36 マンション脱出
黒田からの電話!
私は息を殺して、母の顔を見つめていた。
「——ええ、今、ここに警察が。——聞いたわ。もちろん信じないわ、そんなこと。あなたにそんなことができないってこと、私にはよく分ってるもの」
母の口調は確信に満ちていた。
こんな時でもあり、それに私も父も、黒田がおそらく犯人に違いないと思っていたのに、私はその母の言葉に胸を打たれたのだった。
「——どうしたらいいの、私?——何を言ってるの。私はあなたについて行くわ。何でも言って」
ちょ、ちょっと待ってよ! 私はびっくりしてしまった。
「——ええ、分ったわ。ちゃんとお金を持って行きます」
お母さん! 私は母に向って強く首を振って見せたが、母の方は全く無視している。
「——ええ。——よく分ってるわ。ちっとも迷惑なんかじゃないのよ。——それじゃ」
母は電話を切った。
「お母さん!」
「ね、奈々子」
と、母はきっぱりとした口調で言った。「あなたの言いたいことは分ってるわ。でもね、お母さんはもう大人よ。自分のしていることはよく分ってるの」
「どうする気? 逃げたって、すぐに捕まっちゃう」
「でも、あの人は一人じゃだめなのよ」
と、母は言った。「一人じゃ、どうしていいか分らない人なの。逃げるか、出頭するか……。もちろん、とんでもないぬれぎぬよ。でも、あの人一人じゃ、ただ、どこかでじっと隠れてることしかできない」
母の言い方は、少しもヒステリックではなく、別人のように冷静で、落ちついていた。
「ともかく、あの人に会うわ。そして、ゆっくり話し合うの。——どうするのが一番いいのか。その上で、決めるわ」
私は、ちょっと間を置いて、
「もし——逃げよう、ってことになったら、逃げるの?」
「そういうことになるわね」
母はあっさりと言った。私は、母がこんなにもきっぱりと決断するのを見たのは、初めてだった。
「でも、心配しないで。すぐに本当の犯人が捕まるわよ」
この楽天家ぶりは、母らしいところで、私も、少しホッとした。
「でも、お母さん。今、お父さんがこっちへ来るわ。それまで待ってよ。ね、一人じゃ無理だから」
「いいえ」
母は微《ほほ》笑《え》んで、「お父さんはきっと私のことを止めるわ」
そりゃそうだろう。
母はさっさと寝室へ入って行く。あわてて追いかけて行くと、母は洋服ダンスの奥の方から、スーツケースを引張り出し、中に下着だのタオルだのを詰め始めた。
この手早さ!——恋というのは、本当に偉大なもんだ、と私は思った。
いや、感心してる場合じゃない。何とかしなきゃ!
出かける仕度をしている母は、見たところ、楽しそうでさえあった。
たぶん——そうなのだろう。「楽しい」と言うと妙だが、母は、いつもしっかりした父のそばにいて、「頼りない人」だったのだ。
それが、黒田に出会って、初めて母は、「頼られる人」になった。——あの人を守ってあげなくちゃ、と母は張り切っているのだ。
しかし、母の心理分析をやったところで、状況は良くならない。
母が黒田と逃亡して逮捕されたら……。母も殺人の共犯ってことになるかもしれない。それは何としても避けなくては……。
「でも、お母さん」
と、私は言った。「表は刑事が見張ってんのよ。どうやって出て行くの?」
「ああ、そうね」
と、母は、やっと気が付いた様子。
呑《のん》気《き》なんだから!
「——いい方法があるわ」
と、母は言った。
「やめること?」
「いいえ。誰かが刑事の注意をそらしてくれればいいのよ」
「注意をそらすって……。誰が?」
母が、当り前の顔で私を見つめる。——冗談じゃない!
「いやよ、私」
と、頑として腕を組み、「絶対にそんなこと、やらないからね! 冗談じゃないわ! わざわざお母さんが捕まるのに手、貸すようなこと、できっこないでしょ! 当り前じゃないの……。全く、もう……」
マンションの前にタクシーが来た。
私は、母の方を振り向いて、
「本当に、どうしてもやるの?」
と、訊《き》いた。
「やるのよ」
母は堂々と(?)言い放った。「そんな情ない顔しないで、結構良く似合うわよ」
情ない顔をしたくもなろうってもの。だって、母の地味なスーツに母のコートをはおり、頭からネッカチーフをかぶって、すっかり「おばさん」になってしまっていたからである。
まあ、もちろん今はこんなことを言っている場合じゃないことは分っている。でもね、十七歳の乙《おと》女《め》としては……。
「さ、行って!」
ポンと母に背中を突かれた私は、重い足取りで、マンションから出て行った。
タクシーのドアが開くと、私はいかにも人目を避けるように頭を低くして、さっと乗り込んだ。
「ええと——東京駅」
と、運転手に言うと、声を聞いてびっくりしたのか、
「ずいぶん若い人だね、老けてる割には」
と、わけの分らないことを言っている。
「早く行って!」
タクシーが走り出すと、私はチラッと外を見た。
見張っていた刑事が、あわてて駆け出すのが見える。どうやら、うまく引っかかってくれたようだ。
——この後、もう一台、タクシーを呼んである。母は、刑事がいなくなってから、悠々とマンションを出る、というわけだ。
このタクシーは、あの刑事がナンバーを見ているだろう。
少し走ったところの駅の近くで、
「あ、そこでいいです」
と、私は言った。
「え?」
運転手が面食らって、「東京駅へ行くんじゃないの?」
「そこ、駅です。東《ヽ》京《ヽ》の《ヽ》駅《ヽ》ですから」
強引な理屈だ。——タクシーを降りると、私は、駅前のトイレに入って、コートを脱ぎ、スーツの上《うわ》衣《ぎ》も脱いで、手にした紙袋の中のジャンパーに替えた。
それから、バス停に並んで、バスでマンションの近くまで戻ることにする。
それにしても——これで良かったんだろうか?
母を、無理にでも引き止めておくのが、私の役目だったのかもしれない。
「ま、やっちゃったことは仕方ない」
と、私は呟《つぶや》いた。
バスは割合すぐに来て、マンションに戻った時、まだあの刑事の姿は見えなかった。
「——奈々子」
ロビーへ入ると、父が立っていた。「どこへ行ってたんだ! 部屋へ行っても誰もいないし、心配したぞ」
「ごめん」
「母さんは?」
「うん……」
私は、ちょっとためらって、「ね、部屋へ行って話さない?」
と、言った……。
——父は、部屋で私の説明を聞くと、
「何て無茶を!」
と、呆《あき》れ顔で言った。
「引っぱたかないの、私のこと?」
「どうして叩《たた》くんだ?」
「よくTVドラマでやるじゃない」
父は、ちょっと笑って、私の肩を軽くつかむと、
「お前の気持は分る。母さんのような人を、無理に止めれば、却《かえ》って傷つくだけだ」
「でも……。どうなるんだろうね」
私は、今さらのように、事態が深刻になっていることを痛感した。
「しかし、一つ分らないことがある」
と、父は言った。
「え?」
「誰が、黒田のことを警察へ知らせたのか、ということだ」
「それは私も不思議」
「刑事が来た時の話を、もう一度聞かせてくれ」
私は、刑事がここへやって来た時のことを詳しく話した。
「——ふむ」
父は肯《うなず》いた。
「何か、気が付くこと、あった?」
「一つある」
「なあに?」
「誰か知らんが、その通報した人間は、河井知子が殺されたことを、言っていない」
「あ、そうか」
「しかも、河井知子の場合は、隣の平田さんが、顔を見ているんだ。黒田とそっくりの……。黒田の妻のことだけでなく、両親のことまで知っている人間が、なぜ河井知子のことを知らないのかな」
「よく……分んないね」
父は、ゆっくりと息をついた。
「——ともかく、今はどうしようもない。母さんが何か連絡して来るのを待つしかないだろうな」
「じゃ——お父さん、泊ってく?」
「もちろんだ」
父が、微《ほほ》笑《え》んだ。私はホッとした。
父がいてくれる。——その安心感を、こんなにも強く感じたのは、初めてだ。