。私と母の住んでいるのは〈四〇二〉という、三十坪ほどの広さの部屋である。
そして部屋の鍵《かぎ》をあけて中に入りながら、
「ただいま」
と、私は声をかけたのだが……。
案の定、母は留守だった。明りを点《つ》けると、カーテンも引いていない。早くに外出したのだろう。
ともかく、まずはこのセーラー服!
パッと脱ぎ捨てたいところだけれど、カーテンが開け放してあって、明りが点いているのじゃ、外から丸見えだ!
ほとんど駆け回るようにしてカーテンを閉めて回ると、自分の部屋へ行って、セーラー服を脱ぐ。
しばらくは、ホッとして、軽くなった体の実感を味わうように、ベッドに座ったまま動かずにいる。——囚人服を脱ぎ捨てた脱走犯の気分かな?
少し落ちついてから、着替えをして、リビングへ。——たいてい母は簡単なメモを残して行く。
今日のメモは、一番簡潔な文面だった。
〈夕食までに帰ります〉
「お願いしますわ、お母様」
と、私は呟《つぶや》く。
この母のメモは、あまりあ《ヽ》て《ヽ》にならないことが多いのだから……。
ともかく、七時ごろまでは待つとしよう。そのころには、お腹の方が、夕食時間だぞ、と訴え始めるだろう。
リビングの隅にセットしたステレオで、軽い音楽を流す。——新聞を眺め、母が買って来た婦人雑誌をめくったりするのだ。
もちろん、久枝に言ったのはオーバーで、もうこのマンションに越して来てから一か月近いのだから、一応、部屋だって、毎日の生活に困らない程度には片付いている。
大体、家の中が雑然としているのは、昔からで、お嬢さん育ちの母は、物を整理するというのが大の苦手である。
ま、私も母の娘で、あまり母のことを言えた柄じゃないのだが。
——母が離婚して、もう三年たつ。
父は外務省の外部団体に勤めていて、もともと日本にはあまりいない人だった。本当なら家族も海外へついて行くものなのだろうが、気の弱い母には、言葉も通じない国での生活など、考えられなかったのだ。
で、当然の如く、父は向うに愛人を作り——それも日本人の同僚の奥さん!
かくて、もめにもめた一年間の挙句、父と母は離婚した、というわけである。
離婚しても、別に働く必要がない母は、それだけ恵まれていたのだろう。また、経済的に不安がないから、気が弱いくせに、割とアッサリ離婚に踏み切った、とも言えるかもしれない。
私の生活には、あまり変りはなかった。——もともと父は「家にいない人」だったのだから。
私は、何となく立ち上って、テラスに出てみることにした。
あまり高い所は好きじゃないので、この四階のテラスにも、越して来てから、数えるほどしか出たことがない。
六時になりかけていたが、まだ外は明るく、昼間の暑さの名残りが空気中にとどまっているようだった。
車がマンションの前に停る。——ちょうど下を見下ろすと、その車から母がおりて来るのが目に入った。
「今日は珍しく早いのね」
と、聞こえない皮肉を言ってやる。
珍しい車だった。
真上からではよく分らないけれど、外車、それもベンツとかBMWといった、よく見るタイプじゃないのは確かだ。
誰の車だろう?
母は、車をおりても、中の誰かとしつこく話を続けていた。話が終らないのなら、おりなきゃいいのに。
やっと終ったらしい。母が、ちょっと手を振って、車が走り出す。
「へえ」
と、呟《つぶや》いた。
母が、あんな風に親しげに手を振るというのは……。ボーイフレンドだろうか?
離婚した後、母に恋人ができたという話は聞いていない。でも、母もまだ四十を越えたばかりなのだから、再婚に反対する理由は、私にはない。
母が上って来るので、私はテラスからリビングに戻った。
玄関へ行こうと歩き出したところで、電話が鳴り出した。
駆けて行って、受話器を取る。
女だけの家なので、向うが名乗るまでは黙っていることにしている。
「——もしもし? 芝さん?」
「はい。芝ですけど」
「帰ってたのね」
と、その女性の声は言った。
「え?」
「とぼけないで! 分ってるでしょう。主人と会ってたのね」
私は面食らった。向うは、かなり怒っている様子だ。
「あの——」
「前にも言っておいたわよ。人の夫に手を出すなんて……」
母と間違えているのだ。でも——母が既婚の男と?
「私の方にも考えがありますからね」
と、その声は、切り口上、という感じで、そう言ってから、電話を切ってしまった。
「——参ったな」
と、呟《つぶや》いて、受話器を置く。
この電話のことを、母に伝えるべきかしら? でも、黙っていたら、母が困ることにもなりかねない。
「ただいま」
玄関から、母の呑《のん》気《き》な声が聞こえて来た……。
「学校はどう?」
夕食は、結局母がどこかのデパートで買って来たお弁当。
まあ、まずくはないけど、「手作りの味」ってわけにはいかない。
「うん。——ま、ちょっと窮屈だけど、それなりに面白い」
と、正直な感想を述べる。
「そう。高校の途中の転校だから、心配してるのよ」
「大丈夫よ」
「それに——お母さんが離婚してるし」
「あ、それは別に珍しくないみたい。クラスでも二、三人いるのよ」
「そう」
母は、何だか少し安心した様子だった。
母は芝千《ち》代《よ》子《こ》。——芝というのは、母の実家の姓だ。三年前まで、私は「田中」という、あまり珍しいとは言い難い姓だったのである。
「お友だち、できた?」
「ぼつぼつね」
と、私は肯《うなず》いた。「このマンションの裏にいるって人がいたよ」
「あら。そう。じゃ、一度ご招待しなきゃね」
「でも、クラス違うから」
と、あわてて言う。「親しくなったら、でいいわよ」
「そうね」
「——お母さんの方は?」
「何が?」
「彼氏でもできないの」
母は愉快そうに笑った。
「そうもてるといいんだけどね」
——これが演技なら、母も大した役者ってことになる。
少しはドキッとして当り前だと思うのだが……。あの電話は間違いなく母へかかったものだ。すると、あの女性が、勘違いしているのだろうか?
「あら、電話。——出るわ」
母が、急いで(ということは普通の速度である)電話を取りに行く。
電話はリビングだから、ダイニングで食事をしていると、話は耳に入らない。
少しして、母が戻って来た。——何だか妙な顔をしている。
「誰から?」
もしかして、さっきの女性か、と思った。
「あなたと間違えたみたいよ」
と、母が言った。
「私と?」
「うん。——だって、学校の人みたいだったから」
「誰?」
「名前を言わないの」
「何て言った?」
「それがねえ……。あなた、生徒会長に立候補したの?」
「ええ?」
これにはびっくりした。「まさか! 入って一週間よ。生徒会長ってものがあるってことしか知らないわ」
「そうよねえ……。でも——」
と、母は首をひねっている。
「何て言ったの、その電話?」
「生徒会長に立候補しても、ろくなことにならないわよ、って。それだけ言って、切れたの」
私は、わけが分らなかった。
「かけ間違いじゃないの?」
「でも——『芝さんですね』って、初めに言ったわ」
——どういうことだろう?
「何かの間違いよ」
と、私は肩をすくめた。
「そうねえ。生徒会長なんて——」
「私、そういうの苦手だもん。立候補なんて、するわけないし」
「いくら何でも入ったばかりで、変よねえ」
「気にしないことにしましょ」
と、私は言った。「このお弁当、結構いけるね」
「そう? 高かったのよ」
母が嬉《うれ》しそうに言った。
あの電話のことを、母に言うべきだろうか?
私は、ともかくこれを食べ終るまでは、口に出さずにおこう、と決めた。
——別に、この日はまだ何も起ったわけではなかったのだ。少なくとも、大して変ったことのない、夕食であった。