13 不幸の足音
「いや、暑い!」
鍋《なべ》をつついているせいか、それともあ《ヽ》が《ヽ》っ《ヽ》て《ヽ》いるせいか、黒田という男は、しきりに汗を拭《ぬぐ》った。
上衣はとっくに脱いでしまっている。
小さな座敷での鍋物は、冬なら良かっただろうけれど、この季節には少々暑かったかもしれない。
だが、妙に取りすましたフランス料理なんかおごられるより、ずっとこの黒田という人にはふさわしい感じだった。
「もっと食べてくれよ。残しても仕方ないからね」
と、黒田は言った。
「もうお腹一杯」
と、母も顔を真赤にしている。
「じゃ、奈々子君は?」
「私も、もう……」
「若いんだから、そんなこと言わないで」
そう言われたってね。十七歳の乙《おと》女《め》としては、「太る」ってことも考えなきゃいけないんだから!
「ちょっと——」
と、母が座敷から出て行く。
私は、黒田と二人になっても、大して気詰りではなかった。これはまあ、いいことかもしれない。
「——奈々子君」
と、黒田が言った。「改まって言うのもおかしいけど——」
「おかしいです」
と、私は言った。「でも、母にしては、なかなかいい選択だったと思います」
黒田は嬉《うれ》しそうに笑った。
「いや、君は本当にしっかりしてるね」
「母が子供みたいな人だから」
と、私は言ってやった。「でも——奥様がいらっしゃるんでしょ?」
「迷惑をかけたらしいね。すまなかった」
「そんなこといいんです。でも、やっぱり、刺されたりするの、好きじゃないから」
「妻とは、話し合って、別れることになったんだ。向うも、もう落ちついている」
「そうですか。それならいいんですけど」
と、私は言った。「でも、ずいぶん若い人ですね」
「ちょっと子供っぽいところがあってね。見合い結婚なんだが……」
「子供さんは?」
「子供はいない。——ま、それも、うまく行かなくなった原因の一つなんだけど」
「原因まで私に話すことないです」
「そうだね」
と、黒田は笑って、「君のお母さんとは、七つほど年齢が違う。でも、本気で愛してるんだ。必ず幸せにしたいと思ってる」
「ふつつかな母をよろしく」
と、私は頭を下げた(!)。
母が戻ったので、私は入れかわりに座敷を出て、また有恵の家へ電話してみた。
——誰も出ない。
もう九時に近いというのに。何だか、気になったが、どうすることもできなかった。
仕方なく、私は座敷に戻った。
母と黒田が、「幸せそのもの」という顔で、笑っている……。
その後、マンションへ戻ったのは、もう十時半になろうとするころだった。
黒田は車でマンションの前まで送ってくれた。
「——ごちそうさまでした」
と、母が車を出て言った。
「いやいや、僕の方こそ、とても楽しかったよ」
「どうも」
と、私はアッサリ言って、「お母さん、お二人で話があるのなら、先に帰ってるけど、私」
「もう遅いわよ。——ねえ」
母が黒田に向けた目は、そんなことないよ、と言ってほしがっていた。
「明日は奈々子君も学校だろう? また電話するよ」
「ええ、そうね」
母は、明らかにがっかりしていた。
「じゃ、おやすみ、奈々子君」
「おやすみなさい」
母は黙って、手を振って見せた。
黒田の車が遠去かるのを、母はかなり未練がましく見送っていたが、やがてすっかり見えなくなると、
「さて!」
と、気を取り直したように、「お風《ふ》呂《ろ》へ入って、寝ましょうか」
「まだ早いわよ」
エレベーターの方へ歩いて行きながら、私はまた不安になっていた。
母は、何も感じていないようだったが……。
今の黒田の態度が、私には、気にかかったのである。
母は、明らかに、黒田に寄ってほしがっていた。黒田にも、それが分らなかったはずはない。
それなのに、黒田は——いや、明日が仕事で早いとか、何か理由があるのならともかく、私のことを持ち出して、寄るのを断ったのだ。
あれは「理由」でなく、「言いわけ」である。
つまり、他に、寄って行けない本当の理由があって、それを母には言いにくかった、ということだ。
気に入らなかった。——私には全く気に入らなかった。
「——あなたとも、うまくやれそうだ、って喜んでたわ」
と、母がエレベーターの中で言った。
「私はどうでもいいわ。お母さんの旦《だん》那《な》さんなんだから」
「すぐそんなこと言って」
と、母は笑った。
「——ねえ」
「え?」
「本当にあの人、奥さんと別れる話を進めてるの?」
「もちろんよ。今日だって、弁護士さんの所から来たのよ、あの人」
「ふーん」
「どうしてそんなこと言うの?」
「別に」
と、肩をすくめて見せ、「気になっただけよ。お母さん、お人好しだから」
「変なこと言わないでよ」
と、母はむくれてしまった。
「ごめんごめん」
私は、少しおどけて見せた。
全く!——世話の焼ける親だこと!
部屋へ入ったら、電話が鳴っていた。私は靴を脱ぎ捨てて、走った。
「——はい」
「あ、芝奈々子さん……ですか」
「はい。今井さんですね」
「ええ。——色々、あなたにご迷惑をかけたようで」
「そんなことありません。あの——有恵さんは大丈夫ですか?」
「それが……」
と言いながら、有恵の母、今井由樹は泣き出してしまった。
「もしもし。——有恵さん、どうしたんですか?」
「あの……家を出て、ふらついてるところを保護されたんですけど……」
「じゃ、無事に?」
「入院しました」
「——入院?」
「ノイローゼというか……。何だか、わけの分らないことばかり言って……。入院させるしかないとお医者様が——」
「じゃ、学校の方は?」
「先生にお電話しました。自主的に退学すれば、火事の責任は問わない、とおっしゃって……」
「火事の責任って……。あれは、本当に有恵さんがやったんですか?」
「本人は、絶対に違うと言い続けていました。でも——もう分りません」
と、涙声で、「どうでもいいことですわ。——もう、早く忘れて……」
「そうですね」
としか、私にも言えなかった。「有恵さんは、どこの病院に?」
「——たまには、見舞ってやって下さいますか?」
「もちろんです!」
「ありがとう……。有恵は、あなたのことだけを頼りにしていました」
「そんな……。何もできなかったのに、私——」
「もし、会われても、あの子はあなたのことが分らないかもしれません」
そんなに……。私は暗然たる気持にさせられた。
「構いません」
と、私は言った。「すぐ良くなりますよ。明日、行きます、学校の帰りに。場所を教えて下さい」
「え、ええ……。でも、どうぞ、無理なさらないでね……」
「無理します。それが友だちですから」
今井由樹の声は、やっと明るくなって、
「じゃ、申し上げますね。——割と近くなんですよ……」
もうその声は、涙声でなくなっていた……。