16 一年生
私が沈み込んでいるのに、母はまるで気付かなかった。
それは、しかし幸いでもあったのだ。母に相談したところで、学校の内情を分ってくれているわけでもなし、何の役にも立たなかっただろう。
それから、立候補の届出締切までの一週間は、何ともいえず長い日々だった。
私は、何度も担任の吉田浩代の席へ足を運んだが、向うは、
「担当じゃないから」
と、逃げるばかり。
担当の教務主任に会おうとしても、
「忙しくて」
と、会ってくれない。
恋人に振られる時ってのは、こんな気分なのかな、と考えたりしていた……。
私に比べると、母の方は、対照的に盛り上っていて、ほとんど一日おきに、「愛《いと》しの黒田さん」と会っているようだった。
「——そろそろ本決り?」
と、その日、夕食の時に、言ってやると、
「え? まあね」
と、母は、ニコニコしている。「でも心配しないで。ちゃんとあなたのことも考えてるから」
「ご親切に」
と、私は言ってやった。「で、何を考えてるの? ハネムーンに連れてってくれる、とか?」
「どうしようかと思ったんだけど……」
と、真顔で言うので、
「やめて! 冗談よ。私、一人で大丈夫だから」
「心配よ。だから、一時、お父さんの所にでも、と思って……。あなた、いや?」
「いやじゃないわよ。でも——それきり、帰って来なくていいよ、とか言い出すんじゃないの?」
「まさか」
と、母は笑った。
私は食事を続けながら、
「今日の、いい味だね。——で、黒田さんの方はすっきりしたの?」
「すっきりって?」
「離婚のことよ。もうすんだの?」
「今、弁護士さんを入れて、どう分けるか、相談してるらしいわ。私は、全部奥さんにあげて来ちゃえば、って言ってるんだけど」
「気《き》前《まえ》いいんだ」
「だって——ある意味じゃ、申し訳ないことしてると思うから、やっぱり」
申し訳ないこと、ねえ……。
あれから、あの奥さんが刃物を持って現われる、ってことはなかったから、まあ、実際に黒田って男も、別れる話を進めてはいるのかもしれない。
「それでね、結婚式を、今年の暮れにでもあげようかと思ってるのよ」
「ええ?」
私は目を丸くした。「何よ、だしぬけに、そんな」
「まずかった?」
と、母が急に情ない顔になる。
この顔を見ると、だめとは言えないんだよね、もう……。
「構わないけど、別に」
「良かった! じゃ、早《さつ》速《そく》、どこか捜さないとね」
「派手に披《ひ》露《ろう》宴《えん》とかやるの? 高さ何メートルのケーキにナイフを入れて、とか」
「芸能人じゃあるまいし」
と、母は笑った……。
——母が先にお風《ふ》呂《ろ》へ入って、私がTVを見ていると、電話が鳴りだした。
「——はい」
「奈々子か」
「お父さん!」
「母さんは?」
「今、お風呂だよ」
「そうか」
「後でかけようか?」
「いや、そうじゃない。きっとこの時間、母さんは風呂だろうと思って、かけたんだ」
「へえ、さすが」
と、私は言ってやった。「やっぱり、元夫婦だね」
「からかうな」
と、父は苦笑した。「お前、明日は時間がとれるか?」
「夜中の十二時ごろなら六《ろつ》本《ぽん》木《ぎ》辺《あた》りにいるけど」
「おい——」
「冗談よ。こっちも、会って話したかったの」
「そうか。じゃ、帰りにこっちへ寄ってくれないか」
「事務所の方に?」
「この間の喫茶店で六時にどうだ」
「結構。——でも夕ご飯は、お母さんと食べないとね」
「長くはかからん」
「分った。じゃ、明日ね」
私は電話を切った。
ちょうど母がバスタオルを体に巻いて、現われ、
「電話?」
「うん。友だちから」
「そう」
「黒田さんじゃないわよ、残念ながら」
「何よ」
と、母は少し赤くなった。
いや、お風《ふ》呂《ろ》上りで、もともと赤かったのかもしれない。
「私も入って来よう、っと」
ピョンと立ち上って、私はバスルームへと歩いて行った。
お風呂から上ると、母が立っていた。
「何? 娘の湯上り姿の色っぽさに見とれてるの?」
「何言ってんの」
と、母は吹き出してしまった。「お客様ですよ」
「私に?」
「ええ、学校の方」
「学校のって……」
「竹沢さんとか」
竹沢千恵。——私と組んで立候補したことになっている一年生だ。
でも、私は会ったこともなかった。
「分ったわ。じゃ、待っててもらって」
「お茶を出しとくわ」
私は急いで髪を乾かし、服を着た。
居間へ入って行くと、ピョコンと小柄な女の子が立ち上った。
「竹沢さん?」
「はい。竹沢千恵です。よろしくお願いします」
見《み》憶《おぼ》えはあった。何といっても、小さな学校である。
下級生でも、顔ぐらいは見ている。ただ名前と一致しないのだ。
竹沢千恵は、高校一年というより、中学一年といってもおかしくないくらい、「可愛《かわい》い」感じの子だった。
小柄で童顔。メガネをかけたところは、何だかマンガの主人公だ。
「妙なことになったわね」
と、私は言った。「立候補のこと、知ってたの?」
「いいえ、全然」
「じゃ、あなたも?——一体誰が出したのかしら」
「先輩もご存知ないんですか?」
「ええ。——ね、その『先輩』っていうの、やめてくれない?」
「はい」
と、ペロッと舌を出す。
何とも可愛い。つい笑ってしまう。
「迷惑な話よね。何度も先生にかけ合ってるんだけど」
「私もです。でも、むだみたい」
「といって……。矢神さんも立つわけでしょう」
「今日、矢神さんの届が出たそうですよ」
「そう。——他には?」
「いません。二組の争いで」
「争う気なんか、全然ないのに」
と、肩をすくめた。
「でも、取り下げは認めてくれないと思います」
「どうして?」
「選挙は、社会科の勉強の一つ、ということになってるんですもの。無投票で当選したんじゃ、選挙になりません」
「だからって、私たちが恥かくわけ?」
「矢神さんはそれが楽しいんだと思いますけど。圧倒的な差で、自分が勝つっていう気分が」
私は、ちょっとびっくりして、
「竹沢さん。あなた、矢神さんのこと、知ってるの?」
「有名ですから」
と、言って、竹沢千恵は少し間をおいて、続けた。
「それに、うちの父の会社は、矢神さんのお父様の会社の子会社です」
「へえ」
「芝さんは、転校されて来たばかりだし。——そういう二人を組合せたのが、あの人らしいところですね」
可愛《かわい》い外見に似ず、しっかりした子らしい。
「で、どうする?」
と、私は言った。「どうせ、矢神さんには勝てっこないし」
「そりゃそうです。でも、馬鹿にされっ放しっていうのも、しゃくじゃありません?」
「うん……」
「やれるだけはやらなきゃ、と思ってるんです」
「やるって……?」
「正々堂々と闘うことです」
と、竹沢千恵は言った。
「選挙運動をやるわけ?」
「いずれにしても、演説会とかは、規定で、やらなきゃいけないんですよ。だから、何もしないわけにはいきません」
「そうか。——苦手なんだけどね、私」
と、ため息をつくと、
「でも……」
「え? なあに?」
「私、矢神さんより、芝さんの方が、会長に向いてると思います」
私は、ちょっと面食らったが、
「ありがとう」
と、笑って言った。「じゃ、諦《あきら》めて、やるしかないか」
「精一杯やりましょう!」
何となく、この子を見ていると明るくなって来てしまうのだ。
私は、差し出された手を、つい、しっかりと握《にぎ》っていた。
「——そうだ」
と、ふと思い付いて、「矢神さんの副会長は?」
「山中久枝さんです」
と、竹沢千恵は言った。