30 千恵の心理学講義
黒田の妻の両親が上京して来る。
それは、もし黒田が妻を殺していたとしたら、何としても防がなくてはならない、困った事態だろう。
そして、本《ヽ》当《ヽ》に《ヽ》、妻の両親は車ごと湖に落ちて、死んだ。
「——あの人は、会社を休んでたんでしょ? それなら、時間的には合うわけね」
と、私は言った。
「うん……」
電話の向うで、父が、いつになく重苦しい声を出した。「偶然で片付けるには、あまりに疑わしいことが多すぎる」
「私もそう思うわ」
「母さんは出かけてるんだな」
「たぶん、黒田と一緒よ」
「遅くなるって?」
「そう言ってたわ。——お父さん、どうする?」
父は少し黙っていたが、
「私がじかに黒田を問い詰めるしかないかもしれないな」
と、言った。
「でも、気を付けて!」
と、私は言った。「殺されるかもしれないよ」
「用心するさ。ただ、問題はそっちじゃない。黒田がどうなろうと、こっちは知ったことじゃない」
「うん」
「問題は母さんの方だ」
その点は私も同感だった。
何しろ母は、私以上に(?)子供のような、人を信じやすい人間である。
もちろん今は完全に黒田を信じ切っているわけで、その黒田が、妻を殺し、その両親まで殺した、などと知ったら、どうなるか……。
失神ぐらいじゃ、とてもすむまい。
「一緒の時に話をするか、それとも別々に話すか、だな」
と、父は言った。「そ《ヽ》の《ヽ》時《ヽ》には、お前の力も借りるかもしれない」
「分ってる」
「ともかく、今は母さんに気付かれないようにしてくれ」
「そうするわ。でも、あの女の人も殺してるとしたら、お父さんのことを、もう危険だと思ってるのよ。用心して」
「分ってる。——いくら何でも、そっちには危険はないと思うが、真相が分ったと悟ったら、やけになって、何をするか分らん。いいな、お前も気を付けろ」
「分ってるわ。じゃ、何かあったら連絡してね」
「ああ。あの料理の上《じよう》手《ず》な友だちによろしく言ってくれ」
父に言われて、私はハッとした。
黒田の妻の両親が死んだ、という、ショッキングなニュースに、すっかり千恵のことを忘れてしまったのだ。
電話を切って振り向くと……。
当然のことながら、「殺人」だの「女を殺した」だのという話に仰天して、呆《ぼう》然《ぜん》としている竹沢千恵が突っ立っていたのだった……。
「あ、あの——ごめんね、竹沢さん。つい、うっかりしてあなたがいること忘れちゃってさ、ハハ……」
と、私は笑って見せて、「——少し時間を戻して、目をつぶってられない?」
「無理です!」
と、千恵は即座に言った。
「でしょうね……」
私は諦《あきら》めた。
まあ、あれだけ色んなことを聞かされて、
「何も訊《き》かないで」
という方が無理ってものだ。
私が千恵だったら——他人の家には、それぞれ事情ってものがあるんだから、と諦める……わけがない!
脅迫してだって、全部を聞き出さなきゃ気が済まないだろう。
「芝さん」
と、千恵はぐっと迫って来る。
「何? キスしたい?」
千恵がジロッとにらむ。私はため息をついて、
「分ったわよ」
と、肯《うなず》いた。「何から話そうか?」
「初めから!」
と、千恵は言った。
「——大変じゃないですか!」
私があらかたの事情を話し終えると、千恵はすっかり興奮した様子で、「選挙なんてやってていいんですか? のんびりご飯なんか食べてて——」
「食べるぐらいいいでしょ」
と、私は言った。「ともかく、そんなわけなのよ」
千恵は肯いて、
「その男、きっと奥さんを殺したんでしょうね」
と、言った。
「たぶんね。——父の所にいた恋人も、それから奥さんのご両親も、としたら——四《ヽ》人《ヽ》よ! 四人も殺すなんて」
私は、ちょっと信じられないような気分だった。「そんなに悪い人には見えないんだけど」
「そんなに悪い人じゃないか《ヽ》ら《ヽ》、殺したりするんですよ」
千恵の言葉に、私は戸惑った。
「どういう意味?」
「もともと、そんなにずる賢い男なら、うまく遊ぶか、奥さんと上《じよう》手《ず》に別れますよ。それができない、きっと気の優しい、弱気な人なんです。そして見栄っ張りで」
「よく分るわね」
「奥さんにも離婚を切り出せない。一方で、芝さんのお母さんとは結婚の準備まで進めてしまう。——どっちの女性も、嘆かせたくないと思うから、ますます泥沼にはまって行くんですよ」
「そうね」
「その内、奥さんの方がそれに気付いて、芝さんのお母さんの所へ行く。——それを知って黒田って男がカーッとなる。こういう男は、自分中心ですから、妻が自分の思いやりをぶちこわした、と取るんです。で、言い合いの末に、首を絞めて——かどうか知りませんけど、殺す」
「なるほどね」
「体育祭の日に、黒田はお父さんに会って、これは騙《だま》せない相手だ、と気付いたんだと思います。お父さんがあれこれ調べているのを知って、妻殺しの罪を暴かれるのが怖くなり、お父さんを殺そうと決心する……」
「で、別の女を殺してしまう、か」
「二人も殺すと、もう後は同じです。妻の両親が上京して来ると知って、簡単に決心したんだと思いますわ。二人だって四人だって同じだ、と」
——私は、少し圧倒されていた。
「あなたって、心理学か何かやってるの?」
と、私は訊《き》いた。
「いいえ」
千恵は首を振った。「うちの父が——」
「まさか」
と、私は目を丸くして、「奥さんを殺したわけじゃないんでしょ」
「そりゃそうですけど。やっぱり、似たようなタイプの人です」
「じゃあ……」
「やっぱり一時、女の人ができて、あんまり家に帰らなかったことがあるんです。その女性にも、うちの母にも、謝ってばかりいました。——もう、見てるのが辛《つら》いくらい」
「へえ」
「結局、会社の上役でいい人がいて、間に入って、そっちの人と父を別れさせてくれたんです。情ないなあ、とか、子供心に思いました。でも、父は優しいんです。だからそうなっちゃうんです」
「なるほどね……」
私は、一見呑《のん》気《き》そうな竹沢千恵が、意外に色んな苦労をしてきているんだ、と分って、少々気恥ずかしいような思いだった。
何といっても、私の所では、両親は別れたものの、別に憎み合っているわけじゃないのだ。
「でも、むずかしいですね」
と、千恵は言った。「その黒田って男、よっぽど用心しないと」
「凶暴になる?」
「それもそうですけど、たとえば、お母さんを道連れに心中とか——」
「ええ?」
「やりかねませんよ。気が弱いでしょうから、逮捕されるくらいなら、死のう、と……。でも一人じゃ怖いとか」
「そうか……。じゃ、警察に逮捕してもらうまで、こっちで下《へ》手《た》に手を出さない方がいいわね」
「同感です。でも、急がないと。——もしも、本当に四人も殺しているんだったら、何でもやりかねないですよ」
「うん」
「お母さん——もし、本当にその男の子供ができてるんだったら、辛《つら》いでしょうね」
そう。母のためにも、そうゆっくりはしていられないのだ。
私は、たとえ母にとってはショックでも、一日も早く、黒田の正体を暴く必要がある、と思った。