3 泣き出した娘
女の子が泣く、というのは、もちろん別段珍しいことじゃない。
男の子だって、特に最近はよく泣くようだし……。
もちろん、私も「泣き虫」というのは男でも女でも好きじゃないが、同じ泣くにしても、いじけて泣いているのと、心を揺さぶられて泣くのとは全く違う。
どんな時でも涙一つ見せない、なんていうのは、却《かえ》って人間味が欠けているようで、気味の悪いものだ。
でも、全体的に言って、女の子の方が感激屋で泣き虫だというのは事実だろう。私はどっちかというと、「水分の少ない子」として知られていたけれど。
その子の泣き方は、ちょっと普通じゃなかった。
——昼休みのことだ。
私は、お弁当を食べ終って、例によって山中久枝と二人で、おしゃべりをしていた。話題が何だったのかは、しゃべっている当人だって、五分後には忘れているという、典型的な「おしゃべり」だった。
M女子学院に来て、そろそろ一か月が過ぎようとしている。あまり環境に順応しやすい方ではない私も、やっとこの学校の、少々息苦しいような上品さについて行けるようになっていたが、それはあくまで学校にいる間だけ。
家へ帰れば、カーテンを引くのももどかしく、セーラー服を脱ぎ捨てるという毎日に変りはなかった。
ここへ編入して一週間ほどたったころにかかって来た、二本の奇妙な電話のことは、もう忘れかけていた。誰にも話さなかったし、それに、私の知っている限りでは、二度とかかって来ていなかったのだ。
「——本当にね」
と、山中久枝が頬《ほお》杖《づえ》をついて、言った。
これは久枝の口ぐせの一つで、大した意味もなく、話のつ《ヽ》な《ヽ》ぎ《ヽ》として出て来る。
次の話題がすぐには出て来なかったせいもあったが、私は、教室の中を見回した。
お昼休みにすることといえば、こういう学校では「おしゃべり」とか「読書」ぐらいしかない。
「にぎやかね」
と、私は言った。「前の学校じゃ、よく校庭に出て、バレーボールとかやったもんだけど」
「この可愛《かわい》い校庭じゃ、駆け足したって、すぐ端まで行っちゃうし、ボールが外へ飛び出したら面倒よ」
「それもそうね」
「バレーボール、強かったの?」
「女子対男子でやると、いつも女子が勝ってた」
「何となく分るな」
「どういう意味よ」
と、私は笑った。
ふと、目が向いたのは——クラスでも比較的おとなしい、目立たない子で、昼休みもたいてい一人で何か読んでいる、今《いま》井《い》有《あり》恵《え》という子だった。
教室へ入って来た誰かが——私の知らない顔の子だった——今井有恵の机の上に、何かメモか手紙のようなものをポンと置いて行った。
今井有恵が、読んでいた本から顔を上げた時には、もう、その紙を置いた子は教室から出て行くところだったのだ。——有恵は、ちょっと不思議そうな顔で、その紙を手に取って広げると、目を通した。
私の席から、今井有恵の席は五列も離れているのだが、それでも私の目にはっきりと分るほど、有恵は青ざめた。こっちもびっくりするくらい、はっきりと瞬間的に青ざめたのである。
そして、その紙を折りたたむと、手の中にギュッと握りしめ、立ち上って、足早に教室を出て行った。
私がじっと目で追っているのを、久枝も気付いていて、
「どうしたのかしら」
と、私が言うと、
「さあ……」
と、首を振った。
「ただごとじゃなかったわよ、今の青ざめ方」
「あの子、デリケートだから」
久枝は曖《あい》昧《まい》に言った。「ねえ、昨日、TVでさ、ドキュメント見た? 面白かったよ」
話をそらそうとしている。つまり、久枝は何かを知っている、ということだ。
しかし、しつこく訊《き》いて、久枝を困らせるのもいやだったので、何となく久枝の言っていることを、聞いているふ《ヽ》り《ヽ》をした。しかし、目は空いた今井有恵の席を見ていたのだ。
「——そろそろ終りか」
と、久枝が腕時計を見て、「休み時間って、どうしてこうたつのが早いんだろ」
「そうね」
と、私は言った。
「いけない!」
と、久枝はポンと自分の頭を叩《たた》いて、「英文法のノート、貸したままだったわ。取り返して来なきゃ!」
あわてて立ち上ると、教室を出て行こうとして、戸をガラッと開けた。——そこで、久枝は立ち止ってしまった。
目の前に、今井有恵が立っていたのだ。
まるで幽霊みたい、といっても、別にどう変っているというわけではなかったが、しかしどう見ても、まともな状態じゃなかった。顔は青ざめたのを通り越して血の気を失い、目は正面を向きながら何も見てはいない。
そして、目の前の久枝のこともまるで目に入っていない様子で、そのまま教室へと入って来たので、久枝があわててわきへよけた。
自分の席へと、足が地に触れていないような足取りで戻って行く今井有恵に、クラス中の子たちが気付いていた。クラスの中が、静かになる。
今までのにぎやかさが、まるでボリュームを絞りきったTVみたいに、嘘《うそ》のように静まり返って、全部の目が、有恵を見ていた。
有恵は、誰が見ているのか、など、全く気付いていなかったろう。ほとんど無意識の内に、自分の席に着いた。そして——きちんと机に向って座っていたのだが……。
有恵の体が、ゆっくりと前後に揺れ始めた。まるで地震にでもあったかのように。そして、何だかそれは霊《れい》媒《ばい》が、死者の霊を呼び出している様子を思わせたが。
突然、有恵は、机に額を打ちつけるようにして顔を伏せると、激しく声を上げて泣き出した。——それは、すぐには近寄って、声をかけようという気になれないほど、ちょっと普通でない、激しい泣き方だったのだ。
誰もが止った映画の一コマのように、どうしたものか戸惑っている内に、昼休みの終り五分前を知らせるチャイムが、鳴り渡った。それは何だかその場面にはおよそ似つかわしくない効果音だった。
しかし、ともかくその音をきっかけに、久枝はノートを取り戻しに教室から出て行ったし、有恵の周囲の席の子たちが何人か、彼女の周囲に集まって、おずおずと声をかけたりし始めた。
私は、ほとんど有恵と直接話したこともなかったし、ここで口を出す立場でもないと思ったので、ただ見守っているだけにしておいたのだが、結局、有恵は二、三人の子に、左右から支えられるようにして、泣きながら教室を出て行った。
——ホッとした空気が流れ、みんなが、低い声で囁《ささや》き合っている。——何だか苛《いら》々《いら》した。
何が起っているのだろう?
はっきりしていたのは、みんな今井有恵が泣いた理由を知っていた——少なくとも、察していた、ということだ。
誰もが当惑してはいたが、それはびっくりしている、というのとはどこか違っていた。
私は、有恵が泣いた理由を知りたくなった。私には関係ないこと、と澄ましてはいられない。何といっても、クラスメートなのだから。
久枝が戻って来た。しかし、久枝は私と口をきくと、有恵のことを何か訊《き》かれるだろうと分っていたせいか、そのまま自分の席に戻って、ノートを広げて、眺め始めた。
その内、始業のチャイムが鳴って、みんな席に着く。もちろん今井有恵の席は空いたままだったが。
いつの間にか、有恵に付き添って出て行った子たちも戻って来ていた。
午後の最初の授業は、世界史だった。
先生が入って来て——五十歳ぐらいから年齢《とし》を取っていないような、いかめしい女性だったが——出席を取った。
「今井有恵さん」
もちろん、返事はなかった。「今井さん?」
「先生」
と、一人の子が立ち上って言った。「今井さんは、気分が悪くて早退しました」
「そう」
先生は、別に心配する風でもなく、出席を取り続けた。
妙なもんだわ、と私は思った。早退だなんて。——机の上には、本も置いたままになっているし、椅《い》子《す》には、布のバッグがかかったままになっている。
早退していないことぐらい、誰にでも分りそうなものなのに。
——授業が始まって、私もそうそう今井有恵のことばかり気にしていられなくなった。
しかし、気が付くと、視線は彼女の机の方へと向いて、そのつど、空いた椅子になぜかハッとさせられるのだった……。