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アンバランスな放課後08
日期:2018-06-26 11:32  点击:316
8 刃物の女
 
「おやすみ、お父さん」
 と、車をおりて、私は手を振った。
「母さんを頼むぞ」
 と、父が窓をおろして言った。「お前の方がしっかりしてるからな」
「お父さんも頑張って。娘みたいな恋人でも作れば?」
「お前一人で充分さ」
 父は笑って、「じゃ、おやすみ」
 と、手を上げて見せ、車を走らせて行った。
 十時に近かった。でも、電話の様子じゃまだ母は当分帰りそうもない。
 満腹になって、少し眠くなって来ていた。マンションの受付には、もう人がいない。
 私はインターロックの鍵《かぎ》を開け、扉を開けて、中へ入ろうとした。
 タタタッ、と足音がしたと思うと、
「入って!」
 女の声がして、私はぐいと前へ押された。危うく転びそうになって、やっと踏み止まると、私は振り向いた。
「何するんですか!」
「静かにして」
 その女が、手に刃物を握っているのに気付いて、私は、ゾッとした。
「芝っていうんでしょ、あなた」
「ええ……」
 その声。私は、思い当った。
 私のことを、母と間違えて、「夫に手を出さないで」と電話して来た女だ。
「部屋へ上るのよ」
 私はエレベーターのボタンを押した。
「母なら、留守です」
「分ってるわ」
 と、その女は言った。「私の夫と出かけてるのよ」
「そうですか」
「乗って」
 エレベーターに二人で入る。
「四〇二号ね。ボタンを押して」
 エレベーターが上り始める。
 私は、まだ切《せつ》羽《ぱ》詰《つま》った危険を感じていなかった。母が戻るまで、当分間があるだろうから。
 意外だったのは、その女性が、どう見てもまだ二十代だったことで、緊張で青ざめてはいるものの、公平に見れば美人に違いないだろう。
 でも、そんな呑《のん》気《き》なことを言っている場合じゃない。この女性の狙《ねら》いは、母なのだろうから。
「どうするんですか」
 と、私は言った。
「決ってるでしょ。あなたのお母さんと話をつけるの」
「でも——」
「帰りを待つわ」
「母を殺すんですか」
「主人のことを、諦《あきら》めてくれれば、何もしないわ」
 私のような子供にはよく分らないけれど、一《いつ》旦《たん》こんな状態になって、それでも夫を取り戻したいと思うものなのだろうか?
 私なら、さっさと他の男を捜すけど、なんて、いい加減なことを考えていると、エレベーターは四階に着いた。
 扉が開くと、目の前に、同じ四階に一人で住んでいるお婆《ばあ》さんが立っていた。
「あら、どうも……」
 ゴミの袋を重そうに両手に一つずつ下げている。
 このマンションは、地下の部屋に、ゴミを置いておけばいいことになっているのだ。
 私は、とっさに、
「重いでしょ。私、持ってあげますよ」
 と、パッと手を伸して、一方のゴミの袋を取った。
「でも——」
「いいんです。一緒に持って行きましょ」
「あら、すみませんね。——こちらは?」
 と、その女性を見る。
 まさか、他人の前で、刃物をチラつかせるわけにもいかず、その女性は、息をつくと、
「分ったわ」
 と、言った。「今日は帰るけど、お母さんに伝えておいて。いつまでも我慢してはいませんって」
 エレベーターを飛び出して、階段を一気に駆けおりて行く。——私はホッとした。
「どうかしたの?」
 と、お婆《ばあ》さんが、キョトンとして、私を眺めている。
 母が帰ったのは、もう夜中の二時近かった。
「——あら」
 居間に私が座っているのを見て、母はびっくりした。「まだ寝てなかったの?」
「ご挨拶ねえ」
 と、私はため息をついた。「こっちの心配も知らないで」
「私のことなら別に——」
「刺されたい? 恋人の奥さんに」
「何ですって?」
 母はポカンとしている。
「お母さん。——奥さんのいる人と付合ってるのね」
 母は、少しためらってから、肯《うなず》いた。
「そう。——でも、今、離婚の話し合いをしてくれてるのよ」
「その気、ないみたいよ」
「ここへ来たの?」
 やっと分ったらしい。
「そう。お母さんとけ《ヽ》り《ヽ》をつけるって、凄《すご》い形相でね。刃物を持ってたよ。大丈夫なの、その男?」
「まあ。——大変だわ」
 母は、ソファに腰をおろした。
「食事は?」
「済ませたわよ、もちろん。あなた——」
「おごらせた。お父さんに」
「お父さんに?」
「お母さん、お風《ふ》呂《ろ》は?」
「もう……いいわ」
 ということは、どこかでお風呂も済ませて来たってことだ。
「ねえ、奈々子——」
「私は構わないの。でも、その人、本当は離婚話、進めてないんじゃない?」
「そんなこと……」
「ともかくまた来るって。用心してよ。向うは相当カッカ来てるから。——じゃ、寝るわ」
 私は手を振って、自分の部屋へ引っ込んだ。
 ベッドへ潜り込んで、ウトウトしかけていると、
「——お父さん、元気そうだった?」
 と、母の声がした。
「うん……。一人だってね、今」
「そうらしいわ。じゃ、おやすみ」
「おやすみなさい」
 私は、目を閉じた。
 ——忙しい一日だったけど、明日の方が、もしかしたら、もっと……。
 私は、矢神貴子のことを、この時には、ほとんど忘れかけていたのだ。

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