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アンバランスな放課後39
日期:2018-06-26 11:53  点击:315
 39 逆 転
 
 私は、くたびれ切って、マンションに戻った。
 もう四時近く、ということは、朝に近い、ということである。
「電話でもして来りゃね」
 と、玄関を入って、呟《つぶや》く。「黒田さんが人殺しじゃないかもしれないよ、って、教えてあげるのに」
 明り、点《つ》けっ放しだったっけ。
 靴を脱いで上ろうとすると、何かをけとばしていた。——ん? 男ものの靴。
 お父さんの靴じゃないし……。
 私は、母がはいて行った靴も、そこに並んでいるのを見て、自分の目を疑った。——帰って来てる!
「お母さん!——お母さん!」
 私は居間へ飛び込んだ。
 ソファに、母と黒田が横になって、眠り込んでいるようだった。私は、気が抜けてしまって、その場にしばらく突っ立っていたが……。
「そうだ!」
 父へ電話しよう。知らせてやらなくちゃ。
 父も、まだ起きていたようで、すぐに出た。
「お父さん?」
「奈々子か。どうした?」
「ご安心下さい。帰ってみたら、お母さんと黒田さんが、ソファで寝てるの」
「何だって?」
「ねえ、呑《のん》気《き》なもんよね。こっちに散々心配かけてさ」
 と、私は笑いながら言った。
「そうか」
 と、父は言って、「——二人とも、起きたのか?」
「ううん。ぐっすり寝てるよ」
 と、私は言った。「起こすのも可哀そうかな、と思って」
「起こしてみろ」
「え?」
「ただ眠っているだけならいいが、もし、二人が薬でものんでたら——」
 私は青くなった。そんなこと、考えてもいなかった!
「待って! ちょっと待っててね。このまま」
 あわてて母へ駆け寄り、思い切り揺さぶって、「——お母さん! 起きてよ! お母さん!」
 ——しかし、母は一向に目を覚ます気配がなかった。脈を取ってみると、一応打ってはいるが、弱々しく感じられる。
 私は受話器へ飛びついた。
「お父さん! 目を覚まさないよ!」
「すぐ救急車を呼べ。私もそっちへ行く」
 父がそう言って、「一一九番だ。いいな?」
 と、念を押す。
「うん。すぐかける」
 ——私は一一九番にかけて、救急車を頼んだが、その間、手から受話器が滑り落ちそうになるのを、必死で抑えていなくてはならなかった……。
 
 肩を軽くつかんで揺さぶられ、私は目を覚ました。
「——お父さん」
 首が痛かった。——病院の長《なが》椅《い》子《す》に座ったまま眠ってしまっていたのだ。
 もう、朝になって、病院は動き出し、看護婦さんたちが忙しく動き回っている。
「お母さんは?」
 と、私は訊《き》いた。
 父が、隣に座る。ひげを剃《そ》っていないので、ずいぶんくたびれて見えた。
「母さんは助かる。大丈夫だ」
「——良かった!」
 と、私は息をついた。「ずっと起きてようと思ったのに、眠っちゃった」
「当り前だ。学校へも連絡した方がいいんだろう?」
「うん。——今、何時?」
「もうすぐ八時だ」
「じゃ、事務の人、誰か来てるな。電話して来る」
「小銭あるか?」
「貸してくれる?——サンキュー」
 私は、立ち上がって、頭を振ってから、「お父さん」
「うん?」
「あの人——黒田さんは?」
 父が、ちょっと目を伏せて、
「死んだよ」
 と、言った。「薬の量は同じだったらしいが、体質的に弱かったんだろう」
「お母さん……そのことを?」
「いや。まだ母さんも意識は戻ってないからな」
「そう……」
 私は、病院の外来受付の近くの公衆電話へと歩いて行った。——黒田の死を聞いて、母がどう思うか、それに堪え切れるだろうか、と私は心配だった……。
 学校へ電話を入れ、休むことを伝えてもらうようにして、私は千恵の所へも、電話を入れておこうかと思った。
「ええと……竹沢さんの所、何番だったかしら」
 と、思い出そうとしていると……。
 診療は八時からだが、もう患者さんたちは次々にやって来て、順番を取って待っている。
 私は、ふと、正面玄関を入って来る女性に目を止めた。——見たことのある人。
 誰だろう? どこかで会った……。
 その女性は、案内の窓口に行って、何か訊《き》いている。
 私は、顔から血の気のひくのを覚えた。
 まさか!——でも、確かにあれは——。
「——待って」
 と、私は、小走りに駆け寄っていた。「あなたは……」
 振り向いたその女性は、私のことを思い出したようだ。
「あなた、娘さんね」
 と、黒《ヽ》田《ヽ》の《ヽ》妻《ヽ》は言った。
「どこにいたんですか、今まで!」
 つい、声が高くなっていたらしい。看護婦さんに、
「大きな声を出さないで下さい」
 と、注意された。
「黒田が——入院したって聞いて」
 私は黙って、先に立って歩いて行った。
 父が、医師と話しているのが目に入る。
「お父さん」
「学校へ連絡したのか」
「うん。——お父さん。黒田さんの奥さん」
 私は、わきへ退いた。
 父が、呆《ぼう》然《ぜん》として、黒田の妻を見つめていた。
「あの人——どんな具合ですか?」
「こちらへ」
 父は、黒田の妻を促して、長《なが》椅《い》子《す》の方へと歩いて行った。
「今、君のお父さんと話してたんだがね」
 と、医師が言った。「お母さんは、二週間ぐらいは入院していた方がいいと思う。精神的なショックもあるだろうから、できるだけ、家族の人が誰かついていてあげてくれると——」
 医師の言葉が、耳の外を流れて行く。——私は、父が黒田の妻に話をしているのを、じっと見ていたのだった。
 
「じゃ、結局、黒田さんは何《ヽ》も《ヽ》していなかったの?」
 と、私は言った。
「そういうことになる。——何てことだ」
 父は、ゆっくりと首を振った。
 病院の食堂へ入って、もう昼食の時間だったので、何か食べようかと言ったのだが、二人とも、目の前の定食に、ほとんど口をつけられなかった……。
「奥さんにしてみれば、黒田が、別れるとか別れないとか、はっきりしないので、いい加減ノイローゼ気味だったらしい。それで、古い友だちの所へ泊めてもらって、しばらく気持の整理をしたかった、ということだ」
「でも、連絡ぐらいすれば良かったのに」
「電話しても留守だった、と言ってる。——まあ、声も聞きたくない、という気持だったんだろう」
「だけど……。じゃ、奥さんの両親のことは?」
「よく分らないが、あれもたぶん、強盗か何かに襲われたんじゃないかな。黒田に、そんなことはできないよ、きっと」
「じゃあ……何も死ぬことはなかったのに」
「全くだ」
 と、父はため息をついた。「よほど気の弱い人間だったんだな。怯《おび》えて、逃げ回るのも怖かったんだろう。——たまたまお母さんが一緒なので、二人で死のう、と……」
 私は、あまりおいしいとは言えないスパゲティを、無理に口へ入れて、
「——お母さんに何て話すの?」
「私が話すよ。支えになってやらなくては」
「そうだね……」
 私は、もちろん母が助かって嬉《うれ》しかったが、事実を知ったら、きっと母は、一緒に死んでいれば良かったと思うだろう。
 そんな母に、どうすれば再び生きる力を与えられるだろうか。——私には、見当もつかなかった……。
「田中さんですね」
 と、看護婦さんが呼びに来た。
「そうです」
「芝千代子さんが、意識を取り戻されました」
 私と父は、急いで食堂を出た。——急ぎながら、足取りは、つい重くなっていたが。

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