29 演説会
「——凄《すご》いね」
と、私は言った。
矢神貴子の演説は、正に格調高く、立派なものだった。
「演説の仕《し》方《かた》」なんて本があれば、そのお手本になるような、出来栄えである。
学校の理念とか、校則とかも巧みに織り込んで、時には笑わせたりしながら、話を進めて行く。
しかし、その言葉も、私と千恵との運動に対する色々な妨害のことを思うと、何とも虚《むな》しい、ゾッとするようなものに聞こえてしまう。
「——上手《うま》いですね」
講堂の、舞台の袖《そで》で聞いていた千恵が言った。
「とってもかなわないわ。あの声!」
と、私はため息をついた。
よく通る、張りのある声。——それが、矢神貴子の大きな魅力の一つになっていることは、私も認めないわけにいかない。
「内容です」
と、千恵が言った。「学校の古い出来事とか、去年の旅行のこととか並べて。——芝さんのような新しい人はだめ、という印象を与えようとしているんですよ」
「なるほどね」
と、私は肯《うなず》いた。「私より、あなたが会長になった方がいいみたい」
「器《うつわ》ってものがあります、人間には」
と、千恵は真面目な顔で言った。
「ちゃんとしゃべれるかしら」
と、私は、原稿を見下ろして、言った。
「自信ないなあ」
矢神貴子は、原稿なしで、しゃべっているのである。
その時、
「——芝さん」
と、小さく呼ぶ声がする。
「何?」
と、歩いて行くと、一年生だが、あまりよく知っているとは言えない子が、立っていた。
しかし、昨日の校庭での集会にやって来て、熱心に話を聞いていた子だ。
「あの、今、ちょっとロビーで立ち聞きしたんです」
「立ち聞き?」
「三年生が十人くらいで。——芝さんの演説が始まったら、火災報知器を鳴らすって」
「何ですって?」
「大騒ぎになって、演説どころじゃなくなるだろうって。反対している人もいましたけど、ともかく、大声で野《や》次《じ》を飛ばしたりして、邪魔するつもりらしいですよ」
私は、ゆっくりと肯《うなず》いた。
「そう。——ありがとう」
「頑張って下さい!」
と、その子は、私の手を、ギュッと握りしめた。「私、芝さんに入れます」
そう言って、駆けて行ってしまう。
「——聞いた?」
私は千恵に言った。
「ちょっと待ってて下さい」
千恵が、ロビーへ出て行く。
すぐに戻って来て、
「——会場のあちこちに、矢神さんの取り巻きの三年生が、散ってます。何かやる気ですね」
と、言った。
「どうしたらいいかしら?」
「負けずにやるしか……」
「そうね。でも、火災報知器なんか鳴ったらけが人が出そうよ」
「困りましたね」
と、千恵が言った。「——あ、終ったみたい」
拍手が講堂を満たす。
——矢神貴子と、山中久枝が袖《そで》へ入って来た。
「ご苦労様」
と、私は言った。
「しっかりね」
矢神貴子は、微《ほほ》笑《え》んで、「山中さん、行くわよ」
と、さっさと行ってしまう。
——私は、竹沢千恵の肩をポンと叩《たた》いて、
「じゃ、行こうか」
と、言った。
司会役は、今の生徒会の副会長。——私と千恵の名が呼ばれ、舞台に出て行くと、ワーッと拍手が起った。
二人で並んで一礼し、千恵が少し後ろへ退《さ》がる。私は、マイクの前に立って、一つ大きく深呼吸した。
「生徒会長に立候補した、芝奈々子です」
と、私は言った。
その時、生徒の間から、
「旧姓田中でしょ!」
と、声が飛んだ。「ご両親の離婚の原因は?」
私は唖《あ》然《ぜん》とした。——そんなことを言い出されるとは、思ってもいなかったのだ。
無視しよう、と決めた。
「私は、みなさんもご承知の通り、この二学期からの編入生です」
と、私は語り始めた。
「裏口入学!」
と、野次が飛ぶ。
「いくら払ったの!」
私は、ゆっくりと呼吸を整えて、
「私たちの学校は、そんな不正を許していないと私は信じています」
と、言った。
拍手が起った。——その拍手は、どんどん大きくなった。
私は、ちょっと千恵の方を振り向いた。千恵がウインクして見せる。
これで私も気が楽になった。
「私は、いくつかの提案をしたいと思います」
と、私は続けた……。
「——お疲れ!」
私は、千恵と、グラスを触れ合せた。
といって、もちろんお酒を飲んでいるわけじゃない。オレンジジュースで乾杯である。
——帰りに、千恵は私の所へ寄っていたのだ。
「これからですね、選挙戦は」
と、千恵はすっかり張り切っている。
「でも、間に文化祭があるのよ」
そうなのだ。十一月の頭には、文化祭。
選挙のことも、しばらくは生徒たちの頭から消えてしまうだろう。
「だから、その間なんですよ」
と、千恵が言った。
「何が?」
「深く静かに、運動を進めるんです。一人一人に当って。——ねえ、あの矢神さんに対して反感持ってる人って、少なくないんですよね」
確かにそうだ。
しかし、問題は——矢神貴子のことを、面白く思っていないからといって、あえて逆らって私たちに投票してくれるかどうか、ということである。
「——さ、何か食べよう」
と、私は言った。
「また芝さんのお父さん、みえないかなあ」
「やめてよ」
と、私は苦笑した。
二人で、簡単に何か作るか、ということになり——結局、作ったのは、千恵の方だったが、ともかく少し早い夕食を、居間でTVを見ながら取ることになった。
「——でも不思議だな」
と、千恵が言った。
「何が?」
「芝さんのお母さん、何であんなすてきな人と離婚したんですか?」
「そりゃ父のせいよ。恋人ができてね」
「やっぱりね……」
と、千恵は肯《うなず》く。
TVでは、どこやらの車の事故のことを報じていた。湖に落ちて、乗っていた夫婦が死亡……。
少しして、電話が鳴った。
「——はい、芝です」
「奈々子か」
「お父さん。今、ちょうど千恵が来てるんだよ。——え? TV?」
「ニュースだ」
「ああ、車が湖に落ちたとかいうやつ? うん、見たよ」
「あの名前に見《み》憶《おぼ》えがあったんだ」
「誰か知ってる人?」
「黒田の妻の両親だ」
私は、言葉が出なかった。
「まず間違いない」
と、父は続けた。「上京して来る途中であそこに落ちたんだろう」
——二人とも、しばらく黙っていた。
「お父さん——」
と、私は言った。「本当に事故だったと思う?」