26 喧《けん》 嘩《か》
「うん、こりゃ旨い! いや、実に旨い!」
父はすっかり感激している。
「嬉《うれ》しい! どんどん召し上って下さいね」
と、千恵は飛び上らんばかり。「どうせ材料を買い込み過ぎて、どうしようかと思ってたんですから」
私は少々すねていた。
何しろ、自慢するだけあって、千恵の料理の腕は相当のものだったのだ。
父は、私より一つ年下の千恵が、こんなにおいしいものを作るというのに、心底びっくりしたようで、
「いやあ、今日は実にいい日だ!」
と、ご満悦。
一方、千恵の方も、台所でこっそりと私をつついて、
「芝さんのお父さんって、渋くて、すてきですね!」
「そう?」
と、そっけなく言ってやると、
「そうですよ。私、ああいう人、好みなんです」
と、大胆なことを言っている。
「いいけど、お鍋《なべ》、こげつかないようにしてよ」
と、わざと言ってやったりして……。
「今日、あのアンケート用紙とカセット、どこへ隠したんですか」
と、千恵が訊《き》いた。
「どうして知ってるの?」
「私の机もかき回されました」
「そうか……。どうせね、あんなこともあるかと思って、職員室へ寄って、教員用の郵便物の箱へ入れといたの。いくら矢神さんでも、あんな所を引っかき回したりしないでしょ」
「さすが! 頭いいですね」
「そうでもないわよ」
なんて、ついニヤニヤして、「で、帰り際に、またそこから出して来たわけ」
「後でまとめて、用紙とテープは処分しますか?」
「でも、取っとかないと。家の中なら大丈夫でしょ」
「そうですね。——金曜日のことが、心配だわ」
「自分のことも心配してよ。一人きりにならないように気を付けて」
「大丈夫です。まさか殺しゃしないでしょうし」
殺す?——私はドキッとした。もちろん、河井知子の殺された事件と、何の関係もないけれど……。
——さて、食事は無事に終り、デザートまで、千恵のお手製のチョコレートムース。
「全く、大したもんだね」
と、父は舌を巻いていた。
「私たち、仕事があるの」
「そうだったな。そろそろ帰るよ」
と、父は腰を上げた。
電話が鳴る。母かな、と思った。
「はい、芝です。——あ、ちょっとお待ち下さい。千恵さん。お宅から」
「うちからですか?」
千恵が当惑顔で、電話に出る。「——もしもし。——うん。——え? どうして?——でも。——分ったわ」
首をかしげながら、受話器を戻す。
「どうしたの?」
「すみません。至急帰って来い、って」
「まあ。それじゃ……。お父さん、彼女を送って行ってよ」
「いいとも。タクシーを拾おう」
「でも——」
「構わないんだよ」
「そうよ。ちゃんと送ってもらった方が、私も安心」
でも、遠慮しながらも、千恵は嬉《うれ》しそうだった……。
台所の片付けをして、明日までの宿題の残りをやってしまおう、と思った。
それから、アンケートやカセットの中身を、少し整理してみよう。母は、まだしばらく帰らないだろう。
——母の帰宅は結局、十時過ぎだった。
「ああ、くたびれた」
と、母はソファでのびてしまっている。
「式の前に死んじゃいそうよ」
「どうだった? いい所、見付かったの?」
と、私は訊《き》いた。
「内輪で、とはいってもね……。結局ホテルにしたの」
「暮に?」
「十二月の二十七日。——どうかしら?」
「冬休みだね」
「そう。一人で大丈夫?」
「男を引っ張り込む」
「何言ってるのよ」
と、母は笑った。
「じゃ、忙しいね」
「そう。——そうだわ……。こんなこと、してられない」
母は、いそいそと寝室へ入って行った。
「——好きにしてよ」
と、私は呟《つぶや》いた。
電話が鳴った。お父さんかな?
「もしもし」
「あ、竹沢です」
「無事に帰ったのね」
「ええ、まあ……」
「どうしたの? 元気ないのね」
「ちょっと難しいことになっちゃって」
「え?」
「いえ……。前にお話ししましたよね。うちの父の勤め先、矢神さんのお父さんの会社の——」
「子会社だったわね」
「ええ。それで、会社の上の人から父の方へ言って来たらしいんです」
「何を?」
「矢神さんの娘に楯ついてるようだが、本当かって」
私は唖《あ》然《ぜん》とした。
「——関係ないじゃないの! 選挙なのに!」
「そうなんですけど、父が大分言われたみたいで。こっちが散々文句言われて」
「そう」
「大ゲンカしてやりました」
と、千恵は笑って言ったが、辛《つら》いことは確かだろう。
私は胸が痛んだ。
「ねえ。——無理しないで。うちはともかく、あなたのお父さんが——」
「いいんです」
「でも……」
「父だって、分ってるんです。私の方が正しいってことは。だから、頭ごなしに怒鳴るんです」
「——申し訳ないわね」
「またあ。芝さんのせいじゃないですよ」
「でも……」
「手伝えなくてすみません。何か面白い結果、出ました?」
「これからやるところなの」
「じゃ、明日、聞かせて下さい」
「金曜日は、私、一人でやろうか」
「そんなこと! 大丈夫ですよ。父が怒ったら、『男を作るのとどっちがいいの』って言ってやります」
千恵の明るい言い方が、私には大きな救いだった……。
——自分の部屋へ戻って、私は机に向ったが、しばらくは何も手につかなかった。
これから、もっと何《ヽ》か《ヽ》大変なことが起るかもしれない。
学校で、そして家で。
そんな予感がして、ならなかったのだ。