14 二つの頼み
「——どうした」
と、喫茶室へ入って来た父は、私の前の席に座って、言った。「何かあったのか」
私は制服姿で、父の職場へやって来たのだった。
「頭痛で、早退」
「さぼりか?」
「これも、人のためよ」
「何か注文したか?」
「その辺はぬかりない」
と言ったとたん、ドサッと山盛りのフルーツパフェが置かれた。
父は笑って、
「その元気なら大丈夫だな。——僕はコーヒーだ。何の話だい?」
「一つはね、いい病院、知らない? ノイローゼとかの」
「お前が入るのか」
「それはその内。今は友だちなの」
私は、有恵のことを、説明した。
「——そんなことがあったのか」
父は眉《まゆ》を寄せて、「あの学校でもか」
「どこも同じじゃない? ただ目立つか、目立たないかの違いで」
「お前はクールだな」
と、父は苦笑した。「今、入院してるんだろ?」
「専門病院じゃないの。だから、そういつまでも置いてくれないんですって」
「なるほど」
父は肯《うなず》いた。「——父さんの大学の時の友だちが、確かよく知ってるはずだ。訊《き》いてやるよ」
「お願い! ちゃんと治してくれて、きれいで、近くにあって、看護婦さんが親切で」
「おいおい」
「それで安い所ね。何しろ、お母さんが働いてるんだから、あんまり高い病院じゃ、入れておけないわ」
「難しい注文だな」
と、父は笑った。「ま、お前の頼みだ。それに何とか近い条件の所を捜してみよう」
「よろしく」
私は、フルーツパフェを食べながら、「もう一つは、お母さんのことなの」
「母さんがどうした?」
「この間、黒田って人に会ったでしょ。どう思った?」
「うん……。まあ、真面目そうだし、優しそうじゃないか」
「同感。でもね、心配なの。お母さんに嘘《うそ》ついてんじゃないかと思って」
「嘘」
「離婚に、奥さんも同意したって言ってるのよ。でも、私、そうは思えない」
私が、あの夜の印象を説明すると、父は目を丸くして、
「お前、いつの間に心理学者になったんだ?」
と、言った。
「からかわないでよ。真剣なんだから!」
「分ってる。からかってるんじゃないよ。感心してるんだ」
「お父さん、どう思う?」
「うむ。——お前の印象が正しい可能性は、充分ある」
と、父は肯いた。「黒田って男が、悪い奴だとは思わん。しかし、優しい人間ってのは、どっちも傷つけまいとして、結局、自分で自分を困った立場に追い込んで行くことが多いからな」
「うん、分る」
「母さんは、年齢《とし》は取っても子供みたいなもんだ。あの黒田を、信じ切ってるだろう」
「お父さん、馬鹿らしいと思うでしょうけど、黒田って男のこと、調べてよ」
「いいとも。馬鹿らしいことなんてあるもんか」
父は即座に言った。「母さんにも、お前にも幸せになってほしいんだ」
「話が分るね!」
私は父の肩をポンと叩《たた》いてやった。
「しかし、いいか、このことは母さんには内緒だぞ」
「もちろんよ。——また私から電話かけるわ」
「分った」
——私は、フルーツパフェを平らげて、喫茶室を出た。
大分、気持が軽くなっていた。
正直、有恵を見舞うのは、気の重くなる仕事だったのだ。
有恵は、一応私のことも分っているようだし、会えば少しはしゃぐのだが、その内、何だか私に借りた物を返していないと言い始めて、いくらなだめても、納得せず、しまいには泣き出してしまうのだった。
——こういう病気は、気長に接するしかない。医者にはそう言われたが、有恵をあそこまで追い込んだ人たち——乱暴していた三年生も含めて——を許す気には、とてもなれなかった。
「——君、芝君だろ」
地下鉄の駅への通路を歩いて行くと、声をかけられた。
「あ——永倉さんですね」
矢神貴子にひっぱたかれた永倉重夫である。
「君、どうしてこんな所に?」
「父が、おたくの部長でして」
「え? 君、田中部長の?」
と、永倉は目を丸くした。「知らなかった! 参ったな!」
「別にいいじゃないですか」
と、私は笑った。
「それは失礼したね。——君、貴子から僕のことを……」
「別に聞いてません。もう、矢神さんとは別れたんでしょ」
「うん。結婚祝にって、凄《すご》いカーペットが届いた。あいつらしいよ」
「矢神さんが?」
「電話で話した時は、至って冷静だったよ。それに、当人も忙しいと言ってた」
「選挙でしょ。生徒会長の」
「そうそう。そんなこと言ってたな。——そういえば君の話が出たよ」
「私の?」
「うん。『この間、うちでも会った芝さんって子が、対立候補なの。強敵よ』と言ってたよ」
「そんなの冗談ですよ」
と、私は笑って言った。「当人が立候補しないのに」
「そうか。ま、あれと争わない方が賢明だと思うよ。——じゃ、また」
「どうも」
永倉も、矢神貴子との間がスッキリしたせいか、それともやはり仕事中だからだろうか、こうして見ていると、なかなか切れる二枚目って感じがする。
——それにしても、あの人もしつこい。
誰が立候補なんか!
地下鉄に乗った私は、時計を見た。
ちょうど今から帰れば、いつも通り学校を出たのと同じくらいだ。いちいち母に早退した、と話すのも面倒だったのである。
——秋になり、学校生活も忙しくなって来る。
色々、気にかかることはあっても、それなりに学校は楽しかった。
しかし——それも長くは続かなかった。
早退したこの日、私の知らない内に、誰かが、私の「生徒会長選挙、立候補届」を出していたのだ……。